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空に架かる橋  作者: 楓花
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第11章 瞳に映るもの(2)

 雫のついた濡れた髪をタオルで乾かしながら、マドカは玄関の扉を開けた。


「あれ、お前、風呂上り?」

 部屋着姿の化粧気のないマドカの顔を見るなり、智樹はいつものようにずかずかと部屋の中に上がり込んだ。


「智樹も何か飲む?」

 マドカはそう尋ねながらキッチンの冷蔵庫を開ける。

「いや、いい。何もいらない」

「そっか、じゃあ私、飲んじゃおっと」


 ビールを持って部屋に戻ると、智樹はソファに座ってテーブルの上に乗せていた雑誌の切り抜きを読んでいた。

 マドカはベッドの上に腰掛け、タブを開けて缶の縁に口をつける。


「あー、美味しい。なんでお風呂上りのビールってこんなに美味しいんだろうね、智樹」


 真剣な表情で切り抜きの内容を追う智樹の顔は、怒っているようにも曇っているようにも見える。


「智樹、どうしたの?」

「なんだよ、これ」


 読んでいた記事から目を離すと、智樹が紙切れを乱暴にマドカに向ける。

 それは数ヶ月前に、イギリスのある音楽雑誌に掲載されたロランのインタビューだった。マドカが無意識のうちに切り取ったそのページには、べっこう色のサングラスをかけてインタビューに応じるロランの写真があり、数ページにわたりロランが作詞に対する思いを述べていた。


 顔を歪ませた智樹を見つめ、マドカは思わず息を呑む。


「なぁ、マドカ」


 智樹は呆れたように瞳を伏せ、溜め息を浮かべてマドカを見下ろす。

 智樹の気に触ったのはロランの記事を残していることではなかった。おそらく、記事の見出しが気に入らなかったのだろう。ロランがインタビューで口にした言葉だ。





愛することで救われることもある。

けれど絶望を乗り越えるだけの光はない――。





「智樹、私…」

「なんでだよ…マドカ、なんでだよ、そんなにあいつが好きか?こんな男のどこがいいんだよ。お前を傷つけて平気でこんなこと言える男だぞ?どうかしてるよ、お前」

「違う…!智樹、違うの」

「何が違うんだよ!」

 智樹が声を張り上げると、マドカはぎゅっと瞳を閉じた。


 マドカは恐る恐る目を開ける。智樹の顔には怒りや憎しみより、どうしようもない諦めのような表情が浮かんでいた。


「俺は…、ずっとお前のこと信じてたよ。確信してたわけじゃないけど、いつかは俺のほうを向いてくれるって信じてた。俺だけを見てくれるって。期待してた俺がバカだったのかもな」

 静寂が二人を包む。

 窓の外では無数の星たちがロンドンの街を照らしていた。


「でもな、マドカ…こんな記事、取っておくな。何がボーカリストだよ、俺は心底裏切られた気分だね。お前がどんな想いでいたか、こいつは何も分かってないんだぜ?」


 智樹は紙切れの端に指を這わせた。そのまま記事を裂くつもりだった。


「やめて智樹!やめて…!」


 智樹の腕を掴むとマドカは堰を切ったように泣き出した。

 もうどうなってしまってもいい――。

 マドカは智樹の腕の中へ崩れ落ちるようにして泣いた。


 溢れる涙が頬を伝ってフローリングの床に落ち、その隣には智樹の手から舞い落ちたロランの記事が貼り付いていた。


 写真の中のロランは最後に会ったあの日よりもいくらか痩せて、伸びたブラウンの髪は彼の美しさをそのまま残していた。唇は閉じているけれど、口元にそっと浮かんだ微笑みは昔のままだった。

 ただ、サングラスの奥にある藍色の瞳だけが見えなくて、それがロランの表情を寂しく曇らせていた。


 智樹は肩を震わせて涙を流すマドカの身体にそっと腕をまわし、湿った髪を優しく包み込むように撫でた。


「忘れろよ、マドカ。早く…忘れような…」


 智樹の腕が躊躇いながらマドカの身体を包んでいく。満足に触れることもできないマドカの小さな身体を守るだけの長い腕と大きな手。

 智樹のシャツはマドカの涙でぐっしょりと濡れている。額を胸につけて息を詰まらせているマドカは、雨に濡れた仔猫みたいに震えていた。


「マドカ、俺が傍にいるよ。俺だったらお前をこんなふうに泣かせたりしない。俺がずっとお前の傍にいるから。泣くなよ…昔からお前の泣いた顔見るの、辛いんだよ。どうしようもないくらい抱きしめたくなるから…だからもう泣くな。お前だってもう疲れただろ?いつだって俺が幸せにしてやるから…」





 頬についた涙の跡を水で洗い流し、マドカは部屋に戻る。


「落ち着いた?」

「うん、ごめん…、ありがとう…智樹」

 マドカの泣き疲れた顔を目を細めて見つめると、智樹は立ち上がった。


「マドカ、俺そろそろ帰るわ」


 智樹の広い背中を玄関まで見送る。

 ドアノブに手をかけた智樹に、マドカが思い出したように声をかけた。

「…そういえば智樹、何か相談事があったんじゃないの?」

「あぁ、そのことならもういいって。俺の気持ちは全部話したから」

 智樹は振り返ると、いつもの微笑みでマドカに諭すように言った。


「おやすみ。寝坊しないように、早く寝ろよ」





   *



『ラ・ヴォワ・ラクテ解散~日本のロック界に翳り』

 カリスマ的な人気を誇るロックバンド、La Voie Lacteeラ・ヴォワ・ラクテが昨日、所属レコード会社を通じて解散を発表した。突然の解散発表に、ファンを含め各メディアとも騒然としており、レコード会社、公式ホームページには問い合わせのアクセスが殺到。また、一部のファンが暴動を起こすなど、警官が駆けつけるほどの騒ぎとなった。


 ラ・ヴォワ・ラクテは三年前、「天の川」というバンド名に因み、七日七日の七夕の日にメジャーデビューを果たし、十代から二十代の若者を中心に人気を集め、彗星のごとく現れたこのバンドはデビューから約半年で日本のロック界の頂点にその名を留めることになった。


 一昨年、年間二枚のアルバムと八枚のシングルをリリース。異例のスピードで発売された楽曲はすべてヒットし、日本の音楽界において驚異的な数字を記録。楽曲のリリースと並行して大規模なツアーを行う傍ら、各メディアに出演し、若者の圧倒的な支持を得てファンクラブの会員は十万人を越えたという。


 今春、英米で同時発売されたアルバムは合わせて五百万枚を売上げ、海外での活動も注目されていた。


 解散の理由は公表されていないが、メンバーの不仲説や追求する音楽性の不一致など、様々な噂が飛び交っている。


 今後の活動は七月七日、ラ・ヴォワ・ラクテ最後の楽曲となるシングル『La Voie Lactee』をリリース。解散ライブなどの予定はなく、デビューからこれまでのプロモーションビデオをすべて収録したビデオクリップがシングルと同時発売されるのを最後に、インディーズ時代を含め約七年間の短いバンド活動に終止符を打つ。


 レコード会社の話によると、解散後は各メンバーが独自の音楽活動を図る予定だが、ボーカル・ロランの活動は未定とのこと。日本のロック界の中核を担うカリスマバンドが下した突然の解散は、今後、国内だけでなく世界に波紋を呼びそうだ。


 ラ・ヴォワ・ラクテは三年間で四枚のアルバムと十七枚のシングルをリリースし、これまでに行ったライブの総動員数は…――





   *



 マドカがその記事を目にしたのは、大学の図書館に置かれた英字新聞だった。その日、イギリスのメディアでもラクテ解散のニュースが報道され、バンドの簡単な紹介とロンドン市内の若者の声を取材したインタビューが流れた。

 日本の人気ロックバンドの突然の解散は、海外の音楽シーンにも大きな波紋を広げているようだった。


 マドカには記事にあったような不仲説や音楽性の不一致が、解散の本当の理由ではないことぐらい簡単に予想できた。だからこそ、いったいどんな理由でタツが解散を決意したのか検討もつかず、戸惑いを隠せなかった。


 タツが夢にまで見たバンドが、こんなにも早く解散を迎えてしまうなんて嘘のような話だったから――。





 混沌とした頭を抱えてアパートに戻る。

 午後七時。雨粒を弾く窓の外には闇が広がり、通りを走る車の音が微かに聞こえてくる。


 枕元に置いたスタンドの柔らかな光を背に、マドカはベッドの上でぼんやりと宙を眺めていた。

 薄暗い部屋の床には数少ない家具とマドカの影が並び、スタンドの黄色いライトに無言のまま揺らめいた。


 ロンドンと日本の時差は九時間だ。

 夜が明けるのを待つわけにはいかない――。


 マドカは受話器を握り締めてダイアルを回した。





   *



 明け方だというのに電話に出たタツの声はおそろしいほどはっきりとしていた。


「タツさん…寝てました?今、そっちは朝の四時過ぎですよね」

「いや、ずっと起きてた。僕は毎日寝る間もないくらい忙しい」

 タツがいつもと変わらない調子で笑ったので、マドカはほっと胸を撫で下ろした。けれど、懐かしいその声を聞いた途端、切なさで息が詰まりそうになる。

 確かなリアリティーを帯びて突き刺さる。

 ラクテが解散する――。





「タツさん…」


「マドカちゃんにはデビュー当時からずいぶんお世話になったね。デビューして初めて受けた取材もマドカちゃんだった。僕らがこれまで自由に音楽をやってこれたのも、マドカちゃんや大勢の人たちに出会ったからなんだ。もしそうでなければ、僕らはここまで来れなかったかもしれない。ラ・ヴォワ・ラクテはここまで大きなバンドになれなかったと思うんだ」


 タツがそこで一呼吸置くと、マドカは受話器を持ち替えて伏せていた瞼をゆっくりと開いた。


「タツさん、私はラクテの音楽が好きでした。それは私がロランに恋をしていたとか、憧れだとか、そういうことじゃないんです。私はラ・ヴォワ・ラクテが好きだった。本当に…大好きだった。タツさんのベースもシンさんのギターも、カオルさんのドラムも、ロランの歌声も…、ラクテのすべてが大好きでした。ラクテの音楽はただのロックじゃない。人の心の一番深いところに浸透する特別な音なんです。私だけじゃない、誰もがそう思っているはずです。タツさん、あなたたちには何も恐れるものはない、そうでしょう?なのにどうして解散なんか…」


 なぜだろう…、あんなに大好きだったラクテの解散が悔しいほど悲しいのに、言葉が見つからない。

 言いかけたいくつもの言葉を飲み込んで、マドカは受話器を握り締める手に力をこめた。


「マドカちゃん、君はいつか僕とロランが結んだ契約について聞いたことがあったね。昔、ロランが僕に要求した、たった一つの条件のことだよ。覚えてる?」


 マドカは黙っていた。さっきよりも大ぶりになった雨が窓ガラスにぶつかり、耳障りな音を立てている。

「僕はその契約を無視するわけにはいかなかった。解散の理由なんてどこにもない。僕とロランの交わした約束が実現されただけのことだよ。でも、短すぎたね…いいバンドだったよ、ラ・ヴォワ・ラクテは僕にとって本物のバンドだった。僕にとってラ・ヴォワ・ラクテは、覚めない夢だった」


 タツは声のトーンを下げて淡々とした口調で話すと、溜め息にも似つかない息を吐いた。


 受話器の向こうにいるタツの表情は曇っているのだろうか。それとも、いつものように優しさを含んだ微笑みを浮かべているのだろうか――。


「マドカちゃん、僕がどうして手紙を書き続けていたのか、君には分かる?」


 マドカは受話器をきつく握り締めたまま、何も言わずに首を振った。


「僕はマドカちゃんに忘れて欲しくなかったんだよ。ロランのことを…忘れてもらいたくなかった。僕のことや、ラ・ヴォワ・ラクテっていうバンドなんて、いつでも忘れてくれて構わないんだ。もっと複雑に言えばボーカリストとしてのロランも忘れてしまってもいい。君が忘れたいと思うなら…忘れてしまえばいい。でも、君の隣にいたロランのことだけは忘れないで欲しい。君の笑顔を見て微笑む顔や、君に向けられた声やひとつひとつの表情や、君の前でしか見せない特別な仕草や…そういうものを遠く離れてしまってもそっと思い出して欲しかった。ロランと過ごした歳月を、君の記憶の中に留めて欲しかった…」


 表情の読み取れない電話のやりとりは、予想以上にマドカの心を疲れさせた。

 何もかもが灰色に歪んで霞んでしまう。指に巻きつけた電話のコードでさえ、その形をはっきりと確認することはできないくらい、闇にまぎれてしまいそうだ。


 込み上げるどうしようもない切なさに、押しつぶされそうになる。

 深呼吸を繰り返して、マドカは受話器を口元に近づけた。

「タツさん…、私はロランに何もしてあげることができなかったんです。私はロランの傍にいられるだけで幸せでした。私を笑顔にしてくれたのはいつだってロランでした。なのに、私は彼に何も与えることができなかったんじゃないかなって思うんです。ずっとロランの傍にいるって約束したのに、それも果たせなかった…。私、今でも真夜中になるとふと考えてしまう…ロランが私に愛想を尽かして離れていってしまったのも当然かもしれないなって。私は彼の隣にいて…一番近くにいたのに、何も理解することができなかったから…」


 まっすぐ伸ばしたはずの声がかすかに震える。

 瞼の裏側が熱くなって、一筋の涙が頬を伝う。

 深い悲しみはもう、どこかへ消え去ってしまったはずなのに。

 どうしてこんなに苦しいんだろう。

 私は一体どうしようというんだろう。

 今更気付いたって遅いのに…

 今更、こんなこと言ってもどうにもならないのに――。


 マドカは涙の筋を手のひらで拭い、大きく息を吸い込んだ。


「こんなことなら出会わなければよかった…彼に出会えたことが運命なら、こうして離れてしまったことだって運命なんです。月が欠けていくのとおんなじ…あらゆるものは形を変えて時を刻んでいくから…愛の形が変わるのも当然ですよね。それに気づかなかった私が間違っていたんです。傷つけてしまったのは私のほうかもしれません。タツさん…本当に辛かったのはロランのほうだったのかもしれない――」


 受話器を持つ手が震えて、声にならない言葉が放たれる。

 悔しいのか、悲しいのか、涙をこらえているのか、泣いているのか、私には分からない。

 私はいつだって、この苦しみと共存してきた。

 いつの日も、私は彼の記憶を引きずっていた。

 どこまで行っても変わることのない景色の中に、彼の面影を閉じ込めてきた。


 昨日も、今日も…、きっと明日だって、この苦しみは消えることなく確かにここに存在するのだから…


 だから、そっと目を閉じた、その一瞬だけでいい

 彼に会わせて――

 ロランに…ロランに会わせて――。


 会いたい、あの美しい大きな瞳に…


 会いたい――。





「本当は、もっと早く君に伝えるべきだった」


 受話器から聞こえるマドカのすすり泣く声に、タツは目を伏せた。


「僕が真実を君に伝えることができたなら…どんなに楽になるだろうってずっと思ってたよ。隠すことなんてなかったんだ。結果的に僕はマドカちゃんを深く傷つけてしまった。あの時――、僕には君に伝えるべき事実がいくつかあったのに、僕は話すことができなかった。君はロランが誰よりも大切にしてる女の子だったから…どうしても言えなかった」


 いつもと違うタツの平坦な口調が、言いようのない不安と悲しみを連れて来る。

 沈黙が受話器をふさぎ、マドカは思わず息を呑む。


「ロランは僕に言ったんだ。俺の目はいつか見えなくなる。その時が来たら、すべて終わりにしたいって。それが、僕がロランと交わした契約――」


「…どういうことですか?」


 雨音が規則的に耳元を通り過ぎる。

 混線した糸が、どこかでぷつんと途切れてしまったような感覚がマドカを襲った。


「先天性緑内障」

「せんてんせい…りょくないしょう…?」


 聞き慣れない病名に、マドカは片言の日本語を話す外国人みたいにその単語をしっかりと繰り返した。


「あと数ヶ月のうちに、ロランは失明する――」





   *



先天性緑内障


 緑内障とは眼球内部を満たす眼房水の圧力が異常に高くなったため、一時的に、あるいは永久的に視力障害をおこしたものをいう。成人病の一つと考えられ、失明する原因として世界各国で第一位から第三位の間にある。その中でも出生時あるいは三~四歳までに発症する緑内障を先天性緑内障と呼ぶ。遺伝は関係なく約一万人に一人の稀な病気で、自覚症状に乏しいため発見が遅れるほど治療が困難となり、角膜や強膜が伸びきってしまい、黒目が大きくなったりする。放置すれば視神経の圧迫により、失明する。


 発症の兆候は吐き気、めまい、発熱など風邪の症状と間違えやすい。一度、緑内障により失われた視野は、薬や手術によって回復することができない。術後の治療を怠れば再び発症する可能性もあり得るため、緑内障の危険因子となるカフェインや煙草など控えた生活習慣が必要になる。


 先天性の特徴は涙目、光に敏感になる、眼球結膜充血、角膜の濁り、角膜の拡大…

 

 

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