第11章 瞳に映るもの(1)
「ちょっとー、智樹、早くしないと遅れちゃうよーっ!ねーぇ、私、先に行ってるから!」
「待てよ、マドカ!待て!」
勢いよくドアを開け、慌てたように襟元でネクタイを結び直しながら智樹が皮靴を履いて出てきた。
「智樹、いつも遅いってば!私だって講義に遅れそうなんだから、しっかりしてよね」
「あー、はいはい。毎日悪いな、反省してますお姫様」
智樹はふてくされたマドカの顔を見るなり、深々と頭を下げる。そんな幼馴染の姿を眺めながら、マドカは呆れて大きな溜め息をついた。
「だいたいさぁ、昨日の夜、何時に帰ってきたのよ?夜中の二時でしょ?深夜に大きな音立てないでって大家さんに言われてるじゃん。私だって隣の部屋で気になって眠れないんだからね」
「だから、悪かったって謝ってんじゃん!俺にだって付き合いってもんがあるんだよ。それとも何?お前、朝から機嫌悪いってことは、生理か?」
マドカはしらけた顔で智樹を見つめると部屋の扉に鍵をかけ、智樹の存在を無視して前を向いてさっさと歩き出した。螺旋階段を下りてアパートの外に出ると、年季の入った石畳がまっすぐに伸びている。マドカは歩いて十分ほどの距離にある大学に向かうのだ。
交差点に差し掛かった頃には、智樹の姿はずっとずっと後ろのほうにあった。マドカは交差点を左に、オフィスに向かう智樹は右に曲がる。ここが毎日の二人の分岐点だった。
「おーい、マドカ!今日は早く帰るから一緒にメシでも食おうな!」
日本語で声を張り上げる智樹にうんざりしながら後ろを振り返ると、スーツ姿の幼馴染は昔と変わらぬ少年の笑顔で大きく手を振っている。
マドカは信号が変わるとくるりと前を向き、街路樹の茂る小道を歩き続けた。
あれから二年の歳月が流れ、マドカがここ、ロンドンに来てもうすぐ一年になろうとしている。
仕事でロンドンに駐在することになった智樹の後を追うようにして、マドカはこの街にやってきた。
イギリスに留学することはマドカの夢だった。知らない土地で一人ぼっちになるのは不安だったけれど、智樹が近くにいてくれたら何かと心強いと思ったし、幼馴染みがロンドン支社に配属されてマドカもずいぶん喜んだものだ。
ああ見えて、智樹はなかなか仕事のできる男らしい。頭のキレる彼が、会社から期待されている優秀な社員だということはマドカにもなんとなく想像できた。ブロンドの英国の紳士に混じって、すらりとしたスーツ姿で流暢に英語を話す智樹のことを、なかなか素敵だなと思ったくらいだ。
マドカは智樹が住んでいるフラットの隣の部屋を借りて生活している。
時間があれば互いの部屋を行き来して一緒に食事をし、他愛もない話をして昔のように過ごす。
朝は同じ時間に部屋を出て、マドカは大学に、智樹はオフィスに向かう。毎日顔を合わせているけれど、智樹の存在を煩わしいと思ったことは一度もない。水と空気のように互いになくてはならない存在だということは、ロンドンに来ても変わらなかった。
二人は今、友達でも恋人でもない微妙な位置にいる。
慎重に、互いの気持ちを手繰り寄せるようにゆっくりと、二人は前に進もうとしていた。
「すっげー!米じゃん!味噌汁じゃん!白菜の漬物まであるじゃん!マドカ、これ、どうしたんだよ?」
「今日の午後、大量の食料がおばさんから送られて来たの。智樹、留守だったから私が受け取っておいた。おばさんには私からちゃんと電話入れといたからね」
マドカはピーマンの肉詰めを皿に盛ってテーブルの上に乗せると、智樹の向かいに腰掛けた。
「そっかー、うちの母ちゃんか。何か言ってた?」
「体に気をつけてね、って」
ワイシャツの袖を肘まで捲り上げた智樹は嬉しそうに箸を取り、玉葱の味噌汁を啜った。
「超うまい。お前、料理の腕上げた?あ、それと米ね。秋田の米は美味いなぁ、俺、マジで泣けてくる」
智樹は社会人になっても「超」とか「マジ」とか、学生時代と全然変わらない言葉遣いをする。これで企業との商談をまとめてるのだから、ある意味凄い奴だとマドカは思う。
「やっぱ日本人は和食だよな。白身魚と芋ばっかじゃそのうち死んじゃうと思うもん、俺。この先ずっと白いご飯と味噌汁があれば生きていける」
サラダにドレッシングをかけると、智樹は幸せそうに料理を口に運んだ。どんなにエリート社員でも、中身は相変わらず単純な奴なのだ。
「そういえば、おばさんにまた言われちゃった」
「何を?」
智樹は口いっぱいに詰め込んだレタスを頬張りながら、マドカの顔を見つめた。
「マドカちゃん、早くうちの智樹と結婚してやってちょうだいって。孫の顔が見たいわーってさ」
「なっ…」
慌ててレタスを飲み込んだせいで智樹は咽返り、急いで味噌汁を啜っている。
「ったく、何言ってんだよ、母ちゃん。勘違いも程々にして欲しいよな。何考えてんだか…」
「おばさん、私たちが恋人同士だと思ってるんだね。全然その気はないのに、困っちゃうなぁ」
そう言って智樹の表情を横目で伺い、マドカは思わず吹き出した。
「なっ、なんだよっ!」
「だって、なんでそんな悲しい顔してんのよ?もしかして、冗談キツかった?」
「べっ…別に!お前こそ何勘違いしてんだよ、バカ」
「はーい。以後、気をつけまーす」
きっと、智樹は待ってくれている。智樹を恋人として受け入れることのできる時が来るまで、ずっと待っていてくれている。
私たちはもう友達なんかじゃない。
ロランと別れた二年前のあの日から…、智樹は私を一人の女性として見てくれている――。
過ぎたことなんて忘れなきゃ…、全部、忘れてしまわなきゃ――。
私には智樹がいるから大丈夫。智樹が守ってくれる。誰よりも幸せにしてくれる。
そう信じてるのに、私はまだ前に踏み出せずにいる。
あの人の面影が、痛いほど胸を締め付けるから――。
*
ロンドンの夜更けは早く、夜が明けるのはずいぶんと遅い。
カーテンを開き、窓から外の風景を眺める。眼下に広がる美しい街並みに、何度溜め息をついたことだろう。
緩やかに流れる川を渡る煉瓦造の大きな橋、鮮やかな緑の芝生が広がるハイドパーク、遠くに古い宮殿が見える。
まだ朝霧のかかる真っ白な世界は、額縁に収められた立派な風景画みたいだ。
ロランだったらこの景色をどう表現するだろう――。
ふとそんなことを思いながら、マドカは今日もグレイの空を見上げた。
「お前、今日バイト?」
「うん、午後からね」
いつものように二人で部屋を出て、白い霧の残る街をぶらぶらと歩く。
今日は少しだけ時間に余裕がある。智樹は歩きながらジャケットのボタンを閉め、使い込まれた鞄を持ち替えた。見慣れた智樹のスーツ姿は、すっかり大人の色気を感じさせている。
「なぁ、今夜お前の部屋行っていい?」
「いいけど、どうしたの?いちいち断る必要ないじゃん。いつも何も言わずに上がりこんでくるくせに」
マドカはパンプスの踵を鳴らして歩きながら、智樹の横顔を見つめた。
「今日は…ちょっとな」
「何か相談でもあるの?」
「ま、そんな感じ」
マドカは大学の講義が終わると、レコード屋で在庫管理のアルバイトをしていた。大学が休みの日には子供たちに日本の絵本を読んで聞かせるボランティアにも顔を出している。日曜日には必ず智樹とデートをして、美味しい夕食を食べた。
マドカが迷っていた留学を決意したのは、智樹がロンドンで働くからというよりはむしろ、ロランとの思い出が詰まった東京を離れたいと思ったからだった。日本にいれば嫌でもテレビや雑誌でロランの顔を見なければならなくなるし、聴きたくなくてもロランの歌声をどこかで耳にする。同じ理由で音楽雑誌の編集の仕事も未練なくすっぱりと辞めた。ずっと編集者をしていたら、いつかロランと顔を合わせるはめになるだろう。
マドカは一日でも早く、ロランのことを過去のものとして受け入れたかった。できることなら初めて彼に出会ったあの雨の日に戻って、何事もないように平然とした顔で交差点を渡り終えたい、とさえ思った。
けれど、ロランと過ごした日々はマドカが考えていたよりずっと重く、とても深い輝きだった。
マドカは今でも夜空を見上げる。
藍色の闇に浮かぶ青白い月のようなロランに、祈れば会えそうな気がして――。
*
ラ・ヴォワ・ラクテはイギリスでも絶大な支持を受けている。マドカが日本を離れる少し前にラクテはアリーナツアーを行い、一年間に二枚のアルバムと八枚のシングルを発表した。
出す曲はすべてミリオンヒットになり驚異の売上を記録した。目に見えない膨大な資金がラクテの音楽につぎ込まれていた。宣伝・広告費、プロモーションビデオ、ステージを彩るこだわりのセットとパフォーマンス、どれもが桁外れだった。これまでの日本のロックバンドの常識を超えていたといってもいい。ラクテは良い意味で殺人的なバンドだった。
十代の男の子たちはみんな、ラクテのコピーバンドを結成していた。女の子は相変わらずロランに夢中だった。ライブ会場に行くと、彼女たちはみんなロランに向けて両手を放っていた。ロランの瞳に少しでも近づきたいと思う彼女たちの熱意と信念が、いつの日も会場を満たしていた。
ラクテのアルバムがイギリスで発売されたのは半年前のことだ。全曲英語版で収録されたそのアルバムは、アメリカでも同時に発売されたことで話題になった。海外の音楽誌は一斉にラクテの記事を扱い、多くのインタビューが掲載されたのだった。
マドカの元には毎月タツから手紙が届いた。差出人はいつもアサミの名前だったけれど、封筒の中にはタツの字で書かれた簡単な近況報告と、発売前のラクテのCDが添えられていた。
けれど、ロランのことには何一つ触れずに書かれたタツの手紙は、マドカの心を痛いくらい締め付けた。
タツから送られた音源をマドカが聴くことは一度もなかった。そこにはいつも、ロランの面影が無数の雲みたいに漂っていた。少なくとも、マドカにはそう思えたのだった。