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空に架かる橋  作者: 楓花
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第1章 雨の交差点(3)

 

「マドカちゃん!」

「あ、松田さーん」


 東京の空には朝から久しぶりに太陽が顔を覗かせていた。梅雨時とはいえ、六月の太陽はジリジリと肌を刺すような暑さだ。羽織っていたカーディガンを脱ぎ、額の汗を拭いながら、マドカは照りつける太陽を見上げる。いつものように地下鉄を九段下駅で降り、交差点で信号待ちをしていると、出勤途中の松田に声をかけられた。

「マドカちゃん、昨日、どうだった?ライブ」

「は…、はい!楽しかったです」

 実際は演奏を聴くどころではなく、彼らのステージもぼんやりとしか記憶していない。

 マドカはバツの悪い顔をしながら、松田と肩を並べてオフィスのエレベーターに乗り込んだ。


「で、どうだった?」

「ど、どうだったって…」

「あのボーカル、あれは当たりだな」

「あれ?松田さん、あのバンドのこと詳しくご存知だったんですか?」

「マドカちゃん、俺を誰だと思ってる?ロック好きの松田だよ?ラ・ヴォワ・ラクテ、ボーカルのロラン。あれは凄い」


 エレベーターが五階で止まり、松田の後に続いてオフィスに入る。室内はすでに蒸し暑く、マドカは急いでエアコンの電源を入れた。


「凄いって…松田さん、昨日ライブに行く前に何も教えてくれなかったじゃないですか。バンドの経歴ぐらい教えてくれたってよさそうなものなのに」

「それは、初めて彼らのライブを見た君の率直な感想が聞きたかったからだよ。浅はかな知識と先入観でアーティストを見るもんじゃない」

 松田は満足そうにお決まりの台詞を言うと得意げに笑い、会議用のソファに上着を投げた。


「マドカちゃん、これ。ラ・ヴォワ・ラクテの資料」

 デスクの上に所狭しと詰まれた雑誌を掻き分けて、松田はA4サイズの紙を引っぱりだした。




La Voie Lactee (ラ・ヴォワ・ラクテ)


 199X年、ベースのタツとドラムのカオルを中心に大阪で結成。次いでギターのシンが加入、ボーカルのロランは9X年、正式にバンドへ加入。関西のライブハウスを中心に人気を集め、結成から2年後、アルバム『Pergola』を発表。インディーズでは異例の売上げを記録。同アルバムを引き下げて全国ライブハウス行脚を決行。その名を地方にまで広める。

 今夏、インディーズで話題となった『Stars』でメジャーデビューが決定。結成から約4年を経て、デビューに漕ぎ着けた。

 作曲は主にギターのシンとベースのタツ、作詞はボーカルのロランが担当している。



作詞はボーカルのロランが担当している――。


昨日のステージの熱狂とロランの歌声を思い出し、マドカは頬を緩めた。



「そういえば…メンバーの年齢は公表されていないって話でしたよね?」

「あぁ、今そういうミュージシャン多いじゃない?それも話題作りに過ぎないんだろうけどね」

 松田はそう言って、本日一本目の煙草に火を点けた。


「でも、松田さんの言う、ロランが当たりってどういう意味ですか?」


 ロラン――、その名前を声に出すだけでマドカの胸は高鳴った。


「マドカちゃんはどう思った?あのボーカル、どうだった?」

「え、あ…、まぁ…」

 松田の質問に妙な恥ずかしさを感じ、マドカは口ごもりながら室内に立ち昇る煙を見ていた。


「生まれ持った才能っていうのかな、あのボーカルには人を惹きつける不思議な力がある。マドカちゃんはそれが何だか分かった?」

 マドカは首を横に振った。

「天性の美しさ、だね」

「天性の…美しさ?」

「そう、あのルックスも才能のひとつだってこと。もちろん、肝心な彼らの音楽も十分魅力的だよ」


 松田は煙草の火を揉み消すと、コーヒーを淹れ始めた。

 力んで握り締めていたラクテの資料は手の中でいつの間にかくしゃくしゃになっていて、マドカは慌てて紙についた皺を伸ばした。ラクテのプロフィールを瞳に焼き付けるつけるように読み返し、数日後に迫る取材のことを考えると今から緊張で押しつぶされそうになる。


「あ、そうだ。マドカちゃん知ってる?ラ・ヴォワ・ラクテってフランス語で天の川っていう意味でさ。彼らのデビューは七月七日、七夕の日だ」




「では、本日はよろしくお願いしまーす」


 待ちに待ったラクテの取材は、都内にあるカフェの一部を貸し切って行われた。カメラマンと同行したマドカは、写真撮影の準備に追われている。

「マドカちゃん」

名前を呼ばれて振り向くと、そこにはタツが立っていた。

「タツさん!」

「今日はよろしくね」

「こちらこそ…!よろしくお願いします!」

 にっこりと微笑むタツと挨拶を交わしながら、マドカは撮影の準備が進むフロアを見渡した。タツ以外のメンバーの姿が見当たらない。


「あの…他のメンバーの方たちは?」

「あいつらヘビースモーカーだから。僕は愛煙家じゃないし。ほら、ここのカフェって全席禁煙じゃん?きっと今頃、裏の路地で野良犬みたいに地面に這いつくばって煙草吹かしてるだろうね」

 冗談交じりに会話を弾ませるタツに、マドカは好印象を抱く。


 タツは今25歳で、他のメンバーもだいたい同じような年齢だと言った。マドカの年を知ると、タツは「俺が老けてるんやなぁ」と笑っていた。初めて任された大仕事に緊張を隠せないマドカも、タツと交わした何気ない会話にいつもの笑顔を取り戻していく。


 メイクを終えたメンバーが丸いテーブルを囲んで座る。まずは四人揃ったカットの撮影だ。順調に進む撮影をカメラマンの脇で眺めながら、マドカは自然とロランの表情を追っていた。ロランはステージの上にいる時よりもずっと小柄で、長身なギターのシンが隣にいるせいなのかおそろしいほど華奢だった。あの美しさといい、女性に間違われるのも無理はない。相変わらず彼はマドカの存在を気にも留めておらず、まともな挨拶すら交わしていなかった。


「少し休憩入れましょうか」

 カメラマンから休憩の声がかかる。撮影から開放されたメンバーの顔が緩み、ポラをチェックするために真っ先にタツがマドカの隣に駆け寄った。

「四人だと良いショット選ぶの大変やな。みんなが良い顔してないといけないから」


 撮られたばかりの写真を真剣にチェックしていくタツの後ろから、シンが顔を覗かせた。

「可愛い編集者さん!せっかくやからみんなでメシでも食わない?近くに美味い蕎麦屋があるって聞いたんやけど」

 可愛い編集者さん、とはマドカのことらしい。

「いいねー、マドカちゃんも行こうよ。時間、大丈夫なんやろ?」




 取材の準備を理由に外出を渋るマドカをシンとタツが強引に連れ出し、ラクテのメンバーとマドカは老舗の蕎麦屋のテーブルを囲んでいた。案の定、マドカは彼らの空気にうまくなじめず、ただ静かに相槌を打ったりにっこりと微笑んでみせたりしたが、頭の中を「不安」の二文字が過ぎる。松田から任されたこの仕事の責任を考えれば、メンバーをリラックスさせ、午後のインタビューに備えて多くのことを聞き出したいところなのに。

 メンバーの会話が途切れたところで、マドカは思い切って自ら話題を振った。


「あの…、ロランさんってメイクで随分表情が変わりますね。なんだか…すごく綺麗で、私、女性として恥ずかしいっていうか…」

「あれ?マドカちゃん、こいつのメイクしてない顔見たことあるん?」

 シンの質問に、マドカは一瞬動揺した。


「あ、あの…このあいだ、助けていただいたんです。私、交差点で転んで…、その時落とした原稿をロランさんが一緒に拾ってくれたんです」

「それ、ホンマ?」


 メンバーの視線がロランに集中する。

「どうせまたナンパしようとしてただけじゃねぇの?」

 口を閉ざしていたカオルがぽつりと言うと、シンが小さく笑った。


「あの時は助かりました。ありがとうございます」

 そう言ってマドカはロランに向かい、控えめにぺこりと頭を下げた。




「おい、ロラン何か言えよ?」

「…知らん。覚えてない」

 テーブルに備え付けられた紙ナプキンを所在無さそうに折り畳みながら、ロランは壁にかかった水墨画を眺めている。


「オレ、綺麗な女の子やったら忘れたりしない。残念やけど、君のことは覚えてない。人違いとちゃうん?」

「…なあ、ロラン、そんな言い方ないだろ?」

 タツが、呆れたように大きな溜め息をつく。




 

やだ…、泣きそう…!




 行き場をなくした想いをどうすることもできずに、マドカは俯いたまま席を立つ。


「あの、ごめんなさい!私…、戻ります!」


 マドカはそのまま店を飛び出した。ビルが立ち並ぶ喧騒の中を、溢れる涙を拭いながらその足を前に進めるしかない。ロランの言葉が頭の中でリフレインして、言いようのない虚しさが込み上げる。


 撮影の行われたカフェに戻り、マドカは路地裏にしゃがみこんだ。膝を抱え、両腕で顔を覆いながら深く深呼吸をする。それでも細い涙の粒は静かに頬を伝っていく。


 こんなことで泣くなんて、どうかしてる…


 マドカは再び深呼吸をして空を見上げ、そこに垂れ込めた灰色の雲をうらめしそうに見つめた。




「吸っていい?」


 マドカの隣に誰かが腰を下ろす。顔を覆っていた腕の隙間から、マドカはその横顔にちらりと目を向けた。


 ロランはマドカの隣でセブンスターに火を点け、ほろ苦い煙の渦を曇り空に向かって吹き付けていた。その姿は流れるように美しく、彼の周りだけが特別なベールに覆われているみたいだった。


「こら、またこんなヒールの高い靴履いてる。コケても知らんよ」

 ロランはマドカのパンプスを指差し、静かに、そして優雅に煙を吐き出した。

 あの時擦りむいた膝をロランが人差し指で突付く。


「ケガ、治ったん?」

「あ、あの…」

「もしかして俺、君のこと傷つけたかな?」


 ロランはうずくまったマドカを横目で見下ろすと、がさがさと紙袋の音を立ててハンバーガーの包みを差し出した。


「なんか言ってくれへんと、これはおあずけやで?」

「えっ…?」

「腹、減んない?」

「あ…、うん…」

「おまえのせいで美味い蕎麦食い逃した」


もしかして…、あれからすぐに後を追いかけて来てくれたのかな…


「でさ、これ食うんか?」

 ハンバーガーの包みをマドカの顔に近づけながら、ロランは煙草の火をアスファルトの上で揉み消した。

「たっ、食べます!」

 マドカはあわててハンバーガーに手を伸ばす。

「おい!こら!待て!これ一個しかないねん!」


 ロランの手から奪い取ったハンバーガーをマドカがぼんやりと見つめていると、彼の大きな瞳が近づいた。

 吸い込まれそうな、深い、そしてどこか寂しそうな瞳――。


「だから、半分こな」

 ロランはハンバーガーを優しく受取って包みを開けると、それを半分に割って手渡した。


「オレ、チーズバーガーはダブルって決めてんねん。ピクルスが二枚入ってるとこが、ええやろ?」


 にっこりと微笑むロラン。

 ロランの整った美しい顔立ちがほんの少しだけ柔らかくくずれる瞬間。


 マドカはこの笑顔をもっと見たい、と思った。


 ただ純粋に、ロランに惹かれている自分がそこにいた。

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