第10章 さよならの予感(2)
病室をノックする音が青白い光の広がるしんとした廊下に響き渡る。そっとドアを開けて中を覗き込むと、真っ白な壁に囲まれたベッドの上でロランが瞳を閉じていた。
規則正しい速度で落ちる点滴が、細い管から左手の甲を通ってロランの体に抜けていく。レモン色のカーテンの隙間から晩冬の淡い月の光が洩れ、病室の床を芸術的に照らしていた。
ロランは子供みたいな顔で静かに寝息を立てている。特に衰弱してるわけでもないし、顔色だって良い。どこも変わった様子はないし、相変わらずその白い肌に整った個々のパーツのバランスは美しくて幻想的だった。
「ロラン…」
彼の傍に行き、そっと右手を握る。大きくて温かなその手は、マドカの心をいつも潤してくれる。ごつごつと骨ばった指に、手の甲に浮き上がった血管の筋。そういえば、華奢な身体に似合わず、ロランの手は男らしいと思ったんだっけ。
枕の上に落ちたロランの黒い髪があまりにも綺麗で、マドカはその柔らかな髪を優しく撫でた。
こうしていると、ロランも本当は私たちと同じように目に見えない羽を震わせて生きているみたいで、なんだかほっとする。
いつも、ロランはその美しさが先行して…、非現実的な殻に閉じ込められているみたいだから。
瞼が小さく震え、ロランの瞳がゆっくりと開く。マドカは握り締めた手に力を込めた。
「ロラン!」
生まれたばかりの子供みたいに軟弱な瞳で、ロランはマドカの顔を見つめた。瞼が何度か伏せられ、再びマドカに視線を送る。大きな二重のその瞼は腫れぼったく、ずいぶん重そうだった。
「ロラン…、大丈夫?」
マドカは月の光に照らされたロランの顔を心配そうに覗き込んだ。
「マドカ…、俺…」
「タツさんから電話があって…ロラン、収録中に倒れたって…、無理しすぎてたんだね、ロラン…」
何もできない自分が情けなくて、マドカはただぎゅっとロランの手を握り締めた。
「なぁ…マドカ、誕生日…」
「そんなのどうだっていいよ、ロランの身体のほうが大切でしょ?誕生日なんて来年も再来年も、毎年やってくるんだから…」
マドカは首を振って、ロランの手を温かな頬に寄せた。ロランはぼんやりと青白い天井を見つめている。脈が一定のリズムを打ち、心臓の音と一緒にロランは安らかな呼吸を放つ。
「マドカ…」
「なぁに…?」
「マドカ…、顔…もっと近くにきて…」
いつもより細く掠れたその声に、マドカは言われるままロランの頬に顔を近づけた。
「マドカ…、マドカの顔…ずっとこうして見ていたい」
ロランは繋いだ手を解き、マドカの頬にあてた。ロランの口元が緩んでいつもの笑顔がこぼれる。 「どうしたの…?ロラン…」
「…なんでもない。ただ、近くでマドカの顔が見たかっただけ」
「なぁに…それ」
マドカが微笑むと、ロランは眩しそうに目を細めた。
「お誕生日おめでとう、マドカ…二十二歳になったんだね」
どうしてこの時私は気づいてあげられなかったんだろう。ロランはずっと、誰の目に見えない大きな不安を背負っていて、寂しくて、苦しくて…それでもじっと一人で前を向いて歩いてたのに――。
その瞳に映るものは、どんな色をしていたんだろうって、今ならそう思えるのに――。
*
「ねぇロラン!ロランもこっちに来て!もっと近くで海見ようよ」
湘南の朝は早い。沖に出たサーファーが大きな波を待つ姿が散らばる。三月半ばの海はまだ氷のように冷たいけれど、太陽の光は柔らかく、春の日差しを感じさせていた。
波は真っ白なレースのようにそっとマドカの足元に近づき、次の瞬間には沖へと去っていく。水面に手を触れると、体温が奪われてしまうくらい冷たい空気が重なる。朝の光が砂浜に差込み、マドカは大きく息を吸って潮の香りをかいだ。
ロランは砂浜から少し離れた人工芝の上で絵を描いていた。マドカが手を振るとロランはにっこりと微笑み、再びスケッチブックに視線を落とす。
ロランは病院に運ばれた翌日の朝、まるで何もなかったようにけろっとした顔で退院した。
あれから一週間。ロランはまた一人のアーティストとして多忙な毎日へ戻っていった。タツはただの過労だと言っていたのに、ロランのスケジュールは緩和されるどころかさらに過密になり、ラクテの音楽はますます支持されるようになっていく。
手に入れたバンドの地位と勢いを保つためには仕方ないことかもしれない。当のロランだって、マドカの心配をよそに以前と何も変わらず元気そうだった。
マドカは靴についた砂を払うと、ロランの傍に駆け寄った。
「ロラン、何描いてるの?」
「んー、内緒」
そう言いながらも、ロランは思い切りスケッチブックを広げて鉛筆を走らせていた。マドカは白い画面をそっと覗き込む。
「ほら、マドカの顔」
ロランは手を休めてマドカの顔を見上げた。
「マドカの絵、今のうちに描いておきたかった。本物より美人やろ?」
「えー、そうかなぁ?」
マドカは笑いながら首を傾げた。
スケッチブックに様々な表情をした自分の顔が並んでいるのは不思議な感じだった。それはロランの父親、桜田直義が描いた母親の姿と重なって見えた。
画用紙の上に柔らかな稜線で描かれた個々のパーツ。それがロランの瞳に映る自分なのかと思うと、マドカはなんだか照れ臭かった。
「ねぇロラン、ロランのお父さんの絵ってどこにあるの?」
「湖水のこと?」
「そう、有名な絵だから、どこかに所蔵されてるのかなと思って」
ロランはスケッチブックを閉じると、煙草を吸った。白い煙が沖から吹く潮風にたなびいていく。
「あの絵やったら、松山のどっかにあると思うんやけど」
「どっかって…美術館とか?」
「あぁ、郷土館ってとことか?俺もよく知らん。小さい頃にどっかで見たような気もするけど、はっきりと覚えてないな」
波の音に混じって、沖から吹き寄せる強い風が耳元で鳴る。目の前の海に垂れ込めた浅い霧はすっかり姿を消し、鮮やかな光が波をさらっていった。
「私、いつかロランのお父さんの絵、見に行きたいな。松山はお母さんの生まれた街でもあるし…ロランが育った街だから」
「なら、その時は一緒に行く?俺も向こうにはずっと戻ってないし、まだまだ先の話になるかもしれへんけど」
長くなった煙草の灰がぱらぱらと芝生の上に落ちて、初めて気がついた。
その香りも、どこかいつもと違う――。
「ロラン、煙草…変えた?」
ロランは煙草を唇に挟んで輝く海を眺めると、眩しさに目を細めて高い空から落ちる光の筋をたどった。
「あれ以来、なんだか身体弱ってるんかなぁと思って。健康的なやつに変えた。煙草に健康も不健康もないけどな。これで少しはマシになるかもしれんなあ」
ロランの白い歯がこぼれて、マドカもそっと微笑んだ。ロランは短くなった煙草を芝生の上に落として火を消し、マドカの顔を見つめるとにっこりと笑う。
「キスの味も違うんやで」
「えっ?」
「一応、確認してみる?」
ロランはそっと肩に手を回してマドカの顎に手を寄せた。
「ちょっと待って!ロラン、こんなとこでキスしていいの!?」
肩に回されたロランの手を解き、マドカは思わず近づいた顔を背ける。
ロランはいつものようにマドカの瞳をじっと覗き込んだ。
今にも吸い込まれそうな深い藍色の瞳――。
「したくないん?」
「そっ、そんなことないけど…、ここじゃ誰かに見られちゃう」
人気のまばらな浜辺とはいえ、飼い犬を連れて散歩する人や波乗りを終えたサーファーの姿がすぐそこにある。誰かに見られるかもしれないという恥ずかしさや照れもあるけれど、相手がロランだから余計に気にしてしまうこと――、ロランはちゃんと気づいてるんだろうか。
「誰も見てない。見てないから、キスさせて」
ロランの潤んだ瞳に見つめられると、マドカはまた何も言えなくなってしまった。
瞳を閉じてきゅっと唇結び、ロランの体温が近づいてくるのをじっと待つ。息を止めて、少し切なくなるこの瞬間が何よりも愛しい。
ロランはふわりと髪を撫でて、ほんの一呼吸置いてからその唇を重ねた。ほろ苦い煙草の香りに混じったキスの味は、前よりずっとずっと甘く感じられた。
名残惜しそうに二人の唇が離れると、ロランはそっとマドカの耳たぶを噛んだ。
「キスの味、分かった?」
ロランは膝の上に置いたマドカの手を取り、静かに指を絡めた。
沖からの風が浜辺を通り抜け、透き通る黒髪がロランの頬にはりついた。マドカが指先を伸ばしてロランの白い肌に落ちた細い髪の束を払うと、美しい瞳が覗く。
「マドカ、もう一度、キス…してもいい?」
何も言わずにマドカが瞳を閉じると、ロランは指先で唇の形を丁寧になぞった。
「まだぁ?ロラン」
「まだ、もうちょっとこうしていたい」
何度も優しく唇の上を這うロランの指がくすぐったくてマドカはつんと顎を上げる。
「なぁマドカ、俺は幸せやったな。マドカに出会えて…ホンマに幸せやった」
「…ロラン、どうしたの…」
マドカの言葉を遮るように、ロランは唇をふさいだ。
ロランの唇はいつだって、私をとびきり可愛くて幸せな女の子にさせてくれる。ロランの意地悪な言葉も、甘い言葉も、まるで唇から媚薬を放つみたいにして私の心を喜びで満たしてくれる。
波の音が漂う二人だけの特別な場所。降り注ぐ淡い日差しの中で、私は永遠を傍に感じる。
ロランと一緒なら延々と続く単調な景色でも、世界の端っこにある暗闇に放り込まれたっていい。
ロランのキスはそれからもずっと、マドカの唇の上を陽炎のように虚ろに彷徨っていた。いつもより長くて甘いロランのキスを胸の奥に閉じ込めてしまえるものならば、いっそのことそうしてしまいたいとマドカは強く願った。
けれど、それが最後のキスだった。
三日後、私は失意のどん底にいた。
「別れよう」と言い出したのは、他でもないロランだったのだ――。
*
「俺がどうしてあなたに会いに来たのか、分かりますか?」
智樹は慣れないスーツを着込んで夕暮れの公園のベンチでロランと肩を並べていた。橙色をした太陽がロランのサングラスに鮮明に映っている。レンズ越しにあるロランの瞳は、移ろう時の流れをゆっくりと追いかけているようだった。
「俺…今、あなたのことを思いっきり殴ってやりたい気分です。でも、そんなことをしたって何の解決にもならない。あなたを殴ったところで俺の気分が晴れるとも思えないですから」
智樹はそう言うと襟元に手をやってストライプ柄のネクタイを緩めた。糊の利いたおろしたてのワイシャツがやけに自分を幼く見せているようで、妙な顔つきになってしまう。
今日は入社式だった。明日から丸の内にある外資系の商社に勤務することになる。
ロランの表情を横目で伺うと、智樹は大きな溜め息をついた。
「あなたを責めるつもりはありません。あなたとマドカのあいだに入ってどうしようとか、そういうことじゃないんです。ただ、これだけは言っておきたい。あなたが出した決断だから俺にはどうすることもできないけれど、理由も言わず一方的に別れるなんて、ちょっとひどいんじゃないですか?これはマドカとあなたの問題じゃありません。俺とあなたの問題です。俺はずっとマドカのことが好きでした。あなたがマドカを愛していたように、俺もマドカのことが好きだった。マドカに対する気持ちは、あなたと何ら変わりはなかったと思います。俺は、あなただからマドカを諦める決心がついたんです。あなたにはどうでもいいことかもしれないけれど、俺にとってはものすごく重大な決意だったんです。俺の言いたいこと、分かってますよね?」
煙草の煙が夕暮れの空に上っていく。ロランは立ち並ぶソメイヨシノの蕾を眺め、地面に灰を散らした。
表情ひとつ変えないロランに智樹は苛立っていた。ロランの周りを囲む特別な空気やその完璧な横顔は、細密に作られたマネキンのようだった。
智樹は呆れて長い足を投げ出す。藍色とオレンジが交じり合う複雑な濃淡をつけた空を見上げると、瞳の奥にマドカの顔が浮かんだ。そのマドカを無心で傷つけたロランが隣にいると思うと、やるせない想いが込み上げてくる。
長い沈黙と分厚い壁が二人の間に根を下ろしていた。
「智樹くん、人は生まれつき不公平に作られていると思う?」
「どういう意味ですか?」
ロランの口から出る言葉はいつも、結局でたらめで曖昧なものでしかないと智樹は思っていた。個性的でおそろしいほど抽象的な詞を書くボーカリストだから――、それも才能のひとつだと思えばいい。
「自分の手で幸せを掴むなんて馬鹿げた話なんやってこと。まぁ、何でも愛そうと思えばある程度幸せな人生を送ることができるかもしれない。だけど、俺たちに出来ることは限られているから。どれだけ頑張ってもいつかは限界にぶつかる。自分の力ではどうにもならないことだってあるんやね。人生っていうもんは生まれたときからある程度決められていて、どうあがいても救いようのないものが存在する。実力も才能も、努力だって報われない。そんなふうに考えたことはある?」
智樹は首をひねって考えてみる。ロランが言ってもそれはどこか現実味に欠けていた。
「あなたが言っても何の説得力もないように聞える」
「そうかもしれんな」
ロランは納得したように肩をすくめると、例によって美しく煙草をふかした。
「あなたにとって、マドカは一体何だったんですか?ただ漠然と、マドカを愛していたわけじゃないですよね?」
智樹の質問に首を傾げると、ロランはベンチに深く座りなおした。煙草の火がブーツの爪先で揉み消されると、再び長い沈黙が二人を包んだ。
「なぁ智樹くん、俺はマドカより幸せやったと思う。マドカが俺に注いでくれた光は、俺がマドカに与えた光よりもはるかに温かくて親密なものだった。目を凝らして見ればそこにはいつもマドカの想いがあふれていたし、どこまで行っても彼女がくれた光は途切れることなんてなかった。少なくとも――、俺は彼女より幸せやったと思う」
智樹は俯いて首を横に振った。
「あなたはマドカのことを何も分かってないんですね。なんだかすごく裏切られた気分です」
頭上にある広がり出した藍色とオレンジ色の空は厚い雲と暗闇に覆われていた。智樹は手持ち無沙汰に自分の頭をくしゃくしゃと撫でた。このサインが何かのきかっけになればいいと思ったけれど、ロランは無言のままだった。
時間だけが無情に過ぎ、辺りはすっかり闇に包まれた。ロランは足を組み替え膝の上で手を組むと、目を細めて智樹の横顔を見つめた。
「智樹くん、マドカのこと幸せにしてやってな」
ロランの言葉は智樹の想いをねじ曲げた。
マドカが聞いたらどう思うだろう。
智樹はずっとマドカのことを考えていた。
ロランの心はもう完全に途切れている。この人の心が二度とマドカに結びつくことはないだろう――、そう思って、口を開いた。
「あなたに言われなくても、そうするつもりですから」
*
あれからずっと、私はこの小さな体から大切な何かが抜け落ちてしまったような感覚の中を彷徨っていた。
最後に交わした言葉は何だったろう…混沌とした記憶を掘り起こしてみても、彼の影は曖昧でぼんやりと霞んでいる。
ただ茫然と立ち尽くす私を、彼は一度も振り返らなかった。
あの深い藍色の瞳も柔らかな声も、透き通るような流れる髪も、細く繊細な指先も、すべて失われてしまった。
そっと手を伸ばしたらすぐにでも届きそうなくらい近くに感じた鼓動も、私にはもう何も聞こえない。
でも私の胸の奥には、彼の煙草の香りだけが微かな記憶とともにずっと染み付いている。
たったひとつだけ――、あの浜辺で交わした最後のキスが、永遠に失われることのない唯一の証だった。
私の恋人はラ・ヴォワ・ラクテという日本のロックバンドのボーカルで、彼の名前はロランだった。それはフランスの風景画家からとった名前で、彼は完璧なまでに美しい顔立ちをしていた。
彼はいつも静寂な風をまとい、大きな瞳を細めてそっと微笑みかけてくれた。
宿命的な美しさに支配されて、鮮やかな世界を描きながら――。
今でも瞳を閉じれば浮かび上がる面影は、真夏の陽炎のように脆い。
けれど、恋人はもういない。
私にとって彼は、一瞬の輝きにしか満たない短い夢だった。