第10章 さよならの予感(1)
「まったく、お前が観たいっていう映画はどうしてこうつまんねーんだよ」
「すっごい泣ける映画だったじゃん!再会した二人が抱き合う最後のシーンなんて、ボロボロ泣いちゃったもん。やっぱり智樹に純愛は無理なのかもね。智樹って女の子の気持ち、ぜんぜん分かってないんだから」
三月の初めの日曜日、マドカは二十二回目の誕生日を迎えた。映画館を出た二人は坂道を下り、行き交う人の波に添って歩いた。空はこれ以上にないくらいに澄み切っていて、春の訪れを予感させている。マドカの歩幅に合わせて、智樹はゆったりとした速度で坂を下っていた。
あんなことが起きたあとでも、マドカと智樹の関係は以前と何ひとつ変わらなかった。時間があれば二人で食事をしたし、いつものように他愛のない話を繰り返して冗談を言い合った。
マドカには智樹の本心が気にならないわけではなかった。けれどこの男は相変わらず色んな女の子をデートや食事に誘っていて、「ずっと好きだった」なんて言葉は本当は嘘だったんじゃないかな、と思うことのほうが多いくらいだった。
「お前、何か欲しい物ないの?」
「えっ?」
「誕生日だろ、プレゼント、何がいい?」
人ごみに流されるように歩きながら、智樹は隣にいる頭ひとつ分違うマドカを見下ろした。
「うーん、何か形に残るものがいいな。智樹にまかせるよ」
レコードショップに入り、二人はフロアを一通り回った。フル・ボリュームで流れるポップスは気持ちよさそうにスピーカーを鳴り響かせている。
智樹はジャズのレコードを手に取ると、マドカに差し出した。
「レコードは?いらない?」
「なんでCDじゃなくてレコードなのよ?私、レコード・プレイヤー持ってないよ。聴けないじゃん」
マドカが口を尖らせた。
「別に今聴かなくていいじゃん。いつか聴ける機会ができたら聴けばいいし。そういうのって、なんだかワクワクしない?封を開けないままのレコードってのも、趣があっていーじゃん」
智樹はそう言って棚に並んだジャズの楽曲を物色すると、一枚のレコードを選んでカウンターに持っていった。数分後、それは赤いリボンをかけられてマドカのところにやってきた。
「はい、これ」
「なんか変なの。もらうのは嬉しいけど、実用性なんてどこにもないじゃん。まぁ、智樹らしくていいんだけど」
「つべこべ言わずに、受け取れって。ハッピーバースデー、マドカ」
差し出されたレコードの包みは、何も言わずにマドカの顔を見上げている。マドカは贈られたレコードを丁寧に両手で受け取った。
「ありがと。だけど…、いつ聴けるか分かんないよ?一生聴かずに終わるかもしれないし。おばあちゃんになって、感想とか求められても困るからね」
そう言ってマドカが呆れたように笑うと、智樹は舌を出して肩をすくめた。
「なぁ、ちょっと見たいもんあるんだけど、いい?」
言われるまま智樹の後ろをついていくと、J-popのフロアにたどりついた。辺りを見渡して新譜のCDを見つけると、智樹は急ぎ足で駆け寄って行く。平積みになった大量のディスクがマドカの視界に入ってくる。
「これ、聴きたかったんだよな」
「な、なにこれ…、ラクテの新曲じゃん!」
智樹はヘッドホンを耳にあて、プレイボタンを押して視聴を始める。
「ちょっと、智樹!」
「なんだよ、視聴するぐらいいーじゃん。俺、打倒ロランなんだから…って嘘だって!バカ、そんな顔するな」
「智樹、それ冗談になってないでしょ!バカはどっちよ!」
マドカは智樹の手からヘッドホンを奪い取って元の場所に戻すと、乱暴に停止ボタンを押す。目の前にはラクテの大きなポスターが貼られていて、澄ました顔のロランが黙ってこちらを見つめていた。
「なんか、見られてるよな、俺たち。これじゃあマドカの唇も奪えねーな」
「バカ…」
ポスターの中にいるロランを見上げ、マドカは智樹と目を合わせて笑う。
「マドカ、俺腹減った。メシ食いにいこうぜ」
「ねぇ、デザートも食べていい?やっぱケーキがいいかなぁ?でも、パフェも食べたいんだよね」
「お前、まだ食うのかよ。夜は彼とデートなんだろ?こんなぱっとしないファミレスなんかじゃなくて高い店予約してくれてるんだろうから、もう食わないほうがいいんじゃねーの?ってゆーか、俺が食わせねーよ、ロランがかわいそうだ」
智樹の言葉に、マドカは頬をぷっと膨らませた。
「ふうん、なによ智樹、いつからロランの味方になったわけ?」
「ばーか、普通に考えてみろよ。可愛い可愛い恋人の誕生日、その可愛い恋人が昼間に他の男と会って食事してたら、誰だっていい気はしないだろうが」
マドカはしばらく考え込んでロランの顔を思い浮かべた。
「だけど、お前の彼って本当に寛大な人だよな。器がでかいっつーか、肝が座ってるっていうか、いつも余裕な感じじゃん。俺には到底真似できねーけど」
「相手が智樹だからじゃないの?今日だって、智樹と会うって伝えたら、楽しんできてねって言われたよ?」
マドカは首を傾けて、アイスティーのストローをくるくると回した。グラスの中で溶け始めた氷がカラカラと触れ合う。
「俺って、相当信用されてんだな…」
「ん?」
「別に…なんでもない」
智樹は小さな溜め息を浮かべ、頬杖をついて窓の外を眺めた。
休日のファミレスはこれ以上にないくらいに騒がしかった。天井に取り付けられたスピーカから流れるBGMも、客の話し声で掻き消されてしまう。
すっかり口数の少なくなってしまった二人のテーブルは、自然と周囲の音を吸収していく。ふと、後ろの席についた高校生ぐらいの女の子たちの話し声が聞こえてきた。
―「ねえ、これラクテの曲じゃない?」
途切れ途切れに聞こえる音楽に耳を澄ませると、確かにそれはラクテの新曲だった。ロランの歌声と独特の息継ぎでマドカにはそれが分かった。
―「やっぱロラン超かっこいい!ヤバイよね、あれは」
こんな時はいつも聞き耳を立ててしまうけれど、聞かなきゃよかったと思うこともたくさんある。だって、良いことも、嫌なことも全部聞こえてくるから――。
―「ロランの彼女って、どんな人だろー?超キレイな人だよね、絶対。モデルとかじゃない?あーでも、一般人と付き合ってて欲しいなぁ。有名人はなんかヤだもん…」
「…マドカ?」
智樹に名前を呼ばれて、マドカは現実に引き戻される。
「お前、大丈夫なの?気にしない?」
「え…、何が?」
「あーゆうのだよ」
智樹は後ろのテーブルに目配せをすると、マドカの顔を覗き込んだ。
「初詣に行った時、俺の前で泣いただろ。本当に彼の恋人なのか自問自答したくなるって。今でもまだ、あんなバカなこと考えてんの?自分は彼にふさわしくないとか、思ってる?」
マドカは睫毛を伏せ、左右に首を振った。
「ううん、もうそうやって悲観的になるのは止めたんだ。私が元気でいないと、彼まで落ち込んじゃうから。私が少しでも不安な顔をすると、そういうのを敏感に感じ取る人だから。だから、もうめそめそしたりしないもん」
智樹は砂糖の入らないコーヒーを一口飲んだ。そして、マドカの顔を見るなりにっこりと微笑んだ。
「マドカは、とっても可愛いよ」
「なっ…なあに?いきなり」
突然の言葉に頬を赤らめながら、マドカは智樹の顔をじっと見つめる。
「お前は、自分が思ってるよりずっとずっと可愛いし、誰にも負けないくらい美人じゃん。まぁ、たまーに可愛くないこと言ったりもするけどさ。なんつーの?目の中に入れても痛くないって言葉あるじゃん、俺にとってはあんな感じ。たぶん、あの人にとってもお前って、目の中に入れて、鼻の中に入れても痛くないんじゃねーか?そんな感じするけどね」
そう言って智樹は大きな口を開けて笑った。
夕闇が二人の背を照らし、街をオレンジ色に染めていく。右手に抱えた智樹のレコードは、なんだか一生分の勇気が詰め込まれたみたいで、二人で過ごした歳月と絆の深さが小さな手のひらにずっしりと伝わってくるようだった。
バイトがあると言い残して、智樹は手を振った。マドカは智樹と別れると地下鉄に乗り、六本木に向かった。
*
ロランが予約してくれたレストランは、都内でも有名な高級レストランだった。都会のど真ん中にそびえたつ高層ビルの42階にある洗練された上品なフレンチレストランには、一流のシェフがいて、とてもよく調教された一流のウェイターがいる。
感じの良いウェイターは爽やかな微笑みを向けると、フロアの一番奥の席にマドカを案内した。
窓ガラスに映る自分の姿に、マドカはほんの少しだけ肩をすくめる。
もうちょっとお洒落して来ればよかったかな…
シンプルな黒のフレンチスリーブのワンピースに、黒のローヒールのパンプス。その姿は幼い子供のピアノの発表会みたいだった。
約束の時間より早めに着いたので、マドカはウェイターにワインや料理の説明を聞いて、軽い世間話をした。広々としたフロアでは洗練された人間がそれぞれのテーブルで親密な時間を過ごしている。無数の都市の明かりが小さな瞬きとなって彼らを包んでいた。
ウェイターが微笑を残してテーブルを離れると、マドカは窓の下に広がる大都会の明かりをぼんやりと眺めた。右手に東京タワーが見え、遠くのほうにレインボウ・ブリッジが見渡せる。オフィスの青白い光、歓楽街のネオン、都心を横切る電車の窓から洩れる影、人々の暖かな部屋の明かり、 孤独と虚心、そしてあてのない夢がひしめきあうように瞬く路地の外灯。あらゆるものが解き放つ光の渦が小宇宙のように漂い、互いに引き合う都会の夜。
なんだか宙に浮いているみたいな気分がする。
ガラス玉が弾かれたような輝きが眩しくて、マドカはそっと瞳を閉じた。
約束の時間になっても、ロランは現れなかった。時間だけが無情に過ぎ、マドカはやるせない気持ちでいっぱいになっていく。
いつものように仕事が長引いているのかもしれない。いつだってロランを待つことはマドカにとって苦痛などではなく、ひとつの歓びだった。けれど、星屑をちりばめたような夜景を目の前にして一人ぼっちで恋人を待つというのは惨めなものだった。ウェイターが心配してテーブルを訪れるたびにマドカは精一杯の笑顔を浮かべ、今にも込み上げてしまいそうな涙を吹き消そうとしていた。
約束の時間から一時間半が過ぎ、マドカの虚しさは次第に不安へと変わった。
ロランが大切な約束を忘れるはずがない。こんな日にひとつも連絡がないなんて――。
その時、マドカの心を見透かしたように携帯が鳴った。
待受画面に現れた名前に目をやる。
――タツさん…?
マドカは首を傾げて通話ボタンを押した。
「…もしもし?」
「マドカちゃん!ロランが…!!」
*
リノリウムの廊下を無我夢中で走っていくと、待合室のソファにタツの姿を見つけた。
「タツさん!!」
大きな声で名前を呼び、マドカはタツの元に駆け寄る。
「ロランは!?タツさん、ロランは!?」
タツはソファから立ち上がってマドカの腕を支えた。
「ねえ!ロランは!?」
「マドカちゃん、落ち着いて!」
弾む息を整えている場合じゃない。取り囲むすべてのものが歪んで見える。タツの声もぼんやりとしか耳に入らない。
ロランに会いたい…、今すぐロランに会いたいのに…
「マドカちゃん落ち着いて!」
タツの大きな声ではっと我に返る。今にも泣き出してしまいそうなマドカは震える指先に力を込め、タツの腕にしがみついて大きく呼吸した。
「マドカちゃん、ロランなら大丈夫だよ」
タツはそう言っていつもの優しい微笑を見せた。
「今、病室のベッドで眠ってる。ここ最近忙しかったから…ロラン、だいぶ疲れてたみたいやな」
「タツさん…」
「点滴が終わったら、一度先生に知らせてって。そんなに心配しなくても、大丈夫だから…ねっ?」
タツの瞳が不安気な表情のマドカをそっと抱きしめるように宥める。穏和な彼の微笑みに、マドカは次第に落ち着きを取り戻していった。
「タツさん、ロランは…」
「一晩眠れば元気になるよ。明日の朝には退院できるみたいだから。過労だって…俺たち、少し無理し過ぎてるんだな。マドカちゃんにも、心配させちゃったしね」
ねぇロラン…、この時、私がタツさんの嘘に気づいていたら――、私はあなたを救うことができたのかな…
いくつもの闇が波のように押し寄せる前に、鮮やかな光をまとった、透明な息遣いが途切れてしまわないように、
たとえあなたをその苦しみから救うことができなくても、ずっとあなたの傍にいて、その哀しみを拭ってあげることだってできたのに…
この小さな手で抱きしめてあげることだって…できたかもしれないのに…
ロラン――、どうしてそんなに寂しそうな瞳をするの?
私はずっと祈ってたよ、
ロランの瞳が、ずっとずっと傍にありますように…って――。