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空に架かる橋  作者: 楓花
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第9章 太陽の絆(4)

 オフィスで古い写真の整理をしていると、電話のベルが鳴った。雑然としたデスクの並ぶオフィスにはマドカ以外の誰もいない。電話のベルは執拗に鳴り響き、マドカはフィルムから顔を上げると面倒臭そうに受話器に手を伸ばす。


「はい、こちらkk出版編集部です」

 マドカは受話器を耳と肩のあいだに挟むと、再びフィルムをチェックする手を動かし始めた。

「もしもし?」

 必要以上に長い沈黙にマドカは少し苛立った。オフィスにかかってくる無言電話のほとんどはただのイタズラか、読者のクレームを装ったいやがらせだったからだ。

 マドカは耳をそばだてて相手の様子を伺うと溜め息をつき、受話器に向かって問い掛けた。


「もしもし?どちらさまでしょうか?」

「俺」


 低くて張りのある若い男の声だった。聞き覚えのある声に、マドカの思考が一瞬停止する。


「お前、いつまで俺のこと無視するつもり?」

 受話器の向こうにいる智樹の声が必要以上に大きく感じられ、マドカの心臓は高鳴る。このまま電話を切ることもできたけれど、今さら逃げるわけにもいかない。ただ受話器を置いてしまえばいいだけなのに、マドカにはそれができなかったのだ。


「仕事中で忙しいだろうから、用件だけ言うよ」


 耳を澄まして聞いているわけでもないのに、智樹の声はマドカの体内を駆け巡るようにして響いてくる。

「今日の午後七時、お前の会社の近くまで行く。確か会社の側に公園あったよな、そこで待ってる。話があるんだ、大事な話だから」


 今日の七時…、今夜はラクテのバレンタインライブが…


「智樹、私行けない。用事があるの。大切な用事。だから、智樹には会えない」

「来れないならそれでもいい。でも、俺は七時に公園にいる。もしかしたらってこともあるかもしれないから。お前の意思で会いに来てほしい。会社に電話なんてして悪かった。それじゃ、これで」





 日の沈んだ薄汚れた灰色の空に浮かんだ月がマドカを見下ろしていた。

 ライブの開演は七時。交差点を渡り、駅に向かうマドカの足に迷いはなかった。


 智樹には、会えない――。


 あの電話を切ったあと、マドカはずっと考えていた。今の自分にとって本当に大切なもの。いちばん守らなきゃならないもの。誰よりも必要としている一人の相手。


 たった一度も、智樹のことを忘れたことはない。

 だけど――、





 関係者専用の通路をするりと抜けて楽屋にまわる。開場前の外を見渡すと、溢れんばかりの人だった。デビューライブのことを思い出すと、スタッフの数も警備も大幅に拡張され、若い女の子の群れに負けず男性の姿も多かった。集まったファンの表情やテンションの高さがラクテの人気を物語っていた。


 長い通路を抜け、マドカはやっとの思いで楽屋口にたどり着く。辺りを注意深く見渡してマドカはロランの姿をを探した。


「開演前に楽屋に来てくれたら嬉しいねんけど」

 そう言って微笑んだロランの顔を思い出すと、なんだか自分が特別なお姫様になったような気持ちになる。マドカの顔は自然とほころんだ。


「マドカ」


 振り返るとそこにはロランがいた。右手にミネラルウォーターのペットボトルを持って、左手にはギターのコードが殴り書きされた六線譜。かっちりした衣装に身を包んだせいなのか、いつもと雰囲気が違う。

「ロラン、髪型…変わってる」

「切ってみた。どう?ダメ?」

 ロランは首を傾げてマドカの瞳を覗き、にっこりと微笑む。

「ダメじゃない…こっちのロランも好き」

「よかった、マドカがそう言ってくれて。新曲に合わせてイメチェンしたのはええんやけど、マドカが気に入ってくれへんかったらどうしようかと思った」

 ロランはそう言ってほんの少しだけ短くなった後ろの髪をさらさらと撫でた。


 二人は通路の脇にあるコンクリートの細い階段に肩を並べて座った。肩が触れ合い、どちらからともなくそっと寄り添う。ロランはジャケットのポケットから煙草を出して唇に挟むと、ジッポで火をつけた。


「マドカ、今日は来てくれないかと思った」

「どうして?」

 マドカは驚いてロランの横顔を見つめた。白い煙が宙に舞っている。

「ここ最近元気なかったし、色々悩んでるみたいやったから」

 ロランが溜め息混じりの苦い煙を吐いた。マドカの心臓が高い音を立てて鼓動を速める。


「そんなこと…」

「でも、こうしてマドカが来てくれてよかった」


 ロランは立ち上がってマドカを見下ろすと、優しく微笑んだ。


「今日はマドカのために歌うよ。マドカの悲しみが、一瞬で吹き飛んでしまうように。俺にはそれぐらいのことしかしてやれへんから」





 私、今すごく嫌な女の子だ――。

 智樹に甘えて、大好きなロランにまで甘えて…、

 自分一人じゃなにも解決できなくて、知らないあいだに二人を傷つけてる。

 それだけじゃない。きっと私…、ロランのこと不安にさせてる。

 ロランは何も悪くない。悪いのは全部、私のほうなのに――。

 なのに、私のために歌うなんて言わないで――

 そんなこと言わないでよ、ロラン…

 私はお姫様でもなんでもない、普通の女の子だよ。

 お願いだから、私のために歌うなんて言わないで――。





 ステージの上に白い羽根が舞い落ちると、会場にいる女の子たちのテンションは最高潮に達した。

 今日最後の曲『Stars』――。マドカの思い出の曲だった。

 募る想いを抱きしめて眺めた夜空。あの頃、ロランはずっとずっと遠い存在だったけれど、日に日に近づく距離が嬉しくて、伝えられない気持ちがもどかしくて、切なくて。それでもあの頃の私は、今よりもきっと素直でまっすぐだった。

 ロランの隣にいられるだけで幸せだったのに――。





「すっげぇチョコの数!」

 楽屋に積み上げられた段ボールに、ファンの子が持参したバレンタインのチョコレートがぎっしりと詰め込まれていた。ステージを終えて楽屋に戻ったシンは、ロランに宛てられたチョコレートを見るなり、呆れたように苦笑いを繰り返す。

 ロランは自分の背丈よりも高く積み上げられた段ボールを見上げ、頭を傾げて煙草をふかしていた。


「来年はバレンタインにライブなんてやめようや。俺、甘いもの苦手やねんから、なぁタッちゃん」

 腑に落ちない表情を浮かべてロランが言うと、タツは肩をすくめた。


「そういや、マドカちゃん来てるん?」

「ああ、外で待ってる。俺、そろそろ出るわ」

 タツに向かってそう告げると、灰皿で煙草の火を揉み消し、サングラスをかけてロランはドアを開けた。


「ロラン、マドカちゃんによろしく」

「ああ、おつかれさま――」





   *



 ロランの手は大きくて温かい。体は小さいけれど、この大きな手でロランは何でも掴めるんじゃないかっていつも思う。だけど、ロランは欲しいものなんて何もないと言う。すでに与えられているものがあまりにも大きすぎて、ロランは自分で何かを選んだり、捨てたり、そういう当たり前のことが普通にできないのかもしれない。ただ自分に与えられたひとつひとつの事柄を、自らの意思に関係なくこなしているだけなのかもしれない。


 マドカはポケットの中で軽く握られた右手をぎゅっと握り返す。少し前を歩くロランが後ろを振り向いて微笑む。

 どこか寂しそうな笑顔はきっと私のせいだった。

 ロランは何も言わないけれど、私はロランを不安にさせてる――。

 マドカは再び、ロランの手を強く握った。


「やっぱ車、買わなあかんなぁ」

「ロラン、もう電車に乗る必要ないでしょう。いくらなんでもあれだけのファンの前でライブやったあとに電車で帰るなんて、冗談でも笑えないよ」

「俺は今の生活のままで充分。ただ、そろそろ電車はキツイな。本当はマドカと一緒に電車に乗ったり、手を繋いで街を歩いたり、普通にそういうことができたらええなって思ってた。でも俺がいると公共の場に迷惑がかかるというか、マドカにも嫌な思いさせかねないな」


 ロランの言葉を遮るように、二人のあいだを強い北風が通り抜けた。


「俺は有名になって高級車に乗りたいとか、広い部屋に住みたいとか、そんなこと一度も考えたことがなかった。最近、周りがどんどん変化していってそれに対応せざる得ない状況に追い込まれてるような気がすんねん。こんなこと思うなんて、俺っておかしいんかな?」


 マドカは笑って首を振った。

「でもね、ロラン。ロランにはずっと今のままでいて欲しいけど、私、寒いのは本当に苦手なの。ロランの部屋、暖房ないんだもん。それだけは嫌だな」

 温かな笑いがこぼれ、無理に緊張したマドカの心がだいぶ解れていく。


「久しぶりに公園の中通って行こうか」

 ロランに手を引かれ、二人は木々に囲まれた公園を通り抜けた。外灯のオレンジが揺れるたび、マドカの瞳に映るロランの背中がぼんやりと霞んだ。


 智樹…、どれくらいここで待ってたんだろう…

 マドカは噴水を囲むようにして設置されたベンチを見渡していた。ロランに手を引かれて、繋いだ手から溢れる想いを胸の奥で痛いほど感じながら。智樹の顔を思い出し、マドカは睫毛を伏せた。

 噴水をぐるりと回るように歩く。水の音に耳を澄ますと、あの夏の日の鼓動まで聞こえてきそうだった。空に広がる黒と灰色の雲が重なり合って、行く手を暗い闇で包んでいる。マドカが外灯の光をたどると、木々の影に隠れた薄い人影がぼんやりと浮かび上がった。


「智樹…」


 長い足を投げ出し、コートのポケットに両手をつっこんで智樹が噴水の前に腰掛けていた。

 ロランはマドカの視線の先にある智樹の姿に気がつくと、繋いだ手を引きながら智樹の前にゆっくりと歩み寄った。

 智樹が顔を上げる。


「マドカ、俺、部屋で待ってるから」


 ロランはいつもの笑顔でそう言い残すと、二人に背を向けてアパートのほうへ歩き出した。辺りは必要以上にしんとして、冬の風がマドカと智樹のあいだにできた溝を広げるみたいに容赦なく吹き付けている。

 去り行く小さな背中をじっと見つめ、その姿が小さくなるまでマドカはずっとずっとロランのことを想っていた。

 智樹の顔は見れない――。マドカはそっぽを向いて水の音だけを聞いていた。


「寒いだろ、ちょっと待ってろよ。あったかい飲み物買ってくるから」


 智樹はそう言ってマドカの隣を離れると、しばらくしてコーヒーと紅茶の缶を手に持って戻ってきた。何も言わず、智樹が紅茶の缶を差し出す。


「とりあえず座ったら?噴水の前だと寒いな。あそこのベンチにすっかな」


「今まで、ずっと待ってたの…?」

 やっとの思いで口を開く。極度の緊張でマドカの声は掠れた。


「まあね、でもマドカが来てくれてよかったな。なんつーか、たまたま通り過ぎただけかもしんねーけど」

「なんで…なんで十一時まで待つのよ。このまま私が来なかったら終電なくなって帰れなくなるじゃない。バカみたい」

 マドカは手の中の缶を力をこめて握った。外気にさらされて缶の表面はだいぶぬるくなっている。


「別に、終電なくなってもいるつもりだった。どっちにしろ、お前のことだから明日の昼休みにでも見に来てくれるんじゃねーかって思ってたし。お前の行動はだいたい予想がつくから」

「かっ…風邪引いても知らないからね」


 マドカはタブを開けて紅茶を飲んだ。甘味と香料の匂いが口の中に広がっていく。

 智樹は長い足を組替えると、大きな咳払いをしてゆっくりと話し始めた。


「なんか、バレちゃったな。マリ子さんから聞いたよ。話したんだって?俺のこと、全部。まいっちゃうよなー、俺の知らないところでそんなことになってたなんてさ」


 智樹はそう言うと少しだけ鼻で笑った。照れ笑いでも苦笑いでもない、どちらとも取れる表情を漂わせる虚しさにも似た笑いだった。

 どんな言葉を探しても適切な表現が浮かばない。手の中にある缶をじっと見つめ、マドカは智樹の次の言葉を待っていた。


「ごめんな、マドカ」


 俯いたマドカの表情は暗くなる。


「そんな顔するなよ、なんだか虚しくなるじゃん」

「だって…、だって智樹は何も悪くない。悪いのは私のほうだもん。私、智樹のこといっぱい傷つけた。私…、智樹の気持ちなんてお構いなしで…ずっと嫌な思いばっかりさせてたんだよね。ごめんね、智樹…」


 今にも泣き出しそうなマドカの横顔を見るなり、智樹は瞼を伏せた。


「そんなに謝るな。もとはと言えばお前が俺の気持ちに全然気づかないのがいけないんだぜ?」

「だっ…だって、智樹何も言わなかったじゃない。何も言わなかったし、そういう態度だって見せなかったでしょ?だから私…」

「言いました。お前が気づかなかっただけじゃん?俺は言ったよ、一度だけお前にちゃんと言いました」

 マドカは顔を上げて驚いたように智樹の横顔を見つめた。


「…いつ?」

「高二の夏。お前が先輩と付き合おうかどうしようかって悩んでた時。そんなに迷ってるんだったら、俺と付き合えばいいじゃんって言っただろ。覚えてない?」

 マドカは首を振った。

「あれは私、冗談だと思って…、だって、智樹は私のこと恋愛の対象として見てるわけないって思ってたもん。私だって智樹のことそんなふうに思ったことなんてなかったもん…」

「お前、鈍感すぎるんだよ。鈍感すぎて話にならねーよ。俺、あの時けっこう傷ついてたんだぜ?お前は結局、あのあと先輩と付き合ってさ」


 智樹は空になった缶をベンチの脇に置くと、胸のあたりで腕を組んだ。

「でも、智樹はいつも色んな女の子と遊んでたでしょ。付き合ったと思えばすぐに別れて、また違う女の子とくっついて…そんな感じだったじゃない。今だって…」

「そうだな。俺って最低だよな。お前みたいに誰かに一途になれねーし、好きでもない女と寝るだけの男だもんな」


 聞き慣れた智樹の声に耳を傾けると、失われていた二人の距離が近づいていくような不思議な感じがした。それでもマドカの心は痛いほど締め付けらる。智樹の吐き出すひとつひとつの言葉に、マドカの胸の奥は縮んだり膨らんだりしていた。


「だけど俺、マドカに対する気持ちはどんな女といても消えることなんてなかった。俺はいつもそうやってお前に対する気持ちをごまかしてたし、忘れられるもんなら忘れてやろうって思ってたよ。なんつーか、お前は絶対、俺のことなんて男として見てくれてないって分かってたから」


 闇が二人に近づいては消え、月の光は細い線を描きながら雲間に隠れて現れる。智樹は呼吸を整え、話し続けた。


「まぁ、しょうがないじゃん?俺、マドカには自分の気持ちをぶつける気なんてなかったけど、いっそのことバレてしまえばいいって思ったことも正直何度かあったし。もうお前の前で嘘つかなくて済むんだって考えたらだいぶ楽になったな。この際だから、全部言ってしまうけど」


 智樹はそう言って再び溜め息をついた。

 沈黙が二人を包む。どこからともなく差し込む光が噴水を照らし、水辺がわずかに輝いていた。遠くのほうでクラクションの音が鳴り、智樹は長い沈黙を破った。


「俺はずっとマドカが好きだった。一人の友達としてお前の傍にいたけど、友情とか特別な存在だとかそんなの関係なく俺はお前が好きだよ。できることならこの手でお前のことをずっと守ってやりたいって思う。お前が辛い時や泣きたい時にこの腕で抱きしめてやりたい、って思う。あ、別にやらしい意味じゃなくて…いや、少しはそういうのもあるかもしんねーけど。なんつーか、お前は特別っていうか、そういう関係を望んでるわけじゃなくて…って何言ってんだよ、俺…」


「智樹、私…」


「分かってる。お前の言いたいことは、分かってるよ。ただ、俺はもう自分の気持ちに嘘はつきたくないし、変に隠し事もしたくなかったから。もしかしたら、今回のことでお前のこと少しは傷つけたかもしれないけど。そのことは謝るよ。変な気使わせて、悪かったな」


 マドカは再び下を向いて首を振った。


「傷つけたのは私のほうだよ。私…智樹に甘えてた。智樹にとって、恋とかそういうんじゃなくて、私はいつも特別扱いされて当然だと思ってた。だから、智樹に頼りすぎて…智樹が傍にいてくれるのが当たり前だと思ってた。だけど、それは自分に都合のいいように智樹を利用してたのかもしれない」


「…は?俺はお前に利用されてるなんて思ったことなんて一度もないけど?別に、甘えたっていいんじゃねえの?頼りすぎたっていいと思うぜ?そういう相手がいるって、幸せなことだろ、きっと。だって俺、お前といて楽しいもん。俺だってお前から色んなものもらって、吸収して、お前といるのが当たり前だと思ってる。こういうのって、単純に好きとかっていう枠に収まるもんじゃねーし。お前だって、そう思うだろ?」


 マドカはこくりと頷いた。


「努力するから。お前以上に好きになれる女、見つけられるように俺も努力するよ。俺に可愛い彼女ができても、お前と俺はずーっと友達なんだろ?どんなことがあっても、ずっと友達でいようってお前こないだ言ってたじゃん。あれって、いまさら取り消しとかって言わないよな?」


「智樹…」


「俺、前にも言ったかもしれねーけど、お前にはいつも笑顔でいて欲しいからさ。お前は好きなやつと幸せになって、自分の手で幸せを探して欲しい。俺はいつだってお前の味方だし、これからもお前の一番の友達でいたいと思ってる。こういうのって俺のわがままでしかないけど、今まで通り親友でいたい。俺にとっても、マドカは一番の親友だから。だけどもし、こんな俺の一方的な感情のせいでお前を苦しめてしまうんだったら、俺たちはもう会わないほうがいいかもしれないな。

 …でも、俺は信じるよ。どんなことがあっても俺たちはずっと友達なんだって――」





 智樹と別れてアパートを訪れると、ロランが部屋の前で小さくしゃがみこんでいた。


「ロラン!どうして?なんで外で待ってるの!?風邪引いちゃうよ!」


 急いで鉄骨の階段を上がり、ロランのもとに駆け寄る。冷え切った肩を抱きしめると、ロランの鼓動がコートの上からマドカの腕に伝わってきた。


「智樹くんと、ちゃんと仲直りしたん?」


 寒さのせいかもしれない。ロランの大きな瞳は静かに揺らいでいて、不安気な表情でマドカを見つめている。


「うん…」

 マドカは一言だけそう言うと、小さな手でロランの肩をぎゅっと抱きしめた。


「部屋の中にいると、もうマドカがここに来てくれないじゃないかってそんなことばっかり考えてて。俺、どうにかしとるな。ごめん、マドカ…」


 ロランの足元には煙草の吸殻が何本も落ちていた。ロランはずっとここでマドカの帰りを待っていたのだ。

 マドカはロランの頬に顔を寄せ、そっと頭を撫でると瞳を閉じた。風が吹くたび、煙草の香りが辺りに漂った。

「ロランのバカ…私はどこにも行かない。ずっとロランの傍にいる。ずっと傍にいるから…だからもうそんなに悲しい顔しないで。私には、ロランしかいないんだよ、ロラン以外に、行くとこなんてないんだよ」





   *



 ロランの腕の中で丸くなり、小さなベッドの上で身体を寄せ合う。そっと肩を抱かれ、マドカは顔を上げた。


「ねぇロラン、何か子守唄歌って…」

 ロランはゆっくりと瞳を開け、マドカの顔を見下ろして微笑んだ。

「リクエストは?」

 マドカはロランの胸に手をあてて、しばらく考える。


「与作なんてどう?嫌か?」

「やだぁ、ロランが与作なんて」

 マドカはくすくすと笑った。


「じゃあ、何がええかなぁ」

「あ、私…Starsがいいな。ロラン、歌って」

 頬にかかるマドカの髪に、ロランが指先で優しく触れる。


「だーめ、それじゃ俺が恥ずかしい。それに、さっきも歌ったやろ?あ、もしかして…今日のライブ、ちゃんと聴いてなかったんやろ」

「そんなことないもん。私、この歌が一番好きなんだ。お願い、もう一回歌ってロラン。そしたらちゃんと眠るから」


 その夜、気持ちが高ぶってなかなか寝付けない私の隣で、ロランはずっと子守唄を歌ってくれた。今にも消えてしまいそうなくらい静謐で透明なロランの声は、私を優しく包んでくれた。

 不安定な私の気持ちを察してくれたのか、その日のロランはただ、何も言わずに私の体をぎゅっと抱きしめてくれていた。


 ロラン…、私はいつまでもあなたの腕の中にいたかった。

 ロランの歌声を、一番近くでずっと聴いていたかった。


 耳元に残るあなたの声は、今でも私のすべてをどこかへ運んでしまいそうになる。


 ロランが私にくれたもの――。

 それは切ない思い出の欠片じゃなくて、

 大好きな、その歌声だったのかもしれないね――。

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