第9章 太陽の絆(3)
部屋の明かりがついてる…ロラン、帰ってきてるんだ…
ロランの部屋の前に来ると、マドカはなんだか後ろめたい気分になった。いつものように笑える自信なんてない。
「マドカ?」
ドアが開き、中からロランの顔が覗いた。いつものように煙草を咥えて、少し虚ろな大きな瞳で。ロランはマドカの顔を見ると、目を細めてにっこりと微笑んだ。
「おかえり、マドカ」
「たっ、ただいま…」
ただいまって…それは私が言うべき言葉じゃない。帰ってきたのは、ロランのほうだ。
ロランは立ち尽くすマドカを部屋の中へ招き入れて静かにドアを閉めると、唇に咥えた煙草を指に持ち替えてマドカの頬にそっとキスをした。
「マドカ、いい子にしてた?」
ふわりと香る煙草の匂い。
「ロラン、おかえりなさい…」
ロランは夕食の野菜を切っているところだったらしい。四等分に切り込みを入れられたトマトが、まな板の上に並んでいる。
「今日は、豆腐ハンバーグや。マドカ、お腹空いてるやろ?」
久しぶりに見る彼の姿に心臓の音が勢いよく鳴り出して、マドカは首を斜めに振って曖昧な返事をした。
「ちょっと待っててな。今、準備始めたとこやから」
ロランは手際よくレタスをほぐし、水切りのボウルに入れると蛇口を捻ってさっと水を落とした。マドカはじっとロランの器用な指先を見ていた。ワカメを水に浸してキュウリを輪切りにしたかと思うと、弾むように気持ちの良い包丁の音が聞こえ始めた。
「ロラン、いつ帰ったの?」
「昨日やな。時差ボケで寝てるんか起きてるんか分からんかったけど」
ロランはそう言って笑いながらマドカを見た。一瞬、マドカの体がこわばる。
そうだ、智樹のことにかまけて私…、
ロランが帰ってきたっていうのに、何やってたんだろう…
マリ子のさんの話に気が動転して…どうにかしてた…
「ロラン私…、昨日は…」
「仕事、忙しかったんやろ?無理してまでここに会いにくることないんやから」
ロランはそう言って冷蔵庫の中から挽肉と木綿豆腐のパックを取り出した。
私…、ロランの帰りをずっと待ってたのに。
恋人の帰りを、一番近くで待っていてあげたかったのに。
一瞬でもロランのこと、頭の隅に追いやってた自分がいる。
ごめんね、ロラン…
こんな私を、許してくれる――?
「マドカ…、どうかしたん?」
豆腐と挽肉を順々にパックから取り出しながら、ロランはマドカの顔を覗く。
ロランがこんなに近くにいるのにどうしてロランだけを見れないんだろう。
ロランのことが大好きなのに、色んな想いが一色になって揺れる。
私には、ロランがいて、智樹がいて…、こういうのって欲張りなのかな…
二人とも大切な大切な人なのに…、どうしてだろう、うまく笑えない。
今の私はロランの前でも笑えないし、きっと、智樹の前でもうまく笑えないだろう。
私を囲む見えない糸が、どこかで複雑に絡み合ってもつれてる。それはロランにも解くことはできないし、智樹にも解くことはできない糸。
私が、自分で解くしかないんだ――。
マドカは思わず両手で顔を覆った。
「マドカ、どうしたん?何か心配事でもあるん?」
ロランは手についた雫をペーパータオルで払うと、心配そうにマドカを見つめた。ロランの視線が一歩一歩近づく。さっきまで口に咥えていた煙草はいつのまにか小指のように短くなって灰皿に捨てられていて、形の良いロランの唇が次にどんな言葉を紡ぐのか、マドカはそんなことばかり考えていた。
「あ、そういえば」
ロランは思い出したようにキッチンを出て六畳の部屋に向かうと、薄いCD-Rを持って戻ってきた。
「これ、ロスのお土産。発売前のレアなCD。クリスマスライブの時、マドカが好きって言ってくれた曲が入っとる。今ならファンクラブ会員限定、バレンタインライブのチケットも付けちゃおかな」
ロランはそう言って、後ろに隠していたチケットをCDの上に重ねて微笑んだ。
「嬉しくない?」
「ううん、そんなこと…」
マドカは首を横に振る。
「そっか、ならよかった。なぁ、一緒にハンバーグ作ろうか?」
ロランはボウルに入れた木綿豆腐をペーパータオルの上で水切りし、そのあいだにキュウリとワカメの酢の物を作った。
「マドカ、玉葱のみじん切り頼むな」
「うん…」
ロランの隣に立ち、皮を剥いた玉葱に包丁を入れる。
「俺の豆腐ハンバーグはな、焼くんじゃなくて煮るんやで。醤油と砂糖とみりんで煮込むと味が染みてうまいんや。ヘルシーやろ?」
「ロラン、私ね…」
マドカの目から涙が溢れる。胸の奥から込み上げる想いが、喉の辺りにつっかえて声にならない悲鳴を上げている。
「マドカ?」
ロランは心配そうにマドカの顔を覗いた。
「もしかして、お腹でも痛いん?生理なん?」
「違う…玉葱が…目に染みただけだもん…」
マドカはそう言ってブラウスの袖で頬を拭った。それでも、堰を切ったように流れる涙の粒は止むことなく頬を伝う。
ロランはマドカの背中を優しくさすった。
「今日のマドカ、情緒不安定みたいやな」
マドカはロランの胸に顔を埋めた。ロランの手がマドカの小さな背中をそっと撫でていた。
「泣きたいときは思いっきり泣いたほうがええ。そのほうが楽になるから…」
マドカの涙が乾き、落ち着きを取り戻すと、二人はテーブルの上に並んだ夕食を食べた。結局、泣きじゃくるマドカを宥めながら、ロランが一人で料理を完成させてしまった。部屋の中はやけにしんとしていて、マドカは少し罰の悪さを感じていた。
「やっぱ和食はええなぁ」
ロランはキュウリとワカメの酢の物を口に運びながらしんみりと頷いた。相変わらず、美しいロランと酢の物のアンバランスな組み合わせはマドカを優しい気持ちにさせた。
「ロラン、今日は仕事じゃなかったの?」
「あぁ、今日はオフ。明日からまた犬のように働かなあかん」
「なんだか、ビートルズの歌みたい」
マドカがそう言って笑うと、ロランはいつものように目を細めた。
「ロラン、これ本当に美味しい。今度作ってみよっと」
マドカはロランの作った豆腐ハンバーグに箸を入れ、一口ずつゆっくりと口に運ぶ。優しい味が口の中に広がって、まるでロランの温もりが心に浸透するようだった。
食事を終え、二人で洗い物を済ませる。こういう時間をささやかな幸せと呼ぶのかもしれない。ロランと一緒にいると、嫌なことももやもやした気持ちも、全部どこかへ消えてしまう。
ただ、ロランを好きっていう想いだけが残って、あとは全部抜け殻みたいに朽ちてしまえばいいのに――。
マドカは皿を拭いて食器棚に戻す。ぴかぴかになった器を重ね、棚の戸を開ける。
「ねぇ、ロラン」
「ん?」
「ロラン、薬飲んでるの?どこか具合でも悪いの?」
食器棚の隅に、内服薬と書かれた紙袋が無造作に置かれていた。それはどこにでもありそうなひとつの風景としてマドカの目に映る。
「あぁそれはな、俺、アレルギー持っとるから。たまに飲んでるだけやねん」
ロランはシンクの上を綺麗に拭き終えると、煙草に火をつけた。そしてマドカの頬を撫でると、いつものようにギターを弾いた。
ロランの隣で瞳を閉じる。それは懐かしい景色となっていつの日かマドカの脳裏に浮かぶだろう。鮮やかな光を浴びて色褪せた、ひとつの足跡みたいに――。
*
「マドカちゃんとこうして二人で会えるなんて光栄やな」
ソファに深く腰掛けるタツがにっこりと微笑み、マドカに向かってピースサインを決めている。マドカの年明け最初の取材は、タツの単独インタビューだった。ティーンズ向けの人気女性誌に、ラクテのメンバーの中でも人一倍ファッションにこだわりを持つタツが登場するのだ。
タツは「ファッション誌に載れるなんてめっちゃ嬉しい」と何度も微笑み、用意された衣装を着替える度にマドカの元に駆け寄って来た。
「マドカちゃんの出版社って、音楽誌だけじゃないねんな」
「小さな出版社だから大手の下請けみたいな記事も書いたりしてるんです。最近はファッション誌の仕事も多くて。私もタツさんとこうしてたくさんお仕事ができて嬉しいです」
アルバムの発売以来、ラクテの人気は留まるところを知らず、ラ・ヴォワ・ラクテの名前は日本のロック界にすっかり浸透してしまった。一日に一度は街のどこかでラクテの曲を耳にしたし、ロラン目当ての女の子だけでなくロック好きの男性ファンも増えた。
十代の男の子たちはみんなラクテのバンドスコアを買い求め、新曲の出荷枚数は予約だけで軽く100万枚を超えた。それでもラクテのメンバーは仕事が忙しくなったことを除けば出会った当初と何の変わりもなかったし、ラ・ヴォワ・ラクテはとても素敵な音楽をリスナーに届けてくれた。
「ツアーが始まったら、マドカちゃん寂しくならない?」
「一緒にいられる時間が減っちゃうのは寂しいですけど…でも、タツさんだってアサミさんと会えなくなるの、寂しくないんですか?」
「俺は別に寂しくなんかないよ。嫌でも毎日顔合わせてるからね。むしろ良い息抜きになるかも」
タツは笑ってマドカと顔を見合わせた。
「でも、マドカちゃんの場合は逆だもんね」
「逆?」
「マドカちゃんよりロランのほうが寂しいんじゃないかな。マドカちゃんが傍にいないと、ロランのやつ、寂しくて死んじゃうかもしれんな。かっこつけてるけど、ああ見えて小心者のウサギみたいなんやから」
スタッフの淹れたコーヒーを飲み終えると、タツは空になったカップをテーブルの上に乗せた。マドカは一呼吸置き、前からずっと気になっていたことを思いきって切り出すことにした。
「タツさん、ひとつ質問してもいいですか?答えたくなかったらそれでも構いません。アサミさんから聞いたんです。タツさんがロランをバンドのボーカルしたいって申し出た時、ロランはどうして何度もタツさんの誘いを断ったんでしょうか?」
マドカの言葉に、タツの表情がほんの一瞬曇った。
「ロランがタツさんのバンドで歌うと決めた時、ロランがタツさんに出した条件…タツさんと交わした契約って…、一体どういうものだったんですか?」
タツはしばらく何かを考え込んでマドカの顔を見つめると、肯定とも否定ともとれる表情を浮かべてにっこりと微笑んだ。端正な顔立ちのタツが笑うと、目尻に小さな皺が寄った。
「マドカちゃん俺な、初めてロランのステージを見た時、頭の後ろを鈍器で殴られたような衝撃…驚きというか感動っていうか、言葉も出なかった。俺は色んなボーカリストを見てきたんやけど、ロランみたいなのは初めてやった。なんて言うんやろな、存在感があるとか華があるとか、そういう単純なもんじゃなくて。これは大袈裟な言い方だけど、自分の体がすべてロランに支配されるような感覚に襲われた。うまく説明できないんやけど」
「タツさんの言いたいことは、なんとなくだけど…、私も分かります」
マドカがそう言うと、タツは小さく微笑んだ。
「ロランが人を惹きつける才能を持ってるっていうのは、誰が見ても納得できることやねん。瞳を奪われるっていう言葉はロランのためにあるようなもんやな。それだけ俺がロランから受けた衝撃は凄かった。今でも鳥肌が立つくらい、ロランのステージを初めて見た時のことは一生忘れられない」
マドカはステージの上で鮮やかに照らされるロランを思い出していた。それはマドカにとっても、この先ずっと忘れることのない美しい姿だった。
「俺が一番惹かれたのはロランの目。あの大きな瞳やった。ただ美しいだけじゃなくて、ロランの瞳には色んな感情が詰め込まれてる。ロランの感情はあの瞳から溢れてる。あれだけ完璧な魅力が揃ってたら何だって手に入りそうなもんやろ?でもロランは違った。そのことに俺が気づかされたのは、ずっと後になってからのことだったけれど」
タツはそう言って、唇を噛みしめた。
「マドカちゃん、アサミが何て言ったのか知らないけど、俺はロランの人生を預かっているんだっていつも自分に言い聞かせながらラ・ヴォワ・ラクテっていうバンドをやってきたつもりだよ。俺が転んだらロランも痛い目に合うし、俺がこのバンドを捨てたらロランの人生もそこで終わる。俺とロランはそういう道を歩いてる。でたらめなこと言ってるようにしか聞こえへんかな?」
マドカが首を振ると、タツは目を細めてこれまでで一番優しい顔をした。
「マドカちゃん、ずっとロランの傍にいてやってくれないかな。何があってもずっとロランの隣にいてやって欲しい。これはマドカちゃんだから言ってることだよ。ロランが一番大切にしているマドカちゃんだから」
「私…同じこと…アサミさんにも言われました。私はずっとロランの傍にいられたらそれだけでいいな、っていつも思ってます。ロランが私のことを必要としてくれる限り、ずっと傍にいることができればいいな、って。私にとってロランは儚い夢の欠片みたいなものなんです。私、ロランの恋人でいる資格なんてないって悲観的になったり、些細なことでめそめそしたりして、彼のことをうまく支えてあげられる自信なんてないけど…、それでもロランと一緒にいるとほんの少しだけ強くなれる自分がいて…」
マドカはそう言って寂しそうに俯いた。
「マドカちゃんなら大丈夫だよ。マドカちゃんはロランの瞳に映るものをあいつの隣でそっと眺めてあげるだけでいいんだ。マドカちゃんになら、きっとロランを救える――」