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空に架かる橋  作者: 楓花
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第9章 太陽の絆(2)

 短い正月休みも終わり、マドカはいつものようにオフィスで仕事をして長い一日を終えようとしていた。年明けの仕事はのんびりとデスクワーク。溜めていたメールをチェックしながら、卓上カレンダーにつけられた赤い丸印に自然と目が向いている。

 ロランの話だと、今日が帰国予定日ってことだけど…

 ロランの帰りが待ちどおしい。ロランの顔を見るまでは、新しい年が始まったという実感が沸かない。

 とりあえず、ロランのアパートに行ってご飯作っておこうかな…


 松田に挨拶をして、オフィスをあとにする。エレベーターで一階に降り、エントランスを抜けて外に出ると冷たい北風が身に染みた。マフラーを顎の上までひっぱり上げ、マドカは肩を縮めた。


「マドカちゃん、お疲れさま」

 弾むように滑らかな声にマドカが顔を上げると、目の前にマリ子が立っていた。

「マリ子さん」


 どうしてここにマリ子がいるのだろう。マドカは初めて会った時と同じように、感じの良い微笑みを浮かべたマリ子をじっと見つめた。相変わらず高価な装飾品を身につけ、頭のてっぺんからつま先、指先にまで丁寧に気遣いされた彼女の美意識が伺える。

 マリ子がにっこりと微笑むと、完璧な形をした美しい唇が洗練された無駄のない表情を作っていた。


「マドカちゃんって、出版社に勤めてたんだね」

 マリ子はそう言って、こぢんまりとした古いビルを見上げた。

「急に来てびっくりしちゃったよね、迷惑だったかな?」

 マリ子の口元には相手を安心させるような不思議な魅力を帯びた笑みが浮かんでいて、マドカもなんとなく笑顔になってしまう。

「マドカちゃんの会社、智樹くんに教えてもらったの。だから、ちょっとだけ会いに来てみたんだけど…よかったら、そのへんでお茶でもしない?」

「これからですか?」

「あれ、もしかして都合悪い?」

「いいえ、少しだけなら…」

 マドカはそう言って腕時計に目をやった。日が沈むのにはまだちょっとだけ時間がある。ロランの笑顔を思い出しながら、マドカはマリ子と一緒に目についた喫茶店に入った。





「本当、急に訪ねたりしてごめんね」

 マリ子はティーポットの蓋を押さえ、カップに熱い紅茶を注いだ。アールグレイの深い花の香りが広がっていく。シュガーを一粒落とし、スプーンでカップの底を掻き混ぜると、彼女は一呼吸置いて紅茶を口に運んだ。

 細く長い指には、カルティエのリング。高価なものも、マリ子にはしっくり馴染んでいる。

 マドカは陶器のカップをゆっくりと下ろしてマリ子の顔を見つめた。


「今日は…何か用があったんですか?」

 マドカの視線に気づくと、マリ子は再び微笑んだ。瞬きをするたび、彼女の黒い睫毛が揺れた。

「たいした用じゃないの。ただ、マドカちゃんと一度ゆっくりお話がしたくて」

 マリ子はそう言うと、細い指でカップを持ち上げた。緊迫した違和感を覚えながらも、目の前で微笑むマリ子にマドカは強い嫌悪感を抱くことはできなかった。


「マドカちゃんと智樹くんって、本当に仲が良いんだね。智樹くん、私と一緒にいてもいつもマドカちゃんの話ばかりするの。幼馴染みがああした、こうした、ってね」


 マドカは曖昧に笑って肩をすくめる。マリ子の穏やかな瞳は、じっとマドカの視界を捕らえていた。二人のあいだに流れる空気はどこか重く、マリ子に抱く違和感も膨張していった。マドカは思わず息を呑む。


「マドカちゃん、私ね、智樹くんのことが好きなの」

 マリ子はそう言って、ほんの少しだけ頬を赤らめたようにも見えた。けれどその瞳はじっとマドカの表情を伺っていた。

「驚いた?」

「いいえ…」

 マドカは首を振った。


「はじめは遊び半分だったの。遊びっていうか、本気じゃなかった。前に付き合ってた彼と私がうまくいかなくなってね、智樹くんが色々と心配してくれてたのよ」

 マリ子は目を細めて静かに笑った。


「彼氏と別れて、しばらく恋なんてしないって思ってた時、智樹くんが優しく励ましてくれて。何度か二人で会うようになって。でもね、私…、智樹くんも辛い恋と向き合っていることを知ったの」


 マドカは一瞬、首を傾げた。


 智樹が、恋?

 女癖が悪くて、いつも違う女の子と身体の関係しか持たなくて――。

 その智樹が、辛い恋と向き合っている…?


「智樹が辛い恋…ですか?」


 マドカはマリ子の言葉を疑った。

 智樹が恋なんて…、相手が誰であっても、智樹はいつだって、私に何でも話してくれるのに――。

 驚いたマドカを蔑むように、マリ子は話を続けた。


「私ね、そんな智樹くんを見てるのが辛かった。智樹くんは格好良くて女の子にもモテるし、恋愛の悩みなんてひとつもない人だと思ってた。大学でも、智樹くんの周りにはいつだって女の子の人だかりができるほどよ。智樹くんは社交的で話も上手だし、魅力的だもの」

 マリ子はそう言うと瞳を伏せ、静かに首を振った。


「私はいつの間にか智樹くんのことが好きになっていた。前の彼氏のことも、智樹くんがいたから忘れることができたの。でも、ちょっとおかしいなって思った。智樹くんだったら、すぐに素敵な彼女ができそうだし、どうしていろんな女の子を、まるで着せ替えみたいにとっかえひっかえしてるんだろうって。だから聞いたのよ、好きな子はいないの?って」


 マリ子はそこまで話すとカップを口に運び、ゆっくりと紅茶を飲んだ。マドカはただマリ子の話を注意深く聞いていることしかできなかった。しばらく沈黙して向き直ると、マリ子は改めてマドカの顔をじっと見つめた。


「率直に言うわね」

 マリ子の視線が鋭くなる。


「マドカちゃん、もう智樹くんに会わないで」

「…どういうことですか?」


 マドカは眉間に皺を寄せた。マリ子の言葉が頭の中で渦を巻き、複雑な稜線を描いていく。その言葉の裏を読み取ろうとしても、答えは見当たらなかった。マドカの違和感はさらに増すばかりだ。


「それって…どういうことですか?マリ子さん、私はイブの日に初めてあなたに会って、純粋に智樹とあなたのことを応援したいって思っていたんです。あなたはとても綺麗で素敵な人だし、智樹といい関係になってくれたらいいなって、そう思ったんです。それなのに、どうしてそんなこと言うんですか?私が二人のあいだを邪魔するとでも思っているんですか?」


「違うわ。そういう意味で言ってるんじゃない」


「だったらどうして…?智樹は私にとって一番の友達なんです。どんな時も智樹がいてくれて…お互いに必要とし合える存在だと思っています。私たちは何年も一緒にいて、色んなことを話して、色んなことを乗り越えてきた友人なんです。それなのに…、マリ子さんは一体…智樹と私のあいだをどうしようっていうんですか?」


 マドカはうんざりして首を横に振った。


「確かに私はあなたに嫉妬しているわ。あなたは智樹くんの一番近くにいる女の子だから。とても仲の良い女の子だから。でも、それだけじゃない」

 マリ子が何を考え、何を言いたいのか、マドカにはまったく検討もつかなかった。


「マドカちゃん…、智樹くんがどうして彼女を作らないのか、あなた知ってる?」


「それは…、智樹が女はいらないって自分で思っているからじゃないんですか?智樹はいつも私にそう言います。本人が言ってるんだから、間違いないと思いますけど」


 マドカは冷めた紅茶を一口飲んだ。カップとソーサーが触れ合う音が二人のあいだに響く。

 マリ子は目を伏せてゆっくりと首を振る。


「それは嘘よ。智樹くんはあなたに嘘をついているわ。智樹くんには想いを寄せている女の子がいるし、彼はずっと、彼女のために悩んだり、傷ついたりして辛い想いをしているのよ。マドカちゃん、私の言いたいことが分かるかしら?」


 智樹は…私に嘘をついているの?智樹には想いを寄せている女の子がいて…ずっと辛い思いをしていたの?

 そんなこと…智樹は一言も言ってくれなかった。これっぽっちも好きな子がいるなんて、そういう仕草、見せてくれなかったよね、智樹…


 マリ子の言葉が、痛いほど胸に突き刺さる。けれどそれだけの理由で智樹に会わないで欲しい、と第三者のマリ子に言われる覚えはない。


「智樹は…、その子のために彼女を作らないってことですか?」


 マリ子は静かに頷いた。張り詰めた空気が、二人を覆う。


「残念だけど、智樹くんが想いを寄せる相手は私じゃないわ。どんなに頑張っても、私は智樹くんの彼女にはなれない。彼の心はいつも別のところにある。智樹くんはずっとたった一人の女の子のために心を震わせている。私にも、他のどんな女の子にも、彼の心を揺らすことはできないの。あなた以外を除いては――」


「私…?」


マリ子の表情が曇る。


「マドカちゃん、お願いだからもう智樹くんに会わないで。これは私があなたに意地悪をしているわけでも、なんでもなくて。ただ、智樹くんがかわいそう。あなたのために、彼は悩んで傷ついて、複雑で辛い想いを抱えてる。私はそんなふうにみじめな思いでいる智樹くんを見ていられないわ。智樹くんは、マドカちゃんのことが好きなのよ。あなたへの気持ちを、誰にも言えずに苦しんでる。私にはそれが分かるわ。だからお願い、彼を苦しめないで。もう、智樹くんに会わないであげて――」





   *



 悪い夢を見ているような気がする。目を閉じてもどこまでも闇は広がり、思うように寝付けないまま、寝返りの数だけが増えていく。マリ子の言葉が何度も頭の中でリフレインして、ふと気がつくと智樹の顔を思い浮かべている。

 いつだって智樹は誰からも好かれて、女の子にも人気があって、頭もキレるしスポーツも万能で、絵に描いたように爽やかな男の子だった。なのに、女にだらしがなくて、色んな女の子を泣かせてて…

 そういえば二十歳を過ぎた頃から、どんどん大人びていく智樹が私の傍から離れてしまいそうで、時の流れにほんの少しだけ嫉妬したのを覚えてる。


 智樹はずっと一緒にいてくれた。喧嘩して、仲直りして、智樹はいつも私のことを気にかけてくれた。私が悩んだり苦しんだりしてる時、智樹はいつも傍にいてくれた。智樹が私の隣にいることが当たり前だったし、これからだってずっとそうだと思ってた。


 だけど、智樹はそうじゃなかったの?

 智樹は、私をどんなふうに見てた――?





 枕元に置いた目覚し時計の針は午前二時をまわったところだ。浅い眠りがやってきては、何かのしるしみたいにマドカを掴み、一瞬の出来事のようにすっと消えていく。

 マドカはベッドから起き上がると薄暗い部屋を抜けてキッチンの冷蔵庫を開けた。牛乳のパックを取り出し、小さな鍋をコンロにかけて温める。マグカップに温めた牛乳を注いで、それを両手で抱えるようにして部屋に戻る。


 頭の中をクリアにしよう…


 マドカは部屋の窓を開けた。パジャマの上から外の空気が纏わりつく。凍えるような風の冷たさに思わず肩を縮める。

 吐く息は白い。藍色の空を見上げると、闇と一体化した部屋が今にも夜空に吸い込まれてしまいそうだった。 スモークの立ち込めた東京の夜空でも、冬の星座は比較的よく見える。

 凛と張り詰めた空気が漂う中、北の空を見上げると、一際輝く三つの星が等間隔に並んでいるのが見えた。

 あれって、もしかして冬の大三角形かな――?

 思わず人差し指で空に三角形の模様を描く。三つの星は、それぞれの色をそっときらめかせながらマドカを見下ろしていた。


「智樹…」


 溜め息とともに、マドカは彼の名前を呟いた。普段は何気なく呼びかける彼の名前が、今日はなんだか重大な役割を与えられたみたいにマドカに重くのしかかる。

 ベッドの上に腰掛けてホットミルクを飲みながら、マドカは次第に落ち着きを取り戻していく。気分がいくらかすっきりすると、睫毛を伏せ、瞼の裏に焼きついた智樹の面影を探した。けれど闇は深く、そこに見えるの蒼白い月だけだった。


 太陽は月の裏側に、その姿をすっぽりと隠している。

 まるで、マドカの心を見透かしたみたいに――。





 マリ子との会話を頭から振り払えずに朝を迎え、時間だけが過ぎていった。智樹の顔が、声が、頭の中にちらついて離れない。マドカにはマリ子の言葉が信じられなかった。信じたくても信じてはいけないような気がしていたのだ。


 何度も溜め息ばかりが宙を舞い、一日が終わる。仕事が終わると、マドカはいつものようにあの公園に向かう。ロランに出会った交差点を渡り、ベンチに座って噴水を眺める。日が暮れるのが早いこの時期はマドカ以外に誰の姿も見当たらなかった。静かに流れる水の音が耳元に響く。


 不意に、鞄の中で携帯が震えた。乱雑した鞄の底を掻き分け、マドカは携帯を掴む。

 どこか祈るように聞こえるバイブの音。

 着信画面を見る。


 ―― 智樹


 携帯はマドカの手の中で震え続けている。智樹からの着信は、随分長いあいだ携帯を鳴らしていた。


「智樹、ごめん…」


 鳴りっ放しだったバイブ音も、しばらくしてその振動が止まった。

 マドカはぎゅっと携帯を握り締めると、ロランのアパートに向かった。

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