第9章 太陽の絆(1)
電話のベルが鳴る。居間のソファでくつろぐマドカの横を母が小走りで通り過ぎ、受話器を取った。電話の相手と新年の挨拶を交わす母の背中を横目で見ながら、マドカはテーブルに並んだおせち料理をつついている。
予定のない正月休み。のんびり実家に帰って過ごすのも悪くない選択だった。料理は美味しいし、何よりマドカと母のあいだに横たわっていた深い淵も以前に比べて緩やかだ。マドカは御重に入ったかまぼこを箸でつまんだ。
「マドカちゃん、電話よ」
かまぼこをもぐもぐと噛み砕きながら、マドカは電話を代わる。
「なーんだ、お前…実家帰って来てんじゃん」
声の主は智樹だった。
「智樹?なんで家の電話にかけるのよ。携帯にかければいいじゃん」
「どっちでもいいだろ、俺はお前の母さんに挨拶したかっただけなんだよ」
新年早々ぶっきらぼうな口調の智樹に、マドカは少し飽きれた。
「あっそう、お母さんに用事だったの?じゃあもう切るよ、今年もよろしくね、智樹」
「おい!マドカ待てって。お前さ、初詣行った?」
「まだ、だけど…?」
「じゃあ、一緒に行くか。今からお前ん家行くから、準備して待ってろよ」
「え?今すぐ?…智樹っ?」
電話が切れた。
年が明ける前に、ロランは曲作りとレコーディングでロスに発った。マドカが楽しみにしていたロランとの年越しも初詣も、申し合わせたみたいに見事に流れた。
寂しくないと言えば嘘になる――。 けれどマドカは、離れている時間もロランと見えない何かで繋がっているような気持ちでいられた。ロランは「好き」という感情の枠に収めることのできない、特別な人――。
迎えにきた智樹を玄関で待たせて、マドカは出かける支度をした。薄いメイクをして長い髪を梳かし、ウールのセータの上にコートを羽織る。
「智樹、お待たせ」
ロングブーツを履き、マフラーを首にぐるぐると巻きつけた。
「お前、そのブーツ危ないんじゃねぇの?」
「そう?」
「そう?じゃねーよ、お前さ、ここ東京じゃないんだぜ?秋田だぞ、秋田!秋田の山奥ですけど?」
智樹の言いたいことはマドカにもよくわかった。寒さで凍結した雪道を、細いピンヒールで歩けるわけがないのだ。
「仕方ないじゃん。東京からこの恰好で来たんだもん、他に履くのないし…」
マドカが口を尖らせると、智樹は呆れてため息をついた。
「コケても知らないふりしていいか?俺、手貸さないからな」
*
神社までの道を、こうして智樹と二人で歩くのは何年ぶりだろう。初めて智樹と初詣に行ったのは、確か、中学一年の時だった。新年になると毎年一緒にお参りをして、おみくじを引く。ほんの些細なことでよく笑い、雪道を転げ回るようにしてはしゃいでいた。
智樹の彼女になりたいなんて考えたこともなかったけれど、気心が知れていて、一番近くにいた智樹に特別な感情を抱くことなく今日まできたのもよく考えてみれば奇妙な感じだった。
久しぶりに歩く故郷の風景に、マドカはこの街で過ごした様々な出来事を思い出していた。上京する前の、まだ小さくて半人前だった自分。まだ幼くて恋も愛も知らない、ロランに出会う前の、自分――。
「…きゃあ!」
ぼんやりと考え事をしていたせいで、マドカは足を滑らせた。体がバランスを失い、思わずポケットに手を突っ込んでいた智樹の腕をぎゅっと掴んでしまう。
「あ、ごめん…」
さっきの言葉を思い出し、マドカは手を引っ込める。マドカの不安定な足元を見ると、智樹は何もなかったかのようにしらけた顔で歩きだした。
「きゃっ!」
「危ねーな」
雪道に足を取られて何度も足を滑らせるマドカに、面倒臭そうな顔をしながら智樹はその大きな手を伸ばす。
「つかまれば?」
「え、いいの?」
マドカが長身の智樹の顔を見上げる。差し出された智樹の手は、細く、青白いロランのそれとはずいぶん違っていて、ごつごつとした太い指に血管の筋が浮き出て、いかにも男性的だった。マドカは一瞬俯いて、差し出された手を掴むのをためらった。
「つかまる?つかまらない?どっちだよ」
智樹に急かされ、マドカは黙りこくってその手を取った。
「ありがと」
マドカの手をすっぽりと覆ってしまう智樹の男らしい手。頭ひとつ分ほど違う身長差。悪戯な中学生だった智樹は、いつのまにか大人の男性に成長しているのだとマドカは初めて実感する。ロランの温もりとは違う心地よい安らぎが、マドカを優しく包んでいた。
「そういやお前、あいつとは年越さなかったの?」
「あいつ?」
「彼氏だよ、お前の彼氏。ラクテのボーカル」
「ロランは仕事だもん…智樹こそ、マリ子さんとお正月は過ごすもんだと思ってたよ」
マドカが顔を見上げると、一瞬、智樹の表情が曇るのがわかった。
「マリ子さんって、彼女じゃないの?」
智樹はマドカの言葉を無視しながら、ぐいぐいと手を引いた。智樹の大きな歩幅に、マドカは小走りになる。二人の息は弾み、繋いだ手は汗ばんできた。
「ちょっと、智樹、歩くの速いってば」
ようやく智樹の歩調が穏やかになる。ピリピリと張り詰めた空気の漂う智樹の背中を見つめながら、マドカは静かにその後ろをついて行った。
「なんかお前、勘違いしてない?」
「…何が?」
「マリ子さんのこと、勘違いしてるだろ」
智樹の足が止まり、マドカに体を向ける。
「彼女じゃないの?じゃあ、智樹がマリ子さんを好きってこと?もしかして…片思い?」
「お前、勘違いもほどほどにしろよな。マリ子さんはただの友達なんだよ、別に俺が好きとかそういうんじゃねーし。仲良しなだけなの」
智樹はそう言って、マドカの小さな顔を見下ろした。口元からこぼれる白い息と、ピンク色に染まった頬のコントラストがいつも以上にマドカを可愛らしく見せている。込み上げる想いに耐え切れず、智樹は繋いでいた手を思わず解いた。
「なーんだ、そうなんだ…イブの日…智樹、照れてたみたいだったから、もしかしてマリ子さんのこと好きなのかなぁと思って」
マドカの言葉に、智樹は再び呆れたように溜め息をついた。
「なぁ、マドカちゃん?」
「なに?」
マドカが智樹の顔を見上げる。智樹は思う。マドカが自分のことを見上げて話す時の上目遣いや、頬を膨らませる仕草が、何度この理性を奪おうとしただろう。何度、「親友」という一定の距離を保った複雑な関係を壊してしまいたいという思いに駆られただろう。
智樹の気持ちに、マドカはまだこれっぽっちも気づいていないのだ。この想いを伝えない限り、永遠にマドカは気づくことはないだろう。鈍感なマドカには十分あり得ることだった。
智樹はマドカのまっすぐな瞳から視線を逸らすと、再び前を向いて歩き出した。
「俺はさ、特定の女なんて必要ないんだよ。別に今は好きな女もいないし、恋だの愛だのって、めんどくせーじゃん」
「でも私、智樹には可愛い彼女を作って、幸せになってもらいた…」
「いいんだよ」
智樹はぶっきらぼうにマドカの言葉を遮った。二人は何の言葉も交わさないまま、神社の境内に向かった。
「ねぇ見て、智樹!私、大吉だよ!」
初詣客で賑わう境内は、若いカップルや家族連れでごった返していた。
「智樹は?どうだった?」
おみくじを握り締めて呆然とする智樹の後ろから、マドカはこっそりと覗き込む。
「うわ、智樹、凶だって!」
「うっるせぇーな…もう一回引くんだよ。なんだよ、これ。新年から気分悪りぃじゃん」
智樹はいつもこうだった。彼のおみくじは、毎年必ず三回は引かれるのだ。智樹が二回目のおみくじを引くのをマドカが面白そうに見ていると、背後からに賑やかな声がした。
「マドカ!智樹!?」
振り向くと、そこには高校時代の友人の姿があった。
「超久しぶり!!」
懐かしい面影に、どちらからともなく思わず駆け寄る。手を取り合って、数年ぶりの再会に花が咲く。
「マドカ、智樹と二人で来たの?」
友人は、マドカと肩を並べる智樹の顔を見上げた。
「智樹、またかっこよくなったねー、マドカも…なんだか綺麗になったんじゃない?」
友人の言葉に、マドカは照れ笑いをする。お世辞でも、嬉しい…。
「ていうか、あんたたち、付き合ってるの?」
「な、なんで!?そんなふうに見える?」
マドカは智樹と顔を見合わせた。
「だってさぁ、あれだけ仲の良かった二人が一緒に東京に行って…、私はてっきり向こうでマドカと智樹はくっついたんだと思ってたよ?違うの?」
友人は悪戯に微笑みながらそう言って、二人の顔を交互に見た。
「なっ、何言ってんの!?そんなのありえないってば!なんで私がこんなのと付き合わなきゃならないのよ、やだ!」
友人の言葉を完全否定するマドカの隣で、智樹の胸中にはもやもやとした霧が立ち込めていた。
「でもマドカ、こんなに可愛いんだから、やっぱり彼氏いるんでしょう?」
友人の、他人の恋愛事情を探るような視線。同級生の女の子たちの、恋愛動向が気になるのも仕方ないのかもしれない。
「え、あ…まぁ、うん…」
「えーっ、ねぇどんな人?どんな感じ?歳は?」
「どんな人って言われても…」
マドカは口ごもってしまう。どこにいても、誰に聞かれても、はっきりと言えないもどかしさ。
私はロランの彼女だよ、って――。
「普通の人、可でもなく不可でもなくって感じ…」
「えーっ、なによそれぇ?」
マドカの曖昧な答えに友人は不満気な表情を浮かべた。
「智樹、智樹は知ってるんでしょ?マドカの彼氏」
「んー、まぁな」
「ね、どんな人なの?」
「まぁ、男の俺が見てかっこいいかどうか分かんねーけど、マドカの彼氏って、俺の友達だぜ?普通の奴だよ。マドカの言うとおり、可でもなく不可でもなくって感じ」
マドカは、友人に淡々と話す智樹の顔を見上げた。これって…私のことかばってくれてるんだろうか…それとも、めんどうだからって適当に流してくれてるだけ?
マドカはほっと胸を撫で下ろす。
*
鳥居を抜けてひとけもまばらな歩道に出ると、来た時と同じようにマドカは智樹の大きな背中を見つめて歩いた。冷たい北風が時々、痛いくらいに頬を刺す。智樹のワークブーツの底にはりついた雪が、さくさくと気持ちの良い音を立てている。
「お前さ、いつもあんな感じなの?」
「あんな感じって?」
前を向いて黙々と歩きながら、智樹は平坦な口調で話した。
「いつもああやって隠してんのかよ?」
「隠してる?」
「彼氏のこと。誰にも言うなって言われてんの?」
いつになくぶっきらぼうな智樹の口調は、マドカを苛立たせた。
「別に…、ロランには何も言われてないよ。二人の関係を隠すとか、誰にも言うなとか…、ロランはそんなこと言わないよ」
マドカは強く弁解するように言い返した。
「ただ…あんなふうに恋愛のことを聞かれると、私は…自分が本当にロランの恋人なのか、自問自答したくなるだけ。ロランの彼女だなんて、誰も信じてくれないと思う」
行き場のない虚しさがマドカの中に込み上げる。スピードを速めて前に進む智樹をよそに、マドカはその場に立ち尽くしていた。
「お前は…それでいいの?」
そう語りかける智樹の言葉に、マドカの返事がない。
智樹が後ろを振り返ると、ずっと遠くのほうでマドカは両手で顔を覆い、俯いたままだった。
「ばーか、お前…、何泣いてるんだよ!?」
智樹は思わずマドカのもとへ駆け寄った。マドカは静かに肩を震わせている。
「おーい、なんで泣くんだよ!」
泣きたいのは俺のほうじゃねーか、と智樹はつくづく思った。マドカを見下ろし、何もしてやれない自分の無力さにやるせない気持ちになる。
「そんなに辛いなら別れちまえばいいだろ?ミュージシャンだかボーカルだか知らねーけど、そんな面倒な奴と無理して付き合うことないんじゃねぇの?」
智樹が顔を覆っていたマドカの手を払うと、頬を伝う涙の粒がこぼれ落ちた。赤い目のマドカが、唇を噛み締めて智樹の顔を見上げる。
まぁ、泣くだけ好きってことだよな…あいつのこと。
智樹は今日何度目かの溜め息を浮かべた。
「なぁ…マドカ、お前は、何も心配することないと思うぜ?これは、俺が感じてることだけどさ、きっと向こうだって辛いんだろうよ。あの人…ロランだっけ?別に悪い人じゃないし、お前のこと大切にしてくれるんだろ?」
智樹が幼い子供を宥めるみたいに腰を屈めると、マドカはこくりと頷いた。
「色んな恋愛の形があるんだからさ、これぐらいのことで泣いてどうすんだよ。好きなら好き、それでいいんじゃねーの?片想いの中学生じゃあるまいし。お前はあの人に愛されてんだよ、それのどこが不満なんだよ?」
智樹の優しい言葉が身に染みて、マドカの胸はじんと熱くなり再び涙が溢れ出る。
「また泣く…!俺、なんか悪いこと言ったか!?」
マドカは首を左右に振った。
「しょうがねぇ奴だな。こうなったら、彼の好きなところを十個言いなさい。好きっていう気持ちを声に出して言えば楽になるだろ。一人で言うのも虚しいから、俺が聞いてやるよ」
智樹はそう言うと、マドカの顔を再び見下ろした。
「本当に…言うの?」
智樹がまっすぐ頷く。
「恥ずかしいじゃん。なんで智樹に言うのよ、それこそ虚しいじゃん…」
マドカがいじけたように頬を膨らませると、智樹が催促するように言う。
「まずは一つ目。はい、どうぞ」
言われるまま、マドカは智樹のペースに引きずられてしまう。
「えっと…、大きくて深い瞳が好き…かな」
「よし、じゃあ、二つ目」
「一見冷たそうで意地悪なんだけど、根は優しくて甘えんぼなところ…とか」
「三つ目は?」
「柔らかな少し高めのトーンで話す、独特の関西弁とか…」
「四つ目」
「ああ見えて実は家庭的で…料理でも何でも一人で全部こなせちゃうとことか」
「五つ目」
「綺麗な歯並びを見せて大きな口で笑うとこ。完璧なロランの顔がほんの少し崩れる瞬間が好き…」
「六つ目」
「ロランの描く絵が好き」
「絵?あの人、絵なんて描くのか?」
「うん、風景画。すっごく上手いの」
「へぇー、じゃあ七つ目は?」
智樹の問いかけは続いた。
「んーっと、恥ずかしいセリフもさらっと言えちゃう、意外とロマンチストなところ」
「八つ目」
「煙草を咥える仕草と、風に流れる髪とか…」
「九つ目」
「全部好き…かも」
「ん?」
智樹がマドカの顔を覗く。
「智樹…、私、ロランのすべてが好き。ロランの過去も現在も、彼を取り囲むすべてのものが好きだよ」
マドカはそう言って、にっこりと微笑んだ。頬にうっすらと残る涙の跡が吹き寄せる風にさらされて、そっと乾いていく。
「そっか、それならもう泣くな。お前が泣くと、こっちも調子狂うんだよな。なんつーか、友達として心配っていうか、なんていうか…とにかく、もう泣くなよ?これぐらいで泣いてどうすんだよ」
「ね、智樹」
マドカは智樹の上着の袖を引っ張った。
「…なんだよ」
「智樹の好きなところ、言ってあげようか?」
「は!?何言ってんのお前…」
思わずマドカの瞳から視線をそらし、智樹はそっぽを向く。おそらくマドカは冗談や面白半分ではないだろう。純粋に俺の好きなところを言うつもりなんだろう、きっと。それも、「友達」として好きなところを、延々と言うつもりなのだ。
マドカの大きな丸い瞳が、じっと智樹を見つめている。智樹の複雑な気持ちをよそに、マドカが口を開いた。
「ロランと正反対なところが好き」
「はあ?なんだよ、それ」
智樹は呆れて眉間に皺を寄せた。
「だって、ロランと智樹って、月と太陽みたいなんだもん。ロランが月で、智樹が太陽。ね、ぴったりでしょ?」
「ぴったり…か?」
すっかり笑顔を取り戻したマドカの顔を見て、智樹は安堵の表情を浮かべた。風に流されるマドカの長い髪はきらきらと透き通り、いつまでも智樹の目に焼きついていた。ブーツの踵についた雪をつま先を立ててトントンと払うと、マドカは智樹の顔を見て微笑んだ。
「智樹…ずっと友達でいようね。遠く離れても、智樹に好きな女の子ができても、お互いに結婚しても、例え歳を取っても…智樹は、私の一番の親友でいて欲しい。私たちって、本物の男女の友情でしょ?」
首を傾げるマドカの質問に、智樹は何も答えることができなかった。そこにいるマドカへの気持ちをこのままずっと打ち明けることなく、ひっそりと想い続けることもこの先できそうになかった。けれど、マドカに対するこの想いが行き着く先も智樹には検討もつかなかった。
もやもやとした複雑な回路をたどりながら、智樹はじっとマドカの世界に佇んでいる。この先ずっとマドカの親友であり続けることが、唯一の愛情なのかもしれない。
けれど数日後、智樹の願いは見事に破られる。その歯車が狂い始めることに、二人はまだこれっぽっちも気づいていなかったのだ――。