第8章 クリスマスの思い出(2)
このクリスマスを、私はきっと忘れないだろう。狭い部屋の真ん中には、小さなケーキと間に合わせで作ったキャンドル。隣にはロランがいて、私の髪を優しく撫でてくれる。暖房のないあなたの部屋は寒かったけれど、あなたの腕に抱かれる私は、あたたかな暖炉の前にいるみたいだった。
ねぇ、ロラン…キャンドルの火が揺れるたびに、私の心も震えていたのを覚えてる?あなたが囁く意地悪で甘い言葉が、私の胸を苦しくさせた。私の小さな手でさえも、抱きしめたら消えてしまいそうなあなたの美しさが眩しくて…私は瞳を閉じた。
あなたの過去に繋がる扉を、ほんの少しだけ開けることができたなら、あとは…ずっとあなたの傍にいたい。それだけでいい。私はアサミさんのように強くはないけれど、それでもあなたが好きだから。
メリークリスマス――、ロラン…
*
窓から薄っすらと差し込む冬の朝日が、ひっそりと部屋の中に充満していた。軋むベッドの上で寝返りを打つと、テーブルの上に燃え尽きたキャンドルの跡が見える。寝息を立ててぐっすりと眠るロランの温もりを背中に感じる。深呼吸をすると、白く吐かれたマドカの息がぽっかりと宙に浮かんだ。
肩のあたりが冷気にさらされてひやりとする。暖房のないロランの部屋は、雪の中でただ一人マッチを売る少女の物語を思い起こさせた。この部屋には幻覚にも似た暖かさがあった。マッチを擦って夢のような時を過ごした少女の風景と、同じように――。
ロランを起こさないようにベッドから抜け出すと、マドカは床に散らばる服の中からモヘアの黒いニットを手に取り、裸の身体に頭から被った。肩幅は広く、袖もマドカには少しだけ長い。ロランの服を着るだけで、彼に抱きしめられているようだった。毛糸の結び目が、マドカの肌をちくちくと刺した。
裸足で板張りの床を歩く。震える肩を抱き、手のひらで両腕を撫でる。マドカはキッチンに立ち、お湯を沸かしながら立ち上る湯気をぼんやりと眺めた。シンクの上に反射する朝日が、時々マドカの視界を遮る。
クリスマスの朝――。
子供たちが枕元に用意されたプレゼントのリボンをほどく時間。希望の光に満ちた、一瞬のきらめきを追いかける想い。
マドカはふと、幼いロランの瞳に映るクリスマスに思いを馳せた。ロランはどんな幼少時代を送ったのだろう。ロランが記憶するクリスマスの思い出――。それが悲しみで埋もれていないように、祈りながら。
熱いコーヒーをカップに注いで部屋に戻ると、ベッドの上で上半身を起こしたロランがシーツに包まって瞼を擦っていた。唇に挟まれた煙草。虚ろなロランの瞳は、まだ眠そうだ。寝癖のついた頭をそのままにして、マドカを見上げる姿がいじらしい。
「ロラン…どうしたの?」
二つのカップをテーブルの上に置き、マドカは首を傾げてロランの顔を覗く。
「その格好、そそるんやけど」
「えっ?」
下着も付けずに、モヘアのニットだけを頭から被ったマドカをロランは爪先から頭のてっぺんまで眺めた。
「可愛い…」
ロランはシーツを引きずりながらベッドを降り、膝を立てて床に座った。灰皿に煙草の灰を落とすと、湯気の上がるカップの縁を唇につける。
「おいで、マドカ」
ロランは膝のあいだをぽんぽんと叩くと、マドカを見てにっこりと微笑んだ。マドカは言われるまま、ロランの膝のあいだにすべりこんで床の上にぺたりと座る。彼の身体にほんの少しだけ身を預けた。背中に感じる体温と煙草の匂いが、ふわりとマドカの身体を抱きしめる。マドカはカップを手のひらで包み、寒い部屋の中で一段と白く浮かび上がる湯気を見つめた。
「あ、マドカのコーヒーずるい」
「だって…苦いの飲めないんだもん。牛乳入れてカフェ・オレにしてきちゃった」
マドカはそう言って、一欠片の砂糖の溶けたカフェ・オレを飲んだ。熱い空気が喉を通って体内を抜け、冷えた身体が次第に温まっていく。
カップの縁に唇をつけたまま、静まり返る部屋でロランの息遣いを背中で聞く。ゆっくりと、一定の速度で刻まれる彼の鼓動。耳の後ろに、ロランのひんやりとした鼻先が当たった。マドカはカップをテーブルの上に置くと、少し後ろにあるロランの顔を見上げた。
「ロラン…そういえば…クリスマスプレゼント、まだ渡してなかったね」
マドカはそう言ってロランの腕の中から立ち上がる。
「待って、マドカ」
不意にロランに腕をひっぱられ、マドカは再び彼の身体に包まれる。ロランは灰皿の上で短くなった煙草の火を消し、一呼吸おくとマドカの耳に優しくキスをした。
「マドカ、俺からのプレゼント…受け取ってくれる?」
耳元でそう囁くと、ロランはベッドの下に手を伸ばした。
短い沈黙のあと、ロランがベッドの下から黒い表紙のノートを出して、マドカの膝の上に乗せた。よく見ると、それは表紙と裏表紙を紐で閉じるタイプの小さめのスケッチブックだった。
"Dearest Madoka"
「ロラン…これ…」
マドカがロランの顔を不思議そうに見上げる。
「こんなもんしかプレゼントできなくて」
マドカは指先で扉に書かれた"Dearest Madoka"の文字をなぞった。
「ロラン、中…見てもいい?」
ゆっくりと結び目を解き、マドカは表紙を開く。
「わぁ…」
ページをめくるたびに現れる、淡いトーンで描かれた風景。都会の喧騒の中に佇む景色が、マドカの手の中で呼吸を始める。ビルのあいだに見える空と木々があり、街路樹の陰と木漏れ日があり、街を彩る建物の影があり、あの公園のベンチから見える噴水があった。それは、二人だけの特別な場所だった。
心の奥に触れるような優しさを漂わせ、画面いっぱいに広がるもうひとつの風景。ロランの描いた風景は、マドカが今までにみたどんな景色よりも輝いて見えた。
「仕事の合間にちょっとずつ描いとったん。本当は、もっとちゃんとした絵、描ければよかったんやけど」
ロランの言葉に、マドカは首を横に振った。
「ロラン…、私…すっごく嬉しい!」
瞳を潤ませて、マドカはにっこりと微笑む。
「だって…私ね、初めてあの公園でロランの絵を見せてもらった時、言葉にならないくらい、すっごく感動したんだもん。嬉しい…ありがとう、ロラン」
汚れないマドカの笑顔は、まだ幼い少女のようだ。ロランは手を伸ばし、マドカの長い髪に指を絡めた。
「なんか俺…、親父と同じことしてるな」
ロランはそう言って、照れ臭そうに笑った。小さな窓から差し込む太陽の光で、部屋の中が暖まっていく。
「なぁマドカ、俺な、こうしてマドカに見せたくてこの絵を描いとったやろ?そしたらな、なんで親父が売れない画家で終わったのか、なんとなく分かったような気がした」
溜め息をつき、一瞬、諦めのような陰影を含んだロランの表情がマドカを不安にさせる。
「結局、親父はマドカのお母さんのために絵を描いとったんやな。世間一般に認められる画家ってのは、誰かのためになって必死に描いてるだけじゃ、ダメなんや」
ロランはそう言って、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「親父にとって、マドカのお母さんは絵を描くこと以上に大切なものやったんだろうな。だけど、それに気づいた時にはもう、マドカのお母さんはおらんかった。きっと、俺が覚えてる親父の記憶っていうのは全部、マドカのお母さんの面影を背負った、親父の喪失感で構成された世界でしかなかったんやろね。親父は画家でもなんでもない、ただの空虚な人間でしかなかった」
寂しそうに目を伏せたロランに、マドカは静かに微笑んでみせる。
「そんなこと…ないと思うよ。ロランのお父さんの絵は、お母さんの記憶にずっと鮮明に残っていたんだもん。評価や名声はあとからついてくるものでしょ?誰かを想って描いたものが、相手に伝わって、そこでずっと共存し続けることのほうが難しいんじゃないかな…私は…たった一人でもいいから、自分の作品を大切に想ってくれる人がいることのほうが、素晴らしいと思うな」
ゆるやかに昇り始めた太陽の光の筋が、テーブルの上に複雑な模様を描きながら次第にその姿を広げていく。塵が舞う部屋でロランは細め、霞んだ時間を生きている。いつかは泡のように消えてしまうこの時間のすべてを、できることならいつまでも、衰えゆく記憶の中に留めておきたいとマドカは思った。
記憶の中に、いつの日もロランの姿を想い描くことができたなら――。
「マドカ…、一緒に暮らそう。春になったら、ここよりもうちょっと広い部屋借りて、二人で暮らすのも悪くないと思わん?」
ロランはマドカの顔を必要以上に注意深く覗いた。彼の瞳を見つめたまま、マドカはぽかんと口を開けていた。
「あんま乗り気やない?」
ロランは不安気にそう言うと、マドカの耳にぴったりと頬を寄せた。
「俺、マドカとずっと一緒にいたい。今のままでも充分幸せだけど、仕事が忙しくなって…マドカと一緒にいる時間がどんどん削られていくようになったら、俺には自信がない。マドカを絶対不安にさせない、って言い切れない。俺の言うてることがわかる?」
マドカは小さく頷いた。
「ただの俺のわがままかもしれんけど、マドカが傍にいてくれたら、それでいい。無理にとは言わへん。マドカのペースで考えて、いつか二人で暮らそうな」
ロランは笑顔でそう言うと、マドカの頭を撫でた。手のひらから溢れ出すロランの優しさに、このまま時が止まればいいのに、とマドカは願わずにはいられなかった。
「ロラン、でも私…アサミさんみたいに強くない。アサミさんがタツさんを支えてるみたいに、私もロランを支えてあげられるかな」
マドカは睫毛を静かに伏せた。六畳の閑散とした部屋はいつも以上にしんと静まり返っていた。
「マドカは何も心配せんでええ、傍にいてくれるだけで、マドカは俺の支えになれるんやから」
ロランが手のひらでぽんぽんとマドカの頭を撫でる。その柔らかな声を聞きながら、彼の身体にそっと寄り添うと、マドカは自分が世界でいちばん可愛らしい女の子でいられるような気持ちになる。そんな不思議な魔法にかけられたまま、ロランが隣にいる限り、この夢は続いてゆくのだとマドカは思った。
「そういや、マドカのプレゼントって何?」
マドカはロランの腕の中から立ち上がると、鞄の中からリボンのかかった包みを取り出した。
「お金のかかるものはいらないってロランが言うから、本当にお金かかってないよ」
マドカはそう言ってロランにプレゼントの包みを手渡した。
「本?」
長方形の真っ平らな包装は、可愛らしいリボンを結んであっても一目で本だと分かるだろう。
「開けていい?」
ロランが包装紙を丁寧に開くと、中から薄っぺらな冊子がのぞいた。
「絵本?…にしては地味やし、ずいぶん古臭い表紙やな」
水色と薄緑色のパステルカラーのストライプで彩られた厚紙に、手書きのタイトル。
「空に架かる橋?」
「六歳の誕生日にお父さんにもらったんだ。誰が書いたお話か知らないけど、ずっと私の宝物だった。でも、やっと分かった気がするの。もしかしたら、お母さんが書いたお話かもしれない、って…」
マドカはそう言って微笑んだ。
「ぼろぼろになっちゃったけど、ロランにあげるよ」
マドカがもう一度にっこりと笑う。
「なぁマドカ、せっかくやから、読んでくれへん?」
「私が?」
マドカは照れ臭そうに思わずロランの顔を見つめ返した。
「俺、生まれてから今まで、誰かに本読んでもらった経験がないんや。ダメ?」
平然とした表情で懇願するロランを見て、マドカの恥ずかしさもどこかへ消えてしまった。
「しょうがないなぁ、一回だけだよ?」
マドカはそう言って本の上に置かれたロランの手に触れると、ゆっくりとその表紙を開いた。