第8章 クリスマスの思い出(1)
「ジングルベール・ジングルベール、すっずが鳴るー」
街のあちらこちらで流れるクリスマスソングを口ずさみながら、マドカはインターホンを押した。開いたドアの向こうで、智樹は寝癖のついた頭を撫でながら大きなあくびをする。
「あれ?寝てたの?今日は楽しいクリスマスだよ?」
「んあ?あぁ…」
「はい、これ」
マドカは智樹の前に紙袋を突き出した。
「なんだよ…これ」
「お土産、おばさんの漬物」
「はぁ?」
「はぁ?じゃなくて!あんたのお母さんの漬物だよ。マドカちゃんにもどうぞ、って私も貰っちゃった。あとね…」
「お前…、テンション高すぎねーか?イブだからって浮かれてるだけ?」
寝惚け顔の智樹の胸に紙袋を押し付け、マドカは鞄の中を弄っている。
「あった!はい、これも!」
相変わらず寝癖の髪を撫でながら、智樹は差し出された紙切れに顔を近づけた。
「ラ・ヴォワ・ラクテ、クリスマスライブ…?」
「うん!」
「なんでこれを俺に…?」
智樹は首を傾げると、虚ろな瞳でマドカを不思議そうに見下ろした。
「なんでって…二枚もらったし、こないだ食事しに行った時のお礼。これから一緒に行こうよ。智樹が来てくれたらロランも喜ぶよ?」
智樹は顔をしかめた。ロランも喜ぶよ、か…
「どうしたの?行こうよ?」
「いや、せっかくなんだけどさ…」
「何?」
「俺、これから用事あるんだよね」
「えーっ?」
「いや、うん。だから一緒に行けねぇや」
「そっか…、いくら智樹でもイブ当日に誘うってのは無理か…」
そう言って一瞬寂しそうに俯いたマドカだったが、次の瞬間にはにっこりと笑っていた。
「もしかして、デート?ねぇ、デートなんでしょ?」
「うるせぇな、お前には関係ないじゃん」
智樹はムキになってマドカの瞳から視線をそらす。
「ね、どんな子?かわいい?」
悪戯に笑うマドカを見て智樹の心は大きく揺れた。いつもすぐ傍にいて、誰よりも信頼できる大切なマドカ。その踏み込めない領域と距離に、智樹は激しい葛藤を覚える。そして、マドカの愛する恋人について考えると、その葛藤は嫉妬に変わる。
「はいはい、お前には関係ないだろ。つーか、お前には絶対教えたくないね。お前のことだから面白がって色々と詮索…」
「智樹くん!」
その弾んだ声に、二人の会話は遮られた。声のしたほうに視線を向けると、アパートの踊り場に女の子が立ってこちらを見ていた。
女の子というより、女性という表現のほうがしっくりくる。短く切りそろえたショートボブの赤茶色の髪、白いツイードのジャケットを羽織り、ミニスカートにヒールの高いロングブーツを履いた彼女は、玄関のドアから顔を覗かせた智樹を見ると、にっこりと微笑んでひらひらと手を振った。
ブーツの踵を威勢良く鳴らして智樹の部屋の前まで来ると、彼女は再び綺麗な歯を見せて微笑んだ。マドカの隣には彼女が、智樹の前にはマドカとその謎の女性が、三人は歪な三角形を描いて佇んでいた。
高そうな服に身を包んだ彼女から、ふわりと甘ったるい香水の匂いが香る。ふと目をやると、腕にはずいぶん高価な装飾品がさりげなくきらめいている。
「待ちきれないから来ちゃった。智樹くん、遅いんだもん」
彼女は口を尖らせて、智樹のトレーナーの端を甘えるように引っ張った。マスカラがふんだんに塗られた長い睫毛が、彼女の瞬きに合わせて音を立てるように揺れている。ふっくらとしたセクシーな唇は、彼女のチャームポイントだろう。その輪郭は、横にいたマドカも溜め息が出そうなくらい可愛らしかった。
「あーっ!これ、ラクテのライブチケットじゃない!?すっごーい!今、日本で一番チケットが取れないバンド!いいなぁ羨ましい!」
マドカの右手に視線を落とした彼女は、チケットをまじまじと見つめて楽しそうにはしゃいでいる。彼女が動くたびに、香水の香りがいちいち辺りに漂った。
マドカは智樹の顔を見上げた。バツの悪い、どこか困り果てた表情を浮かべて智樹はさっきからずっと寝癖を触っている。
「智樹、紹介して?」
「え?あ、マドカ、こちらが大学で同じゼミの…」
「北マリ子です」
冴えない声で話す智樹を見兼ねたのか、彼女は自ら口を挟むと、満面の笑みでマドカの顔を覗き込んだ。蝶のはばたきのようなその笑顔に、マドカも自然と笑みがこぼれる。
「吉井マドカです。智樹とは中学の時からずっと一緒で…もしかして同い年ですか?なんだかすごく大人っぽい」
マドカの言葉に、マリ子は目を細めて笑った。
「あたし、二浪した上に一年留年したから、ちょっと上なんだ。あ、でも智樹くんとはウマが合って仲良しなの。ねっ、智樹くん?」
「あ…あぁ、まぁそんな感じっすね」
「あれぇ?智樹くんどうしたの?いつもと喋り方違わない?」
マリ子はくすくすと笑いながら、智樹の手を引っ張って腕を絡めた。
「ちょっ…」
智樹は動揺しながらマリ子の腕をするりとかわすと、決まりが悪そうに顔を手で覆った。いつもなら女癖が悪いというところも、女の子と一緒にいるところをマドカに見られてしまっても、平気で知らん顔をしていられたのに。それがマドカへの想いを埋める唯一の手段だった。親友であるマドカに想いを伝えることが、どうしてもできなかったのだ。
でも、今は違う。ロランに出会ってからのマドカを、智樹はどうしても放って置けなかったし、自分の傍に置いておきたいと、強く思うようになったのだ。
「そっか、智樹、今日はこれからマリ子さんとデートなんだね。私お邪魔だし、そろそろ行かないとライブ遅れちゃうから。またね、智樹。マリ子さんとスウィートな夜を楽しんでね」
からかうように微笑むと、マドカはマリ子に頭を下げてもう一度にっこりと笑って手を振った。
「おい…!マドカ!」
智樹は身を乗り出してマドカを呼び止める。マドカは細い指をひらひらと振り、悪戯な笑顔でピースサインを向けた。歩調に合わせて揺れるマドカの長い髪を見つめながら、智樹は肩を落とす。
「やべぇ…」
腕にマリ子の体温を感じる。マリ子は身体に絡めた腕を強引に寄せると、何食わぬ顔で智樹の顔を見上げた。
「智樹くんって、あの子のことが好きなんだ」
「え!?いや、そんなことないない!」
顔を赤らめて頑なに否定する智樹を、マリ子はしらけた顔で見つめた。
「ふうん…でも顔に書いてあるよ?あの子のことが好きだって。でも、まぁいっか、今日は智樹くん、マリ子のものだもんね。私、智樹くんのこと本気なんだよ。智樹くんに好きな子がいても、構わないから」
*
「メリークリスマース!!」
シャンパングラスの触れ合う音。カジュアルなイタリアンレストランを特別に貸し切って行われた、ライブの打ち上げ兼クリスマスパーティー。 それは、ラクテのメンバーと親しい関係者だけが集まった、シンプルでいて親密なものだった。
ロランに連れられてきたマドカの隣には、久しぶりに見るアサミの顔。リーダーのタツを支えるたくましい恋人――。そんなアサミを前にしたマドカの瞳が少しだけ曇る。タツやシンと楽しそうに談笑するアサミに、マドカはほんの少しだけ嫉妬する。マドカの知らないバンドの歳月を、アサミはいつも傍で見てきたのだから。
「こら、何ぼーっとしてるん?」
ロランがマドカの頭をこつんと叩く。ステージの上で歌っていたさっきまでのロランとは、その瞳の色がどこかしら違って見える。今ここにいるのは、マドカが大好きないつものロランだ。
ロランはシャンパンを飲み干し、マドカのグラスをテーブルの上に乗せるとそっと手を引いた。
「ここまで連れてきて悪いんやけど、もう帰らへん?」
ロランは子供のような表情で首を傾げ、マドカの瞳を見つめた。
「早くマドカと二人きりになりたいねん」
恥ずかし気もなくそう言うと、ロランはマドカのおでこに軽くキスをして再びメンバーのもとへ戻って行った。淡い照明と、部屋の隅に飾られたクリスマスツリーの赤や黄色の電球、そこにいる人々の温かな声。マドカが今までに味わったことのない、クリスマスイブの一場面。ロランの優しい笑顔は、マドカの胸の一番深いところに、ずっと貼りついていた。
*
「やっぱりステージの上にいる時のロランって、人を引き付ける不思議なオーラがあるよね」
「そうなん?俺にはわからへんなぁ」
都会のイブを見下ろす夜空に見える冬の星座。ロランのアパートに向かう二人の距離が、冷たい空気の中でどんどん縮まっていく。繋いだ手が離れないように、マドカはロランの手に華奢な指を絡めた。
通りに面した建物の窓から漏れる灯りは、それぞれのクリスマスをそっと闇に浮かび上がらせている。歩道に落ちる柔らかな影は優しく、今にも凛と透き通る鈴の音が聞こえてきそうだった。
ロランはいつものように空を眺めて歩き、時折、隣にいるマドカの顔を見つめた。吹き付ける風の冷たさに、マドカの頬は紅潮している。規則正しく吐き出される二人の白い息が宙を舞い、闇に消えていく。
「ねぇロラン、私、最後の曲が好きだったな。瞬きもするのも惜しいくらい、手のひらの君が愛しいっていう歌詞の曲」
マドカはロランの歌声を思い出していた。ラクテの音楽は、まるでどこかの風景を描写するように、リアルにその音と歌詞が頭の中に残るのだ。
「あれって新曲?冬っぽくて、素敵な曲だった」
マドカはほんの少し目線の上にあるロランの青白い横顔を見上げた。暗闇の中にいるロランはその白い肌が闇に映え、いっそう美しく見える。空に浮かぶ幻想的な蒼白い月よりも、ロランの美しさは見る者の心を引き寄せ、魅了した。
「あぁ、あの曲か。まぁ、一応新曲やったけど」
「新曲やったけど?」
「新曲やったけど、途中で歌詞わからんようになったから、勝手に作り替えて歌ったの」
ロランは笑いながらマドカの肩を抱いた。
「マドカが今言ったとこの歌詞なんて俺、覚えてないもん。即興でつけた歌詞だったからもう忘れた」
「えーっ、それじゃあプロとしての自覚が足りませ…」
ロランの唇が一瞬だけ重なり、マドカの言葉を遮った。唇が触れるか触れないくらいの優しくて軽いキスだった。
二人の足が止まる。
「手のひらの君ってのは、マドカのことやで。昼間、雪の中で抱きしめたマドカのこと思い出したら、その言葉が出てきたん」
路地に並んだ外灯を背に受け、微かに聞える大通りのノイズ。二人を取り囲む藍色の世界に、懐かしいクリスマスソングがどこからともなく流れてきた。
「ねぇ、この曲…ワムのラストクリスマス?」
「んー、そうみたいやなぁ」
顔を上げたマドカに、ロランはそっけない態度で答える。
「ねぇロラン…そっちのポッケ、なぁに?」
右手を突っ込んだロランのジャケットのポケットから、甘い音色が聞こえる。マドカは腕を伸ばし、ロランの手を引っ張った。
「見つかったか…」
ロランはポケットから飾り気のないネジだけがついた小さなオルゴールを出すと、それをマドカの手に乗せた。ラストクリスマスは徐々にそのテンポを落としながら星屑のように甘い音を響かせ、ゆっくりと聞き慣れたメロディーを歌っていた。
「ワムと言ったらラストクリスマス。クリスマスと言ったらラストクリスマス。この曲、昔から大好きやった。マドカは?」
「私も好きだけど…なんでロランのポケットにオルゴールが入ってるの?」
マドカは不思議そうに首を傾げる。北風がマドカの長い髪をさらう。
今にも消えてしまいそうな音を響かせていたオルゴールを、ロランがそっと手に取った。
「俺なりの演出やったのに、もしかして雰囲気出てなかったかな?」
ロランは子供みたいに可愛らしく首を傾ける。今にも途切れそうなほど、ラストクリスマスはひとつひとつの音色を凛とした空気をふるわせ、最後の一音がゆらゆらと揺れてすっと消えると辺りは急に静まり返った。
ロランの手のひらの中で動きを止めたオルゴールは、古いブリキの玩具みたいだ。マドカはそこに手を重ね、唯一の装飾ともいえる銀色のネジを再び回そうと手をかけた。
「なあ、マドカ…」
ロランがその手をぎゅっと握り締めると、オルゴールが微かな音を立てた。それは一瞬のきらめきを閉じ込めた、ガラス玉が触れ合うような脆い音。二人の体温が呼吸に合わせて静かに上昇していく。重なり合った手を、ロランが冷えた頬にぴたりとつけた。
「抱きたい。今すぐ抱きたい。抱いてええ?」
「こっ、ここで!?」
思わずマドカの声がうわずった。
「いや、ここやなくて。ここじゃ寒くて凍えてまうわ」
ロランはそう言って歯を見せて笑い、再びマドカの手を取って歩き出した。
「帰ったらさっそくエッチしような、マドカ」
「なっ、なんでぇ?まずはチキン食べて、ケーキ食べて、ゆっくり…しようよ」
「だーめ、あと20分でイブ終わるで?クリスマスイブは恋人たちが楽しくエッチする日なんやから」
真面目な顔でそう言うロランに、マドカがくすくすと笑う。
「ロランのエッチ。イブじゃなくても抱きたいって言うのにね」