第7章 運命の恋人(4)
目の前に広がる寒々とした冬の湖は、雪に覆われた山並みを水面に映すことなく、無言のままマドカを迎えた。12月の午前9時の湖畔は人影もなく、深い雪が穏やかな波を取り囲んでいた。
マドカは首にぐるぐるとマフラーを巻きつけ、白いコートのポケットに両手を突っ込んでブーツを履いた足で雪の中を進みながら、湖が一望できる野原にたどりついた。幼い頃によく遊んだ場所だった。朝の光が汚れない純白の雪を照らし、きらきらと氷の粒を輝かせている。
歩くたびに白い息が舞い、冷たくなったマドカの頬がしだいに紅潮していく。平野を取り囲むようにして植えられた裸のナナカマドの群れが、雪の上に灰色の影を落としている。
マドカは野原の真ん中でその足を休め、頭上にある太陽を見上げた。冬の太陽は淡い光を惜しげもなく雪原に向けて放っていた。
手袋をはめた手でポケットから母親の手紙を出すと、マドカはそこにある「隆二さんへ」という文字を見つめた。インクの滲んだ封筒は、懐かしい母の匂いが染み付いているような気がした。
マドカは手袋を脱いでそっと封筒を開けると、絵葉書を取り出した。母の記憶にいつまでも消えることのない胸の痛みと、儚い日々――。
マドカの瞳に涙が溢れる。母の幸せと悲しみの入り混じった歳月、それを包み込んだ父の想い。その想いを胸の中で反芻する度に、自然と溢れる涙をマドカは拭い去ることができなかった。朝の日差しだけが、マドカの周りを静かに照らしていた。
「みーつけた」
後ろのほうに声を聞き、マドカはふと振り返る。照りつける太陽の光が白い雪に反射し、眩しさを感じたマドカは目を細めた。
閉じたまぶたをそっと開くと、そこにはロランが立っていた。
「ロラン!…どうして?」
ロランのワークブーツが深い雪を踏みしめる鈍い音が近づく。マドカはその場に立ち尽くしたまま、次第に大きくなるロランの姿に焦点を合わせた。広々とした雪原の大地には、マドカの足跡に隣合わせて、ロランのワークブーツの跡が何かの記号のように並んでいる。
白い風景に溶け込んだロランの肌とブラウンの髪のコントラストを、太陽がさらに美しいものに変えていた。ロランはマドカの前に立つと、穏やかな微笑を向けた。
「迎えにきた」
ロランはそう言って、マドカの隣に並んだ。
「綺麗なとこやね、ホンマに。まるでマドカの心をそのまま描いたような風景やな。汚れない心と無邪気な美しさ」
「ロラン…どうして?どうして…ここに?」
「マドカの行くところならどこでも分かる。なーんて、智樹くんに教えてもらった。マドカの家に行ったら、お母さんがきっとここだろうって教えてくれた」
肩を並べた等身大の二人の影が、雪の上にくっきりと浮かび上がる。ロランは高い冬の空見上げると、眩しそうに目を細めた。
「マドカに見せたいものがあるん」
「見せたいもの?」
首を傾げるマドカに、ロランは脇に抱えていた古いスケッチブックを差し出した。マドカが不思議そうにそれを眺めると、彼はにっこりと微笑んだ。
「マドカと、俺の記憶――」
マドカは言われるままスケッチブックを開いた。古びた表紙を捲ると、柔らかな線で細密に描かれた何枚ものデッサンが閉じられていた。
「これ…私…?」
幾ページにもわたり、そこには自分とそっくりの女性の絵が何枚も描かれている。鉛筆一本で濃淡をつけられた女性は、スケッチブックの中で密やかに呼吸していた。
「たぶん、マドカを生んだお母さんやな…死んだ親父が残したスケッチブック。親父はいつも、この女性の絵を描いとった」
「どういうこと?…ロラン、お母さんとロランのお父さんのこと…知ってたの?」
ロランは目を伏せて首を振る。
「俺が覚えてるのは、ただ親父がよくこの女性の絵を描いてたことだけ。毎日、記憶をたどるようにして描いとった。だから、部屋にはこの女性の絵があふれてた。親父は何枚も、この人の絵を描いとったんや。小さい頃な、親父の絵見ながら、もしかしたらこの人が俺の母親かもしれないって思ったことがあった。でも違った。俺の母親は日本人やないって分かってたから」
「じゃあ…、留学中にフランス人の恋人とのあいだにできた子供って…」
マドカは握り締めていた母の手紙を、ロランに差し出した。
「俺のことやろな…きっと。俺に記憶なんて全くないけど、たぶんその人が俺の母親なんやろな。親父がフランスにいた時の恋人」
ロランはスケッチブックを閉じた。どこからともなくやってきた鳶が、二人の頭上を円を描くようにして飛んでいった。肌を刺す風に、マドカの頬はひりひりと痛んだ。
「マドカ…、俺の親父が憎い?マドカの母さんを幸せにしてやれなかった親父が…憎い?」
マドカはじっと雪に埋もれた足元に視線を集中させていた。寒さの中であらゆるものの寂しさが鳴る。
「仕方ないよ…起きてしまったことは起きてしまったことなんだし。私たちが悔やんでも、仕方ない」
木々に積もった雪が音を立てて舞い落ちた。マドカが息を吸うとロランが白い息を吐き、二人の呼吸は張りつめた空気の中に丸い輪を浮かび上がらせていた。
「なぁマドカ、俺な、ずっとマドカに会いたかったんや…マドカにというより、親父の手によって描かれた女性に会いたかったといったほうが正しいかもしれんな。親父がその影をひきずる女性に、会えるもんなら会いたいって。でも、どんなに俺が願ったところで会えるわけないと思って諦めるしかなかった」
ロランは白い風の中で深く息を吸い込み、話を続けた。
「マドカ…、初めて交差点で出会った日のこと覚えてる?」
マドカは静かに頷いた。
「俺、あの時は本当に自分が夢の中にいるような、現実の世界とリンクしていないような、不思議な気持ちやった。なんやろ…、やっと出会えた…っていうその言葉しか浮かばなかった。嬉しいとか驚きとか、そういう感情よりもやっと出会えたっていう安堵感みたいなもんが大きかった。俺と親父をむすぶ記憶の中にいる絵の女性、それがマドカやった」
ロランはそう話すと、何かを懐かしむように目を伏せた。
「でも、マドカには誤解してもらいたくない。親父の絵に描かれた女性に似てるからっていうだけで、俺はマドカに惹かれたわけじゃない。確かに、初めて会った時はもう一度この子に会いたい、この子はどんな女の子なんだろうって思ったけど、俺は何も言えなかった。ただ礼を言って別れたマドカの笑顔だけが、ずっと残ってた。何日も頭から離れなかった。でも…、もう二度と会えないもんやと思ってた。だから、俺はきっとツイてただけなんだと思って…それはそれでよかったんやけどな。マドカに再会して、俺は興味本位とか好奇心とかじゃなくて…ただ、マドカに会いたかった。マドカに会えればそれだけでよかった」
ロランは白い風の中で深く息を吸い込み、長い睫毛を伏せた。
「だけど、俺の気持ちはそれだけじゃおさまらなくなった。素直で子供みたいに無邪気なマドカを見てたら、生まれて初めて誰かを愛しいって思う気持ちになった。俺はマドカに惹かれてたんやな。マドカが好きで好きでどうしようもなかった。今だってずーっとそうやで。俺はマドカを失いたくない。マドカを…失うのが怖い」
ロランはそう言って冷たくなった指先で、マドカの頬に触れた。ロランの深い藍色の瞳がマドカを包み込む。マドカが何度も瞼の裏に焼きつけた、美しいロランの瞳。
その瞳に映るもの――。そこにあるのはどんな風景でもなく、寂しさの影でもない。そこに映るのは、マドカだった。ロランの瞳には今、マドカの姿が鮮明に映し出されている。
マドカはロランの手をぎゅっと握り締めた。
「ロラン…手、冷たい。しもやけになっちゃうよ」
そう言ってロランの両手を包み込むと、マドカはそこに温かな息を吹きかけた。ロランの腕に抱えられていたスケッチブックが雪の上に落ちる。
「ロラン、帰ろう。東京に…帰ろう」
「…マドカ」
ロランはマドカの体を抱きしめた。温かな息がマドカの耳元にかかる。二人はそのまま雪のクッションの中にふわりと倒れこんだ。
瞳を開けると、どこまでも続く青い空がマドカの視界に広がった。
「もーっ、ロラン!雪…冷たい!」
仰向けのまま声を上げて笑い、マドカは口を尖らせた。
「さすがに、ここで抱いたら寒いわな」
いたずらっこみたいに顔を歪めて、ロランが唇を重ねた。
「ねぇ、ロラン…お母さんたちも、こんな甘いキスしたのかな」
「したんやろなぁ。でも、キスは親父より俺のほうが絶対上手いと思うんやけど」
「なんでぇ?」
マドカがくすくすと笑う。
「絵の才能は親父のほうが上だけど、キスは俺のが上手いの」
ロランはそう言って、マドカの頬に何度もキスを落とした。
ロランの肩越しに、冬の空が見える。ロランの唇から繰り出されるくすぐったいキスに、マドカの顔は照れ臭い嬉しさでほころんでしまう。
白い肌に揺れるロランの長い髪を、マドカは細い指で包み込むように優しく撫でた。
微かに香る煙草の匂い――。
「あれ…ねぇ!ロラン、ライブは!?」
ふと思い出した大切なイベントに、マドカはその場に跳ね起きる。
「ロラン!今日クリスマスライブじゃないの!?」
「あぁ…、そうやけど」
「そうやけど…ってこんなとこにいて大丈夫?リハーサルとか…平気なの?東京まで3時間だよ?」
ロランはコートについた雪をぱたぱたと払って立ち上がると、雪の上に座り込んだままのマドカに手を差し伸べた。
「ライブ、間に合わなかったらマドカの責任やで。こんなに俺を好きにさせるマドカが悪い。こんな気持ちにさせるマドカが悪いんやから。責任とってもらうで?」
マドカは目を細めて笑うロランの手を取り、雪原の中を走り出した。雪に足を取られて転びそうになるロランを笑い、雪玉を投げる。
はらはらと舞う粉雪。柔らかな太陽の光が、冷たい銀世界を静かに溶かし始めていた。
今日はクリスマスイブだ――。