第1章 雨の交差点(2)
オフィスの窓から見る夕日は、なんだかとても切ない。それはきっと、都会で見る夕日だからだろう。東京は太陽も月も星さえも、すべてが虚像のように見える。
マドカは都内にオフィスを構える小さな出版社で働いている。大手の出版社に比べたら月給なんて雀の涙みたいなものだけど、マドカはこの会社が好きだった。 設立二年、社員数四名というまだまだ未熟な会社だけれど、年齢や経験に関係なく大きな仕事を任されることもある。ほとんどが大手出版社の下請けだが、打ち合わせから取材、記事を書くまで一連の工程を一人で担当することもあった。
会社は主に音楽雑誌の小さな枠を扱っている。入社して一年を迎え、まだまだひよっこだけれど、マドカは編集者として夢の第一歩を踏み出したところなのだ。
マドカはこの仕事が好きだった。何よりもこの仕事に打ち込めたのは、その仕事のほとんどがインディーズで頑張っているアーティストの取材だったからだろう。メジャーデビューを目指して一生懸命な彼らのキラキラとした瞳を見るとマドカも幸せな気持ちになれたし、巻頭ページを飾るような大物アーティストと仕事をするよりも、特別なやりがいのある仕事だとマドカは思っていた。
九段下にある雑居ビルの五階、そこがマドカのオフィスだった。
「マドカちゃん」
名前を呼ばれて顔を上げると、上司兼社長である松田が缶コーヒーを片手に一服していた。
「松田さん、そのマドカちゃんって呼び方やめてくださいっていつも言ってるじゃないですか」
「マドカちゃんはマドカちゃんなんだよなぁ。吉井って呼ぶと、なんだか調子狂うんだもん、俺」
松田はそう言って優しい笑みを向けた。
「マドカちゃんって呼ばれてるうちは、編集者として全く認められてないって感じがするんですよね。学生時代の延長みたいだし」
「言われてみればそうだな。だいたいこの会社自体、俺が学生時代の延長で作ったようなもんだから、文句言われても仕方ないっか」
大手出版社のアルバイトで学んだノウハウを活かして、大学を出てすぐにこの仕事を始めた松田は、社長といってもまだ26歳。若くて考えに柔軟性があって、たまに突飛押しもない行動を起こすユーモアのある男だった。
マドカは一年以上この会社にいるが、彼がどういう経営方針を掲げているのか未だに謎で、とにかく音楽、特に松田がバカみたいにロック好きだからという理由で音楽雑誌を中心に扱うようになったらしい。
松田はコーヒーを飲み終えると煙草の火を消し、マドカの座る長椅子に並んだ。
「マドカちゃん、そろそろ一人前の仕事してみる気、ない?」
「一人前の仕事…ですか?」
笑顔を見せながらもいつになく真剣な眼差しの松田に、思わずその言葉を聞き返してしまう。
「実はね、今度、マドカちゃんに任せてみたい仕事があるんだ」
「それって…」
「メジャーデビューの決まったロックバンドの取材。ほら、今まではインディーズで活動するアーティストを紹介する感じの仕事が多かったじゃない?だから、メジャーに漕ぎつけたアーティストっていうのがどんな素質を持っていて、どういう点でメジャーという器に認められたのか…その理由をマドカちゃんなりに考えてもらいたいんだよ。アーティストを見る目を養うのも音楽雑誌の編集者には必要だしね」
松田はそう言うと、窓の外を眺めてはにかんだ表情を浮かべた。
「あの、松田さん、私…」
「もちろん、俺もバックアップするけど?」
編集者としてのステップを踏むために与えられたチャンスに、喜びと不安の混じった表情のマドカを見て松田は穏やかに笑い、二枚のチケットを差し出した。
「今夜、そのバンドが渋谷でインディーズ最後のライブをすることになってる。ライブハウスで売られていたチケットは即日完売。 インディーズでは何もかもが異例だったと言われてるバンドだけに、行ってみる価値は充分だよ」
松田はチケットをマドカの手に握らせ、にっこりと歯を見せて笑った。
「ライブが終わったら楽屋に行ってみるといい。先方に話はつけてあるから、挨拶程度に覗いてみてよ」
*
智樹は約束の時間より少し遅れて現れた。夕暮れの渋谷は仕事を終えて自宅へ向かうサラリーマンと、夜の街に繰り出す若者たちが活発に出入りしている。
マドカはキョロキョロと辺りを見渡すと、雑踏の波を押しわけてやってくる智樹の姿を見つけた。
「智樹、もう遅いってば」
「てゆーかお前もいきなりなんだよ。何のライブか知らないけど、俺がついて行っていいのかよ?」
「だってチケット二枚あるし、松田さんが行ってみる価値は充分って言ってたし」
スクランブル交差点を渡り、坂道を進んで行く。むせかえりそうな排気ガスの匂いと、湿気を含んだ生温い風が肌を撫でた。
「で、どんなバンド?」
「まあ、私もこのバンドに関しては詳しいことは知らないんだよね。ついさっき知ったばかりだし、バンドのメンバーのことも略歴も何もわからない」
マドカは右肩にかけた鞄の中から、もぞもぞとチケットを取り出した。
「なんか覚えにくい名前だったよ。ラ・ヴォワ・ラクテ?」
「あ?なんだよそれ、フランス語かよ?こいつら人気あんの?」
「少なくともそれなりにファン獲得してるでしょ。メジャーデビュー決まってるんだし」
眉をひそめる智樹の横を黒いジープが通り過ぎて行った。二人は大通りを左折して、裏通りに抜けていく。
路地裏にあるライブハウスに着くと、奇抜なメイクとファッションに身を包んだ女の子たちの姿が遠くから見えた。
「おい、これビジュアル系じゃねぇの?俺、やっぱパス!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
顔をしかめて立ち止まる智樹の腕をマドカは強く引っ張った。
「とにかくさ、中に入ってみようよ。私、取材がてら女の子たちに話聞いてみるからさ」
智樹を無理やり地下に連れ込み、マドカは近くにいる女の子たちに話しかけていく。
「こんばんは。ちょっとお話し聞かせてもらってもいい?」
会場に集まった女の子たちの話によると、ラ・ヴォワ・ラクテというバンドは男四人のロックバンドで、ファンのあいだでは「ラクテ」と呼ばれているらしい。メンバーの年齢は公表されておらず、中でもボーカルの「ロラン」の人気は凄まじく、彼女たちの言葉を借りれば超カッコイイ!超キレイ!女の人よりもめちゃくちゃ綺麗な顔立ちをしているそうだ。
「どうしてそんなに派手なメイクをしているの?」という質問には、「ロランがあまりにも綺麗だから、それに負けないように」という答えが返ってきた。
「このバンドの人気は、ボーカルのロランのルックスにあるみたい。女の人より綺麗なんだって」
「はぁ?肝心な音はどうなんだよ?ビジュアルで人気のあるバンドにろくなもんいねえじゃん。まぁ…でも、そんなに美人な男なら一度は見てみたい気もするけどさ」
智樹は相変わらず眉間に皺を寄せたまま、退屈そうに闇に包まれたステージを直視していた。フロアではぎゅうぎゅうに詰め込まれた女の子たちが騒がしく雑談している。
マドカはぐるりと辺りを見渡した。ぱっと見たところ、観客に男性の姿は見当たらない。智樹の言うとおり、男ウケの悪いビジュアルだけのバンドなのかもしれない。一見の価値はあると言った松田の言葉が説得力を失っていく。
浮かない顔をした智樹の隣で、マドカは肩を落とした。
突然、ギターが大音量で鳴り響いたと思うと、大きな拍手と歓声が捲き起こった。女の子たちの悲鳴にも似た黄色い声でフロアが埋め尽くされていく。
照明が落とされ、ステージは薄暗いオレンジ色の光にぼんやりと包まれた。
「キャーーーーーーー!!!」
歓声の湧き上がるステージに、メンバーが順に登場する。ベース、ギター、ドラムス。それぞれが持ち場につく。
ステージに向けて絶え間なく注がれる女の子たちの声。おそらくメンバーの名前を叫んでいるのだろう。けれど、あまりの騒々しさに何を叫んでいるのか分からない。隣にいる智樹の声も聞こえないくらいだ。
そして最後のメンバーがステージに現れたとき、その歓声はさらに高揚を増した。女の子たちの熱狂と叫び声は、ライブハウスの屋根を吹き飛ばして地球の裏側にまで届きそうなくらいのものだった。
ロランがステージに立ったのだ――。
開いた口が塞がらないとはこのことだ。マドカはまるで時の淀みの中をぐるぐるとさまよっているような気がしていた。
ステージでは演奏が始まっている。ギターの音が鳴り響き、ベースが正確にリズムを刻む。ドラムが曲に装飾をつける。
ステージの中央でマイクスタンドを優雅に操るボーカル。照明が彼の肉体を鮮やかに照らした。
不規則に揺れる肩にかかった長めの髪。曲調に合わせて様々な表情をみせる瞳。透き通るように柔らかな、けれど力強い歌声。
あの雨の日に出会った、完璧な美しさ――。
「智樹!ねぇ智樹!」
ステージの上に現れたボーカリストの姿に、茫然としたマドカを次に襲ったのは果てしない興奮だった。
「智樹!あの人だよ!交差点で会った、あの人だよ!」
一週間前、九段下の交差点で原稿を拾ってもらった美しい男性は、ロックバンドのボーカリストだったのだ。
ライブが終わり、熱気の冷めない女の子たちがぞろぞろとライブハウスを後にする。
楽屋口の通路に向かうと、そこには出待ちのファンが群がっていた。
正直に言って、マドカはライブの最中、曲もMCもまともに聴けたものじゃなかった。ただ、瞳はステージの上に立つロランの姿を追っていた。
曲調に合わせて次から次へと様々な表情をみせる彼の、透き通るように柔らかな、だけど力強い歌声。
ステージの上で黄色いライトを浴びるその整った顔立ちは、確かに美しいという形容しか浮かばない。美しい彼の大きな瞳は、まるでフロアにいる女の子たちの何もかもを吸い込んでしまいそうだった。
群がる女の子たちのあいだをすり抜け、マドカは古びた楽屋のドアの前に立っていた。乱雑な文字で「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた紙切れが貼られた、コンクリートが剥き出しになった壁は冷たくて、さっきのフロアとは対照的だ。
深呼吸をして息を整える。アーティストの楽屋を訪ねるのはこれが初めてではない。これまで何度も経験してきたことだ。けれど、マドカは今までにない緊張感に襲われた。このドアの向こうにロランが、交差点で出会ったあの男性がいるのだと思うと、それだけで松田が一人前の仕事だと言って渡したチケットが、とても愛しいもののように感じられたのだ。
マドカは意を決して、錆び付いた厚いドアを叩いた。
中から現れたマネージャーらしき男性は、マドカの姿を見ると怪訝そうに眉をひそめた。
「何か御用ですか?関係者以外立ち入り禁止ですが」
「あ、あの…」
手帳の中から名刺を取り出して渡す。
「私、kk出版編集部の、吉井マドカと申します」
マドカは深々と一礼した。
「なんだよー、誰?入ってもらえばいいじゃん?」
部屋の中からラクテのメンバーと思われる明るい声が聞こえている。
「では、どうぞ」
男性がゆっくりとドアを開ける。
マドカは恐る恐る中を覗き込んだ。十畳ほどの広さの部屋で、ライブを終えたばかりのメンバーがビールを片手に思い思いの会話をしていた。
古びた壁には何本もギターが立てかけられ、アンプがあり、いくつものコードが殴り書きされた六線譜がテーブルの上に散らばっている。
「お、お疲れさまです!」
マドカは精一杯の笑顔でメンバーに声をかける。
「おつかれー」
そう言って近づいてきたのは、ギターを弾いていた背の高い男性だった。口に咥えた煙草の煙が、ゆるやかに円を描いて天井に昇っていく。
彼はマドカの顔をまじまじと見つめると、首をかしげて紫煙をくゆらせた。
「この子は?」
「あ、あの…kk出版編集部の…吉井マドカと言います」
マドカが再び頭を下げると、ベースを弾いていた男性がやって来た。
「ねえ、今日のライブ、どうだった?」
「え、あの…とっ、とっても素敵でした」
本当はライブのあいだじゅう、ずっと上の空だったけれど、マドカはにっこりと愛嬌のある笑顔で答える。
「俺、リーダーのタツ。で、その背の高いのがギターのシンちゃんで、あっちの無愛想な黒い服の男がドラムのカオル。そして、そこの小さいのがボーカルのロラン」
タツはメンバーを指差して紹介し、マドカは順番に小さく会釈をした。
「あ、そうだ!お姉ちゃんも飲めば?」
シンに缶ビールを差し出され、緊張でこわばった笑顔のマドカは後ずさりしてしまう。
「えっ!?あの…」
「デビュー祝いってことで、どうぞ」
シンは屈託のない笑みでマドカに歩み寄ると、冷えた缶を鼻先に近づけた。
「あのっ…、今日はもう、これで」
「もう帰っちゃうん?」
「は、はい…ご挨拶に伺っただけですから」
マドカは小さく頭を下げ、来たばかりのドアへと向かった。そして気づかれぬよう、そっと彼の姿に目をやった。
ロランは窓際の壁にもたれ、ぼんやりと缶ビールに口をつけている。
「マドカちゃん、またねー」
「また、よろしくね」
シンが大きく手を振り、リーダーのタツが優しく見送っている。
「今日はお疲れさまでした。また後日、ゆっくり伺います」
マドカはドアノブを捻り、通路に出た。
扉を閉める瞬間、マドカはドアの向こうでふてくされた表情をして佇むロランに視線を向けた。
マドカの存在に気づいている様子すら伺えない彼は、テーブルの上に置かれたセブンスターに手を伸ばし、煙草に火を点けるところだった。
「結構いいバンドだったな」
帰り道、濁った夜空を見上げた智樹がぽつりと言う。
「けど、女のファンばっかりってのはもったいない気もするな。なぁ、マドカ」
「…あ、うん、そうだね」
「お前、どうかした?我が意識、ここにあらずって顔してんだけど」
「そっ、そんなことないって!ほら、普通だよ」
智樹にぼんやりしていたことを指摘され、マドカは意味もなく両手でガッツポーズを作ってみせる。
「もしかして、お前、あのボーカルに惚れた?お前の言う、運命ってやつか」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよ!これは、仕事だよ?でも、あんな綺麗な人と仕事ができてラッキーみたいな…」
智樹に胸の奥を見透かされた気がして、マドカは無理にはしゃいだふりをしてしまう。
「まあな。でも、あのボーカル、下手すりゃそのへんの女より綺麗だよな」
「う、うん…」
「お前より、断然キレイなんじゃねぇか?」
「しっ…失礼ねっ!」
茶化してばかりの智樹に文句を言いながらも、マドカはこの胸の高鳴りが永遠のドラマの始まりであるような気がしていた。
できることなら、今すぐにでも確かめたい。
交差点で出会ったあの雨の日を、あなたは覚えていますか――?