第7章 運命の恋人(3)
隆二さんへ
こうした形で本当の気持ちをあなたに伝えなくてはならないことを、私は心の底から恥ずかしく思います。私は薄情な女でした。そして、あなたにとっても良い妻ではありませんでした。まず、私はそのことをあなたに謝らなくてはなりません。すべてが終わってしまったあとで、このようなことを言うのも随分勝手だと分かっています。でも、それも仕方のないことだとあなたは分かってくれるでしょう。きっとあなたは私のすべてを見透かしていたのだと思います。こうなってしまったことを許して欲しいとは思いません。けれど、私の気持ちはあなたのその広い心に届くだろうと信じています。
あなたは私を心から愛してくれた、たった一人の男性でした。あなたに愛されたこの五年間、私はこれ以上にないくらいの幸せを感じました。それはあなたの想いが私の心を揺さぶり、凍りついたその荒んだ過去をゆっくりと溶かしてくれたからです。
私はあなたを愛していました。二人のあいだにマドカが産まれた時、私は本当に嬉しかった。愛するあなたの子を日々育てていく喜びは私にとってかけがえのない一筋の光であり、人生の支えでした。 これだけは言わせてください。マドカは望まれて産まれてきた子供です。たとえこの先、私がマドカの成長を彼女の傍で追い続けることができなくても、私はいつでもマドカのことを想っています。あなたを愛し、マドカを愛し、そしてあなたは私を愛してくれた。私にはこの生活が何よりも大切でした。そう、他の何よりも大切だったのです。 それでも死を選択する私を、あなたは憎みますか?
今からここに書き留めるのはあなたに出会う前の私が通り過ぎた風景の一部にすぎません。しかし、私は自分の持つすべての言葉を投げ打ってでも、あなたに伝えなくてはならないことがあるのです。あるいは自分の過去を文字にしてしまうことで、それらを清算してしまいたいという思いからあなたに向けてこのような手紙を書いているのかもしれません。どちらにしろ、あなたに向けて放たれる私の言葉はこれが最後になるでしょう。 きっと、私は誰も愛すべきではなかったのです。
私は愛媛県の松山に生まれ育ち、25歳でこの町にやってきました。この町に来てあなたに出会うまで、私はずっと松山の外れにある小さな幼稚園で保母のような仕事をしていました。私は保母の資格を持っていないので、人手の足りない幼稚園で子供たちと遊んだり、ピアノを弾いてあげたり、歌を歌ったり、本を読んであげたり、時には自分で書いた物語を子供たちに聞かせたりしてごくわずかな手当をもらって暮らしていました。生活は苦しく、夜の仕事も経験したことがありました。けれど、私は幸せでした。
私は比較的裕福な家庭に生まれましたが、恋人との関係を否定され、18歳の時に家を出ました。それ以来、私は恋人と二人で今にも傾きそうな古びたアパートに住み、画家を志す彼の支えになることを決心したのです。当時、彼は私より四歳年上の美術大学に通う学生でした。風景画を得意とする彼は、朝から晩まで狭い6畳の部屋でキャンバスに向かい、絵筆を握り締めていました。時々、河原や公園に行って大きなスケッチブックを広げる彼の隣で、私は読書をしたり、日光浴をしたり、ぼんやりと空を眺めたりして二人の時間を深め合いました。生活は苦しかったけれど、彼の傍にいるだけで将来への不安や恐怖などは私の心から自然と取り除かれていました。彼は私が生まれて初めて愛した男性でした。私は彼を心の底から愛していました。とても深く、愛していたのです。
彼に初めて出会ったのは私がまだ14歳の時でした。出会いはこれといって特別なものではなく、私が落とした定期券を彼が家まで届けてくれたのがはじまりでした。彼は私と同じ電車を通学に利用する近隣の高校生で、それ以来、駅のホームで見かけるたびにどちらからともなく挨拶を交わすようになりました。
ある日、いつものように私がホームで電車を待っていると、彼は私に絵のモデルになってくれないかと言いました。もちろん私は突然のことに驚き、不信感から彼の依頼を断りました。しかし、ただ自然な表情を描きたいだけだと言って、一度でいいから受けてもらえないかとそれから何度も彼は私に頭を下げました。そんな熱心な彼の想いに、定期券のお礼も兼ねてついに私は絵のモデルを引き受けました。
彼のどこに惹かれたのかそれは自分でも分かりません。私は同じクラスに好きな男の子がいたので、彼のことも絵を描く年上のお兄さん程度にしか思っていませんでした。それでも私が彼に惹かれてしまったのは、鉛筆を握り締めてスケッチブックの上に描かれた私と、モデルとして彼の前にいる私を、何度も見つめかえす情熱的な眼差しに心を奪われてしまったからでしょう。彼の瞳は、自らの強い意志でその動きを決定づけられているような感じのする特別な瞳でした。彼と私が恋に落ちるまで、そう長い時間はかかりませんでした。
彼は大学を卒業し、教師となって松山市の高校で美術を教えていましたが、教員生活を一年で辞め、純粋に絵を描く道を選びました。絵を描いて食べていくのは容易なことではありません。まして自分の描きたい絵だけを描く画家になれる人なんてほんの一握りです。絵だけを売って生活することは不可能に近いのですから。
私は彼の傍でその不可能に近い生活を支えてきました。彼が27歳でフランスに留学するまで、そんな生活が五年間続きました。私は18から23歳になり、彼との生活のために必死で働きました。彼はレストランや喫茶店に飾るためのちょっとした絵を描いて収入を得ていましたが、二人で暮らしていくには厳しいのが現実でした。
それでも私たちは愛し合っていました。少なくともあの頃の私は、彼も私を同じように愛してくれているものだと思っていました。彼に出会ってから9年間の歳月は、私にとって彼を愛し、彼に愛される時間の凝縮だったのです。その凝縮された時を、私はこうしてひとつひとつ手に取りながら、最後の言葉としてここに書き留めているのです。
彼がフランスに留学してしまうと、私はそれまでの二人の生活が泡のように儚いものであったことを実感しました。彼の帰国を古びたアパートの畳の上で、私は一人で待ち続けました。生活の資金を切り崩して貯めた彼の財産は彼の渡欧費用に消え、わずかに残った私の貯金も今後の二人の生活を保障してくれるようなものではありませんでした。
クリスマスと誕生日にはいくつかの作品が私の元に届きました。きっと作品を制作する合間に、彼が私のために描いてくれた精一杯のプレゼントだったのでしょう。当時、彼の作品にはすべて名前の頭文字を取った「N」というサインが走り書きされていました。受け取ったそれらの絵に、彼がつけた「N」というサインを見て私は何度も涙を流しました。彼の記憶と彼への想いが胸のずっとずっと奥のほうからこみ上げてくるのが分かりました。 私には彼がすべてでした。この世界から彼が消えてしまった時、私もこの姿を持って彼のたどりつく場所へ行こうとさえ思うくらいでした。
留学中の28歳の時、彼に転機が訪れました。フランスのル・サロンという有名な展覧会に出展した作品が認められたのです。それは、彼がプロの画家として新たな人生を踏み出した素晴らしい出来事でした。出展されたのは、彼が日本でスケッチした絵をもとに描かれた『湖水』という作品で、元になるスケッチはここ秋田県にある湖を描いたものでした。初めて売れた絵から得た収入で、彼と私はここ秋田県に旅行したことがありました。その旅行で彼がスケッチブックに描きとめた湖が「湖水」という作品になり、完成されたのです。
入選を果たした彼から『帰国したら結婚しよう』という手紙を貰ったとき、それが私の人生で一番幸せな瞬間でした。 今でも私には、彼と過ごした日々がオペラグラスで覗いた世界のように瞼の裏にはっきりと焼きついています。あの時、彼はひとりの才能ある日本人画家として世界に名を連ねる手前を歩いていたのです。 そして私は誰よりも幸せを近くに感じていました。 しかし不運にも、その幸せが長くは続かないことに私は全く気づいていませんでした。
彼が帰国してから半年たったある日、入籍間近の私たちの新居をある女性が訪ねてきました。あいにく彼は外出中で、自宅にいたのは私一人でした。その人はとても美しい女性でした。透き通るような色白の肌に大きな瞳を持ち、整った目鼻立ちに華奢で長い手足と、毛先がカールした柔らかそうなブルネットが印象的でした。彼女は若いフランス人女性でした。若いといっても当時の私が25歳でしたから、私より2、3歳年下だろうという憶測でしかありません。 彼女は彼がパリにいた時の恋人でした。そして彼女には産まれたばかりの子供がいました。彼の子供でした。
彼と別れることを決意し、私は町を出ました。彼と過ごした11年間を自分の中でどのように受け止めればいいのか。私の前に提示された問題は、それだけのことでした。引き止めようとした彼の言葉は全く覚えていません。裏切られたという気持ちよりなにより、そこにあるはずの自分自身の姿が私には見えなくなってしまったのです。最後に抱かれた彼の腕の感触と、画材の匂いだけがいつまでも私の周りをつきまとい、離れませんでした。 そして時の流れがいつしか私の知らないところでその速度を速め、気がつくと私は彼との思い出を拭い去れないまま、秋田県のこの小さな町にたどりついていたのです。
隆二さんに出会い、私は自らの過去を他人事のように何気なくあなたに話せることができたなら、どんなに楽になるだろうと何度も自分に言い聞かせてきました。そして、私の寂しそうな瞳を気にかけながらも、あなたは私の過去について何も尋ねようとはしませんでした。 あなたはただ、私を愛してると言ってくれました。それでも私はあなたに話すことができませんでした。彼と過ごした11年という歳月を誰かに話してしまったら、彼の記憶が私の体から抜け落ち、私は抜け殻のようにして生きなくてはならないような気がしていたのです。
隆二さん、あなたは私を愛し、私もあなたを愛していました。でも、それは寂しさの影を背負った愛だった。あなたの愛に、私は正面から向き合って答えることができなかった。あなたの愛を、今日まで私は不安と恐怖と、哀愁を帯びた瞳で見つめてきました。私はあなたを愛しています。けれど、本当の私はあなたを愛してはいない。私は誰も愛せないのです。私は誰かを愛してはいけないのです。私は人を愛するという感情を、遠い過去に封印してしまった人間なのです。あなたも、マドカも、そんな私が作り上げたおとぎ話の中の登場人物でしかないのです。
画家としてその人生をまっとうした彼が、先月事故で亡くなりました。彼の死は、私に何の感情ももたらしませんでした。彼の死亡記事を雑誌の小さなスペースで見つけたとき、彼の死が私に与えたのはただひとつ、やっと自分の落ち着く場所が見つかったという安堵感です。記憶の隅にうずくまっていたものが、そっと払い取られたような感覚と、振り返ればそこには無数の希望が満ちているような懐かしい光を取り戻した気がしました。あなたに出会う前の、ただ純粋に彼を愛していた頃の私に戻ったような感じがしたのです。
皮肉にも、私は今でも彼のことを愛しています。あなたはきっと気づいていたのでしょうね。私が彼の手紙を大切に仕舞っていることや、美術雑誌を定期的に購入していることも。あなたはすべて気づいていたはずです。私の気持ちにも、あなたははっきりと気づいていたはずです。こんなことを言ってしまったら、私を救えなかったことであなたは自分自身を苦しめてしまうかもしれません。でも、それは間違っています。私を救えなかったのは私自身であり、自分を苦しめてしまったのも私そのものです。あなたにはどれだけ感謝してもいくつもの言葉を並べただけでは足りないような気がしています。だから、何も残せない私をあなたは何も言わずにただ見送るだけでいいのです。
あなたの愛は、私を越えていつの日かマドカに届くでしょう。私に降り注ぐあなたの愛が、マドカを永遠に包むことを祈って。
さようなら。ありがとう。
追伸
マドカに大きな転機が訪れたとき、私の存在を示すものはすべて消してください。ただ、ひとつだけお願いがあります。私の宝物である絵本の中から、『空に架かる橋』というタイトルのものを抜き取り、それをマドカの6歳の誕生日に渡してください。これが私の最後のお願いです。母親の記憶が失われてしまっても、彼女はあなたの愛を通じて私を感じることができるはずです。隆二さん、愛してくれてありがとう。
*
合計七枚の便箋に綴られた言葉は、マドカの記憶の断片をたどるようにその息を吹き返していた。封筒の中には、父に宛てた母の手紙と一緒に、一枚の絵葉書が入っていた。死んだ母の隣で幼いマドカの瞳に鮮明な色彩を残した、桜田直義の描いた絵だった。
「湖水」の裏には、当時母親の住んでいたアパートの住所と名前、その下にはAir Mailと殴り書きされた彼の字があった。
桜田直義が母に宛てた手紙。そこに記された言葉を、マドカは幾度となく読み返した。
ロランの父親は、確かに母のことを愛していたのだ――。
入選した僕の絵が絵葉書としてパリで売られている。この葉書がそうだ。
きっと、この湖を君も覚えているだろう。僕は三年前、この湖をスケッチしながら、隣であくびをして空を見上げる君と僕の未来を考えていた。君にかけた苦労を思うと、僕はなかなか中途半端な気持ちで「結婚」という二文字を言い出せずにいたんだ。
だけど、これで君を幸せにできる。子供は多いほうがいい。女の子が生まれたら、君に似てきっと美人になる。
今度は子供を連れて公園へ行こう。僕が絵を描く隣で、君は子供と遊べばいい。こんな話はまだまだ先かな。
君の笑顔が早く見たい。
帰国したら結婚しよう。
桜田直義