第7章 運命の恋人(1)
しばらく一人で考えたいことがあるので東京を離れます。
24日のクリスマスライブには必ず戻るね。
マドカ
クリスマスも近づいたある日、マドカは秋田県にある小さな町に向かった。そこはマドカの生まれ育った町であり、新しい母親がたった一人で住む町だった。
車窓から見る景色は真っ白だった。木々に積もった雪が風に吹かれ、辺りに光の粒をまき散らしている。寒々とした灰色の低い空がマドカを懐かしい場所へと移動させていた。
年末の忙しい時期に三日間の休みを貰えたのは奇跡的だったが、マドカにしてみれば気が重い。実家に戻るのは三年ぶりだった。父のいない家に一人取り残された母親とは、電話での会話もなかった。数年振りに帰った血の繋がらない娘を、母はどう思うだろう?何と言って迎えるだろう?事前に電話の一本でも入れておけばよかったと、マドカはひどく後悔した。
ロラン…、もしあなたが知っているのなら教えてほしい。あなたのお父さんが描いた一枚の絵が、これほど私の記憶を混乱させるのはなぜだろう?もし、母の死があの絵と結びつくものであったのなら、私は真実を知りたい。二人を繋ぐ過去の扉をそっと開けてみたい。
あなたの母親は誰――?
私は母親の顔を知らない。そう、あなたも母親の顔を知らないと言った。
私はとても大切なことに気づいたの。あなたのお父さんが事故で亡くなった年――。それは母が自殺した年だった。それも度重なる偶然にすぎないのかな。
これは私の仮定でしかないけれど、もし、あなたのお父さんがお母さんと恋に落ちていたら…二人が運命の糸に導かれてどこかで引き裂かれてしまったのなら、それはとても悲しいことでしょう?
ロラン…、私はあなたを受け入れたい。私たちがどこかでもつれた運命に導かれてしまったとしても。
あなたを愛し続けるために、あなたの父親と母が残した一枚の絵に隠された真実を紐解いてみたい。 深い湖の底に沈んだ心が枯れてしまわないように。私はその想いをそっと留めておきたいの――。
*
「いらっしゃいませ」
冷たい風とともに店内に入ってきたロランは丈の長いトレンチコートのポケットに両手を入れ、智樹の姿を見つけるとサングラスの奥にある瞳で挨拶をした。智樹はやりかけの仕事を丁寧に片付けると、エントランスに佇むロランの元へ駆け寄った。
「もうすぐ上がりなんで、時間があるならそれまで待ってもらえますか?」
「すぐそこの公園におるから」
ロランは智樹の顔を見上げ、親しみのある笑顔を向けた。
公園というよりそこは空き地に近い広場だった。智樹がその場所を訪れたとき、ロランは広場の隅にある寂れたベンチに座って煙草の煙を優雅に吐き出していた。見る者に繊細で幻惑的な美しさを与えるその姿に、智樹のやるせない気持ちと溜め息が重なり合う。
ぼんやりと空を見上げて物思いに耽るロランの前に、智樹は歩み寄った。
「話って何ですか?」
智樹が尋ねると、ロランは唇を噛み締めてポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出した。そして二本目の煙草に火をつけ、緊迫した雰気の中でゆっくりと白い煙を吐いた。ただ一種の自己表現のようなその動作を横目で眺めながら、智樹はベンチに腰を下ろす。
「マドカの生まれた町を教えて欲しい」
智樹はロランの横顔を見つめ、その言葉の真意を読み取ろうとした。けれど彼の美しさの中には何も掴めないもどかしさを感じるだけだった。
幼い子供のように無邪気なマドカの顔を智樹は思い出していた。智樹の瞳に映らないマドカを、ロランはとても親密に知っているのだ。そして、ロランの瞳に映らないマドカを智樹は知っている。マドカを軸にして二人はその想いをめぐらせる。これは駆け引きなのだ。
「俺、はじめてあなたのライブを見た時、ちょっと感動したんです。女の子たちがあなたに夢中になって騒いでいる気持ちがなんとなく分かるような気がした。単純にすげーなって思ったし、それから何日もあのステージのことが頭から離れなかったのを覚えてますよ」
智樹はそう言うと膝の上に乗せた拳を強く握り締めた。
「僕はあなたのことは嫌いじゃありません。むしろあなたのことは好きです。なんてゆうか、好きっていう表現の仕方は適切じゃないんですけどね。あなたの持つ才能だとかそういうのは俺にはないものだし、簡単に言ってしまえば尊敬してます」
智樹はそこまで言うと大きく息を吸い込んだ。ロランは相変わらず自己の世界を確立させたまま静かに煙草を吸っていた。 ペンキの剥げた公園の遊具たちはみな、ひややかな視線をこちらに向けているようだった。
ロランは煙草から立ち上る煙を見つめ、智樹の口から吐き出される次の言葉を待っていた。 智樹は再び深呼吸をすると、重い口をしぶしぶ開いた。
「あなたのことだからもう気づいていると思うんですけど…、僕はマドカのことが好きです。まぁ、なんつーか…、あなたとマドカのあいだに入ってどうしたいとか、そういう気持ちは始めからありません。マドカはあなたのことが好きだし、あなたもマドカのことを大切に想ってくれているみたいだから。そこに俺が入り込んだところで全く意味のないことです」
智樹はベンチに深く座り直し、長い足を放り出した。
「僕は…あなたとマドカがこれからもずっと良い関係でいられるのなら応援したいと思っています。別にこれはマドカのことが好きだからとか、深い意味はなくて、正直な気持ちですよ。前にも言った通り、僕はマドカの嬉しそうに笑う顔が見ていられるのならそれでいいと思っています。今までもこれからも、マドカにとって僕は友人の一人でしかないということは確信してますから」
自分の口から出た言葉があまりにも乱雑で無意味なものでしかないように思えてしまい、智樹強い後悔の念に駆られた。あとには行き場のないやるせない想いだけが残った。
ロランの煙草から、灰がぱらぱらとこぼれ落ちていった。
「それでいいん?」
ロランの指先の中で長くなる灰が、智樹の調子を狂わせる。深く吸い込んだ空気を肺に入れ、智樹は言葉の断片を探した。
「良いとか悪いとか、それは僕にも分かりません。けれど、僕はいつかこの気持ちをマドカにぶつけてしまうと思います。例えあなたがいたとしても、僕は好きだという気持ちをマドカにいずれ話してしまうと思います。でもマドカは僕のところには来ない。きっとあなたがいてもいなくても、マドカはそうすると思います。僕のところに彼女は来ません」
さっきよりも闇は深くなり、都会の真ん中に沈む夕日は曖昧な明るさを残していた。ロランが短くなった煙草を揉み消すと、二本の吸殻が足元に何かの象徴のようにこぢんまりと並んだ。
「僕とマドカは深い絆のような特別な関係で結ばれていると思います。僕には彼女が必要だし、彼女も僕のことを必要としてくれていると思っています。けれど、それはあなたとマドカが結ぶ関係とは全く別のものです。あなたとマドカのあいだにある信頼関係とは全く違う種類のものだと僕は思います。僕の言っていることは間違っているでしょうか?」
智樹の言葉に、ロランは首を振った。
「俺にも分からへん。俺にも、そういうことはわからへん。ただ、君とマドカの関係と僕とマドカの関係が大きく異なるんやったら、君がマドカに対して抱く気持ちと僕がマドカに対して抱く気持ちも全く別のものとして考えたほうがええんちゃう?」
智樹は黙っていた。どこからともなく聞こえるサイレンの音が通り過ぎると、辺りは必要以上にしんとした。
「智樹くん…、マドカにとって君はとても特別で大切な存在だってこと、俺にもよく分るねん。君とマドカの関係はとても素敵やと思うし、正直なところ俺は君に嫉妬してるんやで。俺は…マドカに出会わなかったら、どうしようもないただのマネキンみたいな人間になってたかもしれへん。うまく言うことができないけれど、好きという気持ちだけで俺はマドカと一緒にいるわけやない。なんや…、こんなこと君に言っても仕方のないことやね」
ロランはそう言って膝の上に開いた手のひらを見つめた。
「ひとつだけ訊いてもいいですか?あなたがマドカに惹かれた理由って何ですか?別に疑ってるわけじゃないですけど、あなたみたいな人だったら言い寄ってくる女なんて数えきれないほどいるわけでしょう?俺が言うのもなんですけど、マドカは普通の女の子ですよ?」
ロランはしばらく黙り込んだ。その美しい口元から放たれる答えを、智樹は固唾を飲んで見守った。
「そうやね…、君の言いたいことはわかる。けど、俺は特別な人間でも才能のある人間でもない。俺は普通の男やで。俺にしてみれば智樹くんのほうが何十倍も魅力的やし、輝いて見える。こんなこと言っても説得力なんてないやろうけどな」
そう言ってロランは悲しそうに目を伏せた。
「智樹くん、俺はな、マドカには必然的に出会ったと思ってるんや」
「必然?」
「マドカに出会ったのは偶然やなくて、俺にとっては必然やった。今こうして出会わなくても、俺にとってマドカはいつかきっと出会わなくてはならない存在なんや。誰が決めたことでもない。マドカに出会わなくてはならない理由が俺にはあったから」
「言ってる意味がよく分からないんですけど」
智樹は眉間に皺を寄せ、足元の小石を蹴った。
「智樹くん、マドカは…、俺の知っている女の人によく似てるんや」