第6章 過去への招待状(2)
「えー、ではタツさんにお伺いしたいんですが…このアルバムの聴きどころは?」
「なんやろな…んー…、ラ・ヴォワ・ラクテってこんなバンドですよっていうのをまず聴いてもらいたいかな。歌詞がどうで音がどうで、っていうのはその次でいいかな」
ラクテのファーストアルバム発売まで一ヶ月を切った。セカンドシングルが80万枚を売上げ、ラ・ヴォワ・ラクテはその名を日本のロック界に異例のごとく留めようとしていた。
スチール撮影を終えたラクテのメンバーは和気藹々とした雰囲気で取材に応じてくれた。表紙と巻頭特集がラクテの記事で埋まる。彼らの勢いは留まるところを知らない。きっと、これからなのだ。ラ・ヴォワ・ラクテの革命は、まだその序章部分を彷徨っているだけなのだ。
「では…ロランさん、全10曲の歌詞をすべてお書きになられていますが、普段はどんな時に詞を書かれるんですか?」
恋人にこんな質問をするのも変な感じだ。それに、ロランの態度がおかしい。隣にいるタツの表情も、メンバー全員がマドカに送る視線がじれったくてくすぐったい。
「えーっと、どんな時に詞を書かれますか?」
さっきより声を張り上げてマドカはロランの顔色を伺う。
「マドカちゃん、そんなのマドカちゃんのこと考えて書いてるに決まっとるやろ」
タツがあまりにも真面目な表情で答えるので、マドカの顔が赤くなる。他のメンバーもこらえていた感情を噴出して笑った。
マドカは下を向き、ヴォイスレコーダーの録音ボタンを取り消した。
「マドカ…?」
ロランはマドカの顔を覗くと小さな溜息をつき、レコーダーをもぎ取ると自ら録音ボタンを押した。
「詞はすべて妄想で書いてます。実体験をもとに書いているわけではないんで」
ロランが声を張り上げる。
「これでええ?」
ロランはいたずらに笑うと、メンバーと一緒に雑談を始めた。
「ロラン!」
取材を終えるとマドカはロランにかけ寄った。
「どうしたん?」
「どうしたじゃなくて…」
「なにが?」
「もう!なんであんなこと言うの…」
ロランは煙草をそっと口に運んでいた。白い煙に混じって、ほろ苦い香りがマドカを包んでいく。ロランはマドカの頭をぽんぽんと手のひらで撫でた。
「なぁ、それより今日やろ?」
マドカが顔を上げる。
「豪華フレンチフルコースディナー。待ち合わせは18時半?」
ロランがにっこりと微笑んだ。
その夜、マドカはロランと食事の約束をしていた。図書館で桜田直義の『湖水』を目にしたあの日以来、ロランの父親のあの絵が、自分の幼い頃の記憶にはっきりとその形を残しているという偶然の一致ともとれる数奇な話を、マドカはなかなか言い出せずにいた。
あの絵が掲載されたページをさらに読み進めてみると、ロランの父親は「湖水」という油絵でフランスのル・サロンという展覧会で入選していた。彼がフランス留学中の、28歳の時に描かれた作品だという。しかしそれ以降の経歴に関しては一切触れられていないことから、ロランの父親、桜田直義は『湖水』以上に世間一般に評価される作品を残せなかったと考えるのが妥当だろう。
母が自殺を図った時、なぜ「湖水」が描かれた絵葉書が彼女の傍に置かれていたのか――。これは単なる偶然でしかないのだろうか。混乱したマドカの脳を、水面に揺れる緑が色を染めてゆく。
ロランの父親によって描かれた一枚の絵は、どこかで繋がるもつれた糸を手繰り寄せる恐怖をマドカにもたらしていた。
*
「いらっしゃいませ」
智樹のバイト先であるレストランは、リーズナブルな値段で本格的なフレンチが食べられる有名店だった。テーブルの上に美しくセッティングされたナイフ・フォークとワイングラスが、オレンジ色の間接照明を受けて控えめに輝く。フロアの白い壁にはモダンな絵が飾られ、ウェイターに迎えられてフロントを抜けると、大きなワインセラーが見える。
仕事で遅れるというロランの到着を、マドカは智樹のはからいで一番奥の席で待つことにした。ディナーの始まる時間より早めに着いてしまったため、マドカ以外に客の姿はなく、辺りはがらんとしている。
「マドカ、何か飲み物頼む?」
ドリンクメニューを広げ、智樹がテーブルの前に立った。
「ううん、彼が着いてからで平気」
マドカはそう言ってテーブルの上で細い指を絡ませながら、ウェイター姿の智樹を見つめた。白いシャツに黒いレザーのネクタイを締め、立派なベストを着込んで腰に長いタブリエを巻きつけた智樹。長身のすらりと伸びた長い足に、褐色の肌が爽やかな笑顔。こんなに素敵なウェイターを親友に持つのも悪い気分はしない。
智樹はセラーから出した赤ワインを両手で抱え、フロアを颯爽と歩いていた。
智樹って…、あんなにいい男だったかな…?
「お前、何見てんだよ。仕事に集中できないから、俺のことばっか見るなよ」
マドカは智樹の顔を見つめてにっこりと笑った。
「まぁ、彼氏の前で俺のこと見るわけねぇよな」
「え?何?」
「なんでもねー。とりあえずマドカのテーブルは俺が担当だから、何なりとお申し付けくださいませ」
智樹はそういってマドカの横で深々と頭を下げた。
何組かの客が席に着き、フロアには客たちの親密な会話とグラスを傾ける静かな音が漂う。 マドカが左手の腕時計に目をやると、約束の時間からすでに一時間以上経過していた。 智樹は他の客の食事のペースを気にしながら、マドカのテーブルに何度も駆け寄った。
「マドカ、まだ来ねぇの?」
「忙しいのよ、きっと」
鞄の中から皮の手帳を取り出し、マドカはスケージュールをチェックして暇をつぶした。最初に来た客のテーブルの上には、すでにメインディッシュの皿が運ばれている。フロアに響くナイフ・フォークと皿の触れ合う音を耳元に聞き、マドカは静かな溜め息をついた。
「お待ち合わせのお客様がお見えです」
フロントのスタッフが皿を下げる智樹の傍に駆け寄り、小さな合図をするのが見えた。マドカはテーブルの上に広げた手帳を閉じて鞄の中に仕舞う。
フロントの女性に案内され、ロランがフロアに現れた。スウェードのジャケットのポケットに手をつっこみ、喜怒哀楽のわからない表情でロランはマドカの姿を探して女性の後ろを歩いてきた。
食事をしていた学生らしき女の子たちがロランの姿を目で追っている。やはりロランはラ・ヴォワ・ラクテのボーカルなのだ。その姿は、誰が見たって美しい一人のアーティストなのだから。
「遅くなってごめんな。タッちゃんが機嫌悪くて大変やったわ。まあ、いつものことやねんけど。もしかしてマドカ、かなり腹減ってたりする?」
マドカは一度だけ深く頷いてにっこりと笑う。ロランと恋人同士になって、これまでデートらしいデートは一度もしたことがなかったから、こうしてお洒落なレストランの照明の下で彼の瞳を見つめることは、マドカにとって最高に幸せな時間だった。ふとした瞬間に見せるロランの子供みたいな笑顔が、マドカの心を優しさで満たしていく。
フロアにいる女の子たちの視線も、ロランがロックバンドのボーカリストであることも忘れ、マドカはただ純粋に、この幸福な時間を胸に刻みたいと思った。
「ロラン、紹介するね。これが友達の智樹。中学の頃からずっと仲が良かったの」
ドリンクメニューを持ってテーブルに現れた智樹をロランに紹介する。
「それでこっちが…、紹介するまでもないけど、ロラ…」
「はじめまして」
マドカの言葉を遮るように智樹が営業用の笑みをロランに向けると、メニューを開いてマドカとロランの手に渡した。
「俺、ワインにしよかなー。お勧めとかあるん?」
ロランがワインリストを指差し、智樹の顔を見上げる。智樹は一通り料理の相性とそれぞれの特徴をすらすらと述べた。
ロランと智樹――。こんなにも対照的な二人を眺めるているのも、不思議な感じがする。柔らかな淡い雰囲気を身にまとった幻想的なロランと、きびきびとした爽やかな男らしい智樹。
まるで月と太陽のようだ。二人のやりとりを見てマドカは微笑む。
椅子に座ったロランが横に立った智樹を見上げている。ロランの華奢な体は智樹の体にすっぽりと隠れてしまう。
「マドカも赤ワイン飲むやろ?ボトルで頼む?」
「マドカ、確か赤ワイン駄目だったよな?」
マドカの返事を待たずに、智樹がすかさず喋り出した。
「マドカ、赤ワイン駄目なん?」
「うん、ちょっと苦手かも…私、甘めの白ワインにしよっかな」
料理は適当に任せると言ってロランがメニューを閉じると、智樹はテーブルを離れていった。フロアは客の温かな笑い声と食器の触れ合う音で満ちている。マドカはテーブルの上に折りたたんであったナフキンを広げ、膝の上に置いた。
「智樹くんって、マドカのこと何でも知ってるんやね」
ロランがぼやけた照明の下で、その目を細めた。
「そんなことないよ。ただの腐れ縁だもん」
「男前やなぁ」
ロランが言うと、それはどこか不思議と現実味を帯びて聞こえた。
「どこが?どこが、男前?」
「女にモテそう」
マドカは思わず噴き出した。
「ロランに言われたら智樹も喜ぶね、きっと」
智樹が慣れた手つきでグラスに白ワインを注ぐ。澄んだ色から香るブドウの匂いをマドカは静かに嗅いだ。
「テイスティングされますか?」
ワインボトルのラベルをロランに向け、智樹が聞く。ロランは「いらない」と一言だけ言うと、智樹に向かってにっこりと微笑んだ。グラスの8分目までワインを注ぎ終えると、智樹は何も言わずにテーブルを立ち去って行った。
「乾杯しようか」
ロランがグラスを傾けると、丸みを帯びたワイングラスはフロアの光を集め、眩しいくらいに輝いた。
「何に乾杯?」
「そうやなあ…」
ロランはしばらくのあいだグラスを傾けたまま考え込んだ。マドカは手にしたグラスのワインをじっと見つめる。
「初めてのデートに」
ロランはそう言って、傾けたグラスをマドカのグラスに寄せた。ガラスの触れ合う音が気持ちよく響く。ロランはマドカの顔を見つめるとにっこりと微笑み、その香りを堪能しながらワインを口に運んだ。
「ロラン、変装してくればよかったのに」
「何で?」
「今日に限ってサングラスしてないし」
「俺、そんなに有名なん?自分が見られてるとか、どうだとか、全く気にならないけどな」
ロランの瞳は静かに息づいていた。にぎやかなフロアを包みこむ淡い光は、マドカの頭上をただぐるぐると回り続けていた。
「今度は、人気ボーカリスト編集者と熱愛!とかって記事にならんかな」
ロランが悪戯な笑みを浮かべ、その大きな瞳でマドカを見ていた。子供のようなその笑顔に、胸が締め付けられそうになる。
いくつもの夜が二人の距離を縮めてくれたことに、マドカは喜びを感じた。ロランの瞳をこうして見つめることができる今の幸せを、この体に閉じ込めておきたい。
初めてのデートに――。ロランの言葉が胸を打つ。
「ロラン…、ロランのお父さんの絵、雑誌で見たよ」
ロランは鴨のテリーヌを綺麗に切り分けると、ナイフ・フォークを動かす手を止め、白い皿から顔を上げた。
「ごめんね。黙ってるつもりはなかったんだけど、ロランのお父さんってどんな人だったのかなぁと思って、図書館で…」
マドカは俯き、膝の上に置いた真っ白なナフキンに視線を落とした。
「こういうのって嫌…だよね?」
ロランは何も言わずにナフキンで口元を拭った。
「ごめんね…」
マドカはそう言って再び下をむいた。
「別に謝らなくてもええ。親父の絵、何の雑誌で見たん?本に載るような画家やないで」
「松山市で出してる雑誌だった。随分古いやつだったけど」
「その絵っていうのは、もしかして…湖の絵のこと?」
「うん」
「親父、あの絵しか評価されてなかったみたいやからな」
マドカは首を傾げて曖昧に頷いた。
「ねぇロラン、あの湖の絵って…絵葉書かなんかに使われた?」
「絵葉書?」
「うん。ほら、よく観光地とかで使われるでしょ?県や地域で発売したりして」
ロランは顔をしかめた。
「知らんなあ。でも、なんでそんなこと聞くん?」
マドカは肩をすくめてロランの顔を見つめ返す。
マドカはまだ、あの絵が結びつける母の過去を整理することができていなかった。あの葉書に書かれた絵は確かに桜田直義の「湖水」とうりふたつだった。湖畔の静けさと水面に揺れる波紋。山に囲まれた湖にひっそりと浮かぶボート。その色彩は分からないが、マドカの記憶にしっかりと留まる母の化身――。
もし、あの葉書が特別に母親のもとへ送られたものだとしたら。あの絵を描いたのはロランの父親、桜田直義なのだろうか。
知りたい――。母親の死と、その過去に繋がる一枚の絵葉書に託された謎を、マドカは強く知りたいと思っていた。
あの絵を描いた桜田直義と母がどこかで親密に深く関わっていたとしたら――。
例え、目の前にいる大切な人との関係が壊れてしまうことになっても、この手で母親の過去を開いてみたい。真実を確かめることに母の死を慈しむ意義があるのだと、マドカは感じていたのだ。
美味しい料理にワインがすすみ、デザートのマスカルポーネのムースが運ばれてきた時にはマドカはだいぶ気持ちよくなっていた。虚ろな瞳でロランの顔を覗くと、彼はまだ余裕の表情でワインを飲み続けている。マドカは皿に盛られたデザートをで愛しそうにフォークでつついた。
ロランが手を挙げてウェイターを呼ぶと、智樹がミネラルウォーターのグラスをマドカの前に置いた。
「マドカ、酔ってるやろ?」
智樹はそう言ってあきれたようにマドカの顔をのぞいた。
「お前、本当にアルコール弱いな」
「そんなことないもん。料理も美味しくて、雰囲気も良くて…ちょっと気持ち良いだけだもん」
マドカが潤んだ瞳で智樹の顔を見上げる。上気した頬のマドカにじっと見つめられると、智樹は何も言えなくなってしまった。
「せっかくのデートやのにまた記憶なくすといけないから、もうワインは止めやな」
ロランはそう言ってマドカのグラスを自分のテーブルに寄せた。傍にいた智樹は再びあきれたように溜め息をつく。
「ちょっとお化粧室行ってくる」
そろそろと椅子から立ち上がると、マドカは慎重な足取りでフロアを横切って行く。
店内は客の姿もまばらになり、上品なクラシック音楽が優雅に流れている。気まずい雰囲気に智樹がテーブルを離れようとすると、ロランが口を開いた。
「智樹くん…やったよな?」
智樹はテーブルのロランを見下ろした。
「今日はどうもありがとう。智樹くんが色々と気遣ってくれたおかげで心から楽しめたよ。二人で外で食事したり、デートらしいデートもしたことがなかったから、マドカもきっと喜んでるやろな」
「別に、俺は何も」
ロランの顔も見ずに返事をすると、智樹は空いた皿を下げながら言った。
「俺はただ、あいつが笑っていてくれるんだったらそれでいいと思ってますから。あいつの嬉しそうに笑う顔見てるとほっとするんです。ただ、それだけのことですから」
*
「なぁ、マドカ。智樹くんってやっぱ男前やな」
「智樹は男前じゃなくて、男っぽいだけじゃないかなぁ」
帰り道、マドカは雲のあいだに見える月を追いかけている。外の空気にあたり、酔いも次第にさめていく。
「確かに智樹は女の子にモテるけど、私にとっては恋愛の対象にはならないっていうか、大切な友達っていうか…」
ロランのジャケットのポケットに手を入れ、マドカはその小さな空間の中でそっと手を繋いだ。
街の明かりが二人の行く先を明るく照らしている。ごみごみとした繁華街を抜けると、マドカの目に大きなポスターが飛び込んできた。
「あっ!」
マドカは思わず立ち止まる。
「ラクテのポスターだね。すっごいなー」
マドカはビルの上の広告板を眺めた。
「アルバム、きっと売れるんだろうな」
満面の笑みでロランの顔を覗く。
「ロラン…?」
ロランは無言でポスターを見上げていた。歩道を歩く人々の影が、街灯に照らされて黒い影を地面に落としている。
「なぁ…、俺ってマドカを笑顔にすることちゃんとできてると思う?俺は…マドカに何をしてあげられるんやろ。歌って、曲書いて…、マドカを喜ばせるようなことひとつもしてやれんな」
ロランはぽつりと呟くと静かに歩き出した。マドカはその小さな背中を追いかけて行く。
耳元で鳴り響くロランの歌声を、マドカは何度もリフレインしながら彼の手を握りしめた。
握り返したロランの手が離れてしまわないように。
彼の歌声がいつの日も一番近くにありますように。
不安な夜が、訪れませんように――。