第6章 過去への招待状(1)
「久しぶりじゃん」
馴染みの声に振り返る。バイトを抜け出して来たウェイター姿の智樹の傍に駆け寄ると、マドカは曖昧に微笑んだ。
「今、休憩中だから。あんまり長く話せないけど」
智樹はそう言ってコインパーキングに設置された自動販売機のボタンを押した。ガチャンという音を立てて、取り出し口に缶コーヒーが落ちてくる。溜め息をつきながら缶に口をつけ、智樹はマドカの横顔に視線を向けた。
「元気?」
「うん…、まあまあ」
二人はブロック塀にもたれ、通りの風景を眺めた。講義を終えた学生がぞろぞろと歩き去って行く。
「智樹…、ごめん」
「ごめんって…なんだよ?」
智樹は俯いたままのマドカを見下ろした。
「怒ってないの?」
「はぁ?なんのことだよ?さっぱり分かんねーんだけど」
智樹はそう言ってコーヒーを一気に飲み干した。穏やかな秋の風がマドカの長い髪を揺らしていた。マドカの小さな顔を見つめながら、智樹は手の中の缶をぎゅっと握り締めた。
「うまくいったんならよかったじゃん?」
「えっ?」
「うまくいったんだろ?あのバンドのやつと」
「なっ、なんで!?」
「顔に書いてあるもん。それに、なんかマドカ可愛くなった」
智樹の意外な言葉にマドカは再び下を向く。
誰よりも近くにいた智樹。その存在が少しずつ、マドカを取り囲む世界から遠ざかっていくような気がした。
「智樹…、ごめんね」
「だからー、なんで俺に謝るのか意味わかんねーんだって」
「私、あの日…」
「あの日?」
「智樹、私のこと心配して誘ってくれたのに…、途中でいなくなったりして。しかも、それからもう一ヶ月以上連絡しなかったし…私って、友達失格だよね?」
マドカの瞳が智樹の顔をじっと見つめる。時折吹き付ける風が、マドカの前髪を左右に揺らした。色白の小さな顔を少し上げ、上目遣いで長身の智樹を見つめるマドカの表情は、いつだって智樹のもやもやした想いを不完全な場所へ導いてゆく。
「なんだよ、そんなの別に気にしてねーし。それに…、俺はお前と会わなくたって、遊んでくれる女の子はいっぱいいるんだよ」
智樹はそう言って、空になった缶を数メートル先のゴミ箱に向かって投げた。カランという気持ちの良い音を立てて、缶がゴミ箱の中に落下する。
「智樹…、私ね、智樹がいてくれたから、どんな時もまっすぐ前を向いて歩いて来れたんだと思う。私が何かにつまづいて、前に進めない時…いつも励ましてくれたのは、父親でも彼氏でもなく、智樹だもん。田舎から上京して寂しかった時も、智樹が一緒にいてくれたから頑張れた。だから…、これからもずっと何でも言い合える仲でいて欲しいな」
「あのさ、お前…、いきなり何言っちゃってるわけ?」
智樹がぷっとふき出した。
「なっ、なんで笑うのよ!笑うとこじゃないし!」
マドカはそう言って、長いタブリエのポケットにつっこまれた智樹の両腕を強引に引っ張った。
「だって、お前…」
笑いを必死でこらえた涙目の智樹が小憎らしくて、マドカはぷいっとそっぽを向く。
「おい、そんな怒んなって。可愛い顔が台無しだぞ」
「えっ?」
「嘘だけどな」
二人は何かが吹っ切れたように笑い出した。マドカが智樹の胸をグーで叩くと、その小さな手は跳ね返される。骨張った智樹の大きな手に、マドカの腕はすぐにつかまってしまう。
性格も体格もロランとは対照的な智樹。優しくて意地悪なところは似てるけど、その優しさはどこか違う。智樹の優しさはいつまでもずっと傍にあるものだとマドカは思っていた。ただの友達でも、恋人でもない、それは抱き心地のよいクッションのような関係。
智樹がいてくれたからこそ、マドカは悲しみを共有してくれる相手を近くに感じることができた。マドカは、ロランにとって自分がそういう位置に属した人間になりたいと強く思う。二人のあいだを繋ぐ、目に見えない鎖のようなものを結びつけることができたらどんなに素敵だろう。ロランにとってそんな存在になれたら――。
「智樹、ネクタイ曲がってる」
黒いレザーのネクタイの首元を、マドカは背伸びして直してあげる。
「サンキュー」
智樹は軽やかに手を振った。タブリエの裾を揺らして路地に消えるその後姿を、マドカは笑顔で見送った。
*
銀杏がその葉を金色に染め、見事なグラデーションを作り上げている。マドカの頭上には、秋晴れの高い青空が広がっていた。
おろしたてのトレンチコートを羽織り、ブーツの踵を鳴らして歩く。ロランに出会ってから、マドカは今までよりヒールの低い靴を選ぶようになった。新しい靴を買う時はいつもロランの言葉を思い出す。
全速力で走ったら危ないよ――。思えばそれがすべての始まりだった。
たった一人の愛しい人に出会えた喜びを、マドカは胸の奥で抱きしめる。
公園を横切って石畳の歩道を進むマドカは図書館を訪れた。平日の午前中は館内にみえる人影はまばらで、広々とした空間にどこか得をした気分になる。
カウンターでレファレンス係に美術書のある場所を尋ねる。
マドカはロランの父親の絵を探しにきたのだ。
『日本の名画』『日本人画家名簿』『美術史-日本人画家に学ぶ‐』
緑地公園が見渡せる窓際の席に座り、書架から抜き出した本に一冊ずつ目を通す。けれど、週刊誌に書かれていたロランの父親、桜田直義という名前はいくらページを捲っても現れなかった。三冊目を手に取り、「売れない画家だった」というロランの言葉を思い出すと、探しても見当たらないだろうという気持ちになってゆく。
最後のページを溜め息をついて眺めると、マドカは本を閉じた。
再びレファレンス係のもとへ行く。忙しそうに電話の対応をしていた女性に代わり、事務室にいた若い女性がマドカに笑顔で対応してくれた。
「松山出身の画家を探しているんですけど、そういうのって地方史に載ってるんですか?」
「どのような画家でいらっしゃいますか?」
「二十年くらい前の画家で、風景画の…」
「それでしたら松山市の観光ガイドや市政ガイド、もしくは松山市の芸術家という美術雑誌が館内にございますよ」
『松山市の芸術家』と書かれた雑誌を胸に抱えてマドカは席に戻った。
ページをめくると、そこには夏目漱石や正岡子規のほか、松山市出身の作家・詩人・音楽家・画家などの名前がずらりと並んでいた。
松山市の歴史と平行して並ぶ、芸術家の名前の書かれた年表。それは1980年で終わっている。
マドカは人名索引に目を通していった。
さ 桜田直義…p142
そこには確かにロランの父親の名前があった。
マドカは深呼吸をすると、おそるおそるページを開けた。
桜田 直義
194X~197X年(享年35)
194X年愛媛県松山市に生まれる。美大卒業後、27歳でフランス留学。力強い色彩感覚と繊細なタッチを持ち合わせた新時代の風景画家として注目を浴びるが、35歳という若さで残したその作品はあまり評価されていない。
代表作に「湖水」などがある。
ロランの父親は、どちらかというとあまりぱっとしない風貌の、異様に痩せこけた顔の男だった。小さく掲載された写真からマドカが感じ取れるのはそれくらいのことだった。
おそらく30代の写真だろう。無造作に整えられた、頬にかかる長い髪と、自然に伸びた髭は放浪者を思わせた。だが、しばらくその顔をじっと見つめていると、桜の花弁のような形のよい唇に薄っすらと浮かべた微笑と、りりしい眉の生え際がどことなくロランに似ていた。それでも、この写真の人物とあの美しいロランを重ねることのできる人は、まずいないだろう。
ロランは母親似なんだね…。
ページの四分の一ほどのスペースに記された桜田直義の略歴。マドカはもう一度、簡素な文章に綴られた彼の生涯をたどっていく。
代表作に「湖水」などがある――。
ふとマドカの頭を過ぎる湖の水面。それは故郷の秋田県の、ある湖の面影だ。深い緑色の湖面を吹き抜ける五月の風。新緑の山並みを映して揺れ動く波紋。懐かしい記憶が、マドカを遠い空の下に誘う。瞼の奥に広がる淡い母の影とその匂い。
マドカは長いあいだ椅子にもたれて静かに目を閉じていた。どこからともなく聞こえる鳥の声が心地良い。柔らかな秋の日差しがマドカの頬に光を差す。
マドカは瞳を開けた。ロランの父親が写真の中でぎこちなく微笑む姿をしっかりと目に焼きつける。画家、桜田直義は幼いロランの記憶にどんな影を落としているのだろう。その存在がロランにとってどんな種類の感情を呼び起こすものなのか、マドカには想像もつかなかった。
ふと隣のページに視線を落とす。モノクロ印刷された一枚の絵。
桜田直義『湖水』――
彼の感情が今にも溢れ出しそうなくらい熱情的なタッチで描かれたその絵は、マドカに深い感銘を与えた。
しかし、その感銘が驚愕に変わったのは言うまでもない。母親の記憶に眠るあの出来事が、足音を立ててマドカの身体を通り抜けた。
手の中に握られた薬の瓶。テーブルの上で伏せた母親の抜け殻。
そして、一枚の絵葉書――。
どこかで繋がっている――。
桜田直義の「湖水」は、母の記憶にはりついた予言であったのだ。言葉をなくしたマドカに、彼の「湖水」は無言で語りかける。
「ロラン…、私…この絵知ってるよ」
マドカの中でちぎれた感情は、その瞬間、深い闇となって訪れる。
湖面の上に描かれた一艘のボートが、マドカの想いをどこかへ奪い去ろうとしていた。