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空に架かる橋  作者: 楓花
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第5章 或るボーカリストの軌跡(3)

 「私の記憶の中にあるのは、絵本を読んでくれた優しい声と一枚の絵葉書」

 二人は浅い眠りから覚める。眠りから覚めた二人は、互いの存在を確認するかのように何度もキスをする。

 ロランがマドカの耳たぶを噛み、マドカは彼の滑らかな髪を撫でる。額をくっつけ、マドカの頬を両手で包み込む。マドカはこの瞬間が一番好きだ。その深く色づいた瞳に見つめられたまま、時が止まればいいのにと願う。ロランの胸に鼻先を寄せて、マドカは何度もそう願う。


「お母さんが死んだ時、そばに置いてあったの、一枚の絵葉書が…

どうしてお母さんは自殺なんてしたんだろう。小さな私には何も分からなかった。お母さんの顔も覚えていないくらいだもんね」


 マドカは霞んだ部屋の空気をそっと吸い込んだ。外の冷たい空気がロランのアパートの薄い壁を伝って部屋の中に入り込んでくる。


「お母さんの写真…、再婚した時に父親が全部捨てちゃったの。写真だけじゃない。ある日学校から帰ったら、母親の記憶につながるものは全部なくなってた。母親が編んでくれたっていう毛糸の帽子とか、セーターとか…私の幼い頃の記憶がすべて失われてしまったの」

 マドカはロランの腕に顔をうずめた。


「勝手に母の思い出を捨ててしまう父親の行為も酷いって思ったけど…、私は父親のことが大好きだったから。新しい母親に早く懐いて欲しいっていう気持ちからしたことなんだって分かってたから、何も言えなかった。でもね、母親の記憶が薄らいでいくにつれて、私の中で母親の思い出を繋ぎとめようっていう想いが強くなっていった。その顔も覚えていないけれど、私にとってはたった一人のお母さんなんだって思うようになったの。だから案の定、今の母親とは折り合いが悪くてひどい喧嘩も何度かしたし、自分の殻に閉じこもってみたりしたこともあった。だけど、そんな家庭環境だからって周りにも自分にも迷惑はかけたくなかったの。親が再婚することって珍しいことじゃないし…、だからちゃんと勉強して働いて、早く自立するんだって思ってた。反発してても惨めになるのは自分だって気づいたから」


 ロランは静かにマドカの背中を手のひらでぽんぽんと叩いた。手のひらから伝わるロランの体温が深い優しさとなってマドカの身体に潜り込んでいく。


「父親が死んで五年近くになるけど…、実家には上京してから一度も帰っていない。私は今でも、自分の本当の母親は二歳の時に亡くなった母親だと思ってる。きっと、いつかは越えなくてはならない壁なんだよね。私はまだ、小さな女の子の端くれでしかないんだよね」


 マドカはその夜、ロランの腕の中で声も出さずに泣いた。

 ロランが週刊誌に叩かれたのは、それから五日後のことだった。





   *



~人気ボーカリストの寂しい過去~

 若者を中心に人気急上昇中のロックバンド「ラ・ヴォワ・ラクテ」のボーカル:ロラン(年齢非公表)に悲しい過去が浮上した。ラ・ヴォワ・ラクテのボーカルと言えば、その女性をも超える謎めいた神秘的な美しさで多くのファンを魅了しており、彼の魅力がこのバンドをスターダムにのし上げたといっても過言ではない。

 我々取材班の報告によれば、彼の父親は愛媛県松山市で活躍した風景画家:桜田直義で、彼が幼い頃に交通事故で他界(享年35)、唯一の肉親である彼の母親の所在はつかめず(あるいは既に他界)、幼くして頼る肉親を亡くした彼は愛媛県内にある児童養護施設を転々としていたという。

 実際に施設で生活を共にしていた方に彼の過去について一部お話を伺うことができた。


「彼とは7歳から9歳までの約2年間、同じ施設で生活していました。彼は無口で感情を表に出さず、いつも絵ばかり描いていました。おとなしくて手のかからない子供だと教師にはかわいがられていましたよ。ですが、私たち子供のあいだでは彼に対して良い感情は抱けませんでしたね。声をかけてもこちらの会話に答えようとしない。これといって特定の友達はいなかったと思います」


 また、関係者の話によると彼は13歳の時、暴行事件を起こして施設を追い出されて以来、知人の女性宅を転々として暮らしていたという。14歳で松山市にあるライブハウス「Duo」に出入りし、19歳で大阪に移住するまで肉親の愛情に飢えた素行の知れない生活が続いた――。





   *



 針のように細い雨が垂れ込めた灰色の雲からアスファルトに降り注ぐ。霧のかかった大通りを、マドカはぼんやりと歩いていた。目についたカフェに入り、揺りかごのようなソファにもたれて記事を読み返す。


『人気ボーカリストの寂しい過去』


 カプチーノの泡をスプーンですくう。コーヒーとミルクが混じり合ったカップの中で、角砂糖が溶けていく音が今にも聞こえてきそうだった。

 雨粒の滴る窓から地上を見下ろすと、通りを染める色とりどりの傘が湿った空気の中で美しく舞っている。


 記事の上部にラクテの宣材写真を切り取ったロランの顔が大きく載っている。寂しそうな陰影を含んだ瞳で、ロランはこちらを向いていた。

 その瞳に映るのは遠い過去なのか、どこかへ続く未来なのか――。

 マドカは細い指先で写真をなぞった。 ぼそぼそとした再生紙の上には、温かなロランの体温も柔らかな声も聞こえない。それはただ、マドカが彼に出会う前の記憶だった。ひっそりと息を潜めて、記憶の断片が宙に舞う。





 閉じた傘を引きずりながら、暗い夜空を見上げる。頭上には美しい満月が小さな予言のように佇んでいる。肌を撫でる風は日に日に秋の色を増し、ひやりとした空気の中をさわさわと音をたててすり抜けていった。

 ロランのアパートへ向かうマドカの足取りは重い。いつもなら、ヒールを軽やかに鳴らしてこの道を急ぐのに。


 等間隔に並んだ街灯の明かりに違和感を覚えながら、マドカはロランのことを考えていた。きっと、あの記事のことをロランはまるで気にしていないだろう。ロランにとっては、当たり前に通り過ぎてきた道なのかもしれない。

 記事にあったことが嘘でも事実でも、マドカにはどちらでも構わなかった。ただ、寂しそうなロランの瞳は、マドカをいつも言いようのない虚しさの中に追いやってしまう。

 そんな瞳のロランは見たくない。彼の抱える感情をすべて共有したい。マドカが思うのはただそれだけのことだった。


 ロラン…私には、あなたの抱えた悲しみが理解できる?

 その瞳に映るすべての風景を、私にも見せて――。




 マドカはあの公園に立ち寄った。噴水の音が響く園内で、ベンチに座って辺りを見渡してみる。

 数ヶ月前にロランとこの場所で出会った時、マドカにとってただ彼と一緒にいる時間が儚い夢の欠片みたいにきらきらと輝いていた。彼の仕草をひとつひとつ瞳の奥に焼き付けて、そっとそのワンシーンを思い出す。それだけで、マドカの心は弾んだ。

 けれど、今のマドカの心を揺らすのはロランの瞳に沈む、その寂しさだった。彼のことを知りたいと思うほど、マドカの胸は不安でいっぱいになる。そこにあるはずのロランの姿が、霞んでいくような気がするのだ。


「見つけた。やっぱりここにおったんか」

 マドカが顔を上げると、いつものように美しい微笑みを浮かべたロランの姿があった。

「ロラン…」

「部屋で待ってても、マドカ遅いから。迎えに来てん」

 ロランはそう言ってベンチに腰掛けると、マドカの長い髪を撫でた。唇に挟んだ煙草から白い煙が立ち昇る。

 何も変わらない美しさと、子供のような笑顔のロランの横で、うまく言葉が見つからないマドカは俯いたままだった。


「なぁ…、十五夜っていつなん?」

「もう…、終わったと思うけど…」

「なんや、団子食いたかったな」

 ロランは心底悔しそうな表情で空に浮かぶ満月を見上げていた。指に挟まれた煙草の灰が、風に吹かれてぱらぱらと散らばる。


「今夜は月が綺麗やな」

 遠くに昇った月に向かって、ロランが煙草の煙を口元から吐いた。優しい夜風に、その白い煙は儚く揺られながらどこかへ消えていく。

「ロランってさ…、七夕とか、十五夜とか…いつもどこかで季節を感じてるんだね」

「もしかして、俺って季節感ない?」

「なさすぎだよ…」

「日本人たるもの、四季を感じて生きるのが基本やね。日本のアーティストは恵まれとるな。春には春のイメージがあって、夏には夏、秋…、冬は雪も降るし。そうして季節が巡るたびに、色んな景色を思い出す。まぁ、ミュージシャンやったらそれぞれの季節を描いた曲を残したいわな」

 そう言ってロランは短くなった煙草を揉み消した。

「タッちゃんの受け売りやねんけど」


 ロランの美しい横顔を、穏やかな風が撫でていく。外灯のオレンジ色に包まれたその横顔を、マドカはそっと胸の奥に仕舞い込む。その笑顔があれば、どんなことがあっても強くいられそうな気がする。 ロランの隣に、ずっと強くいられそうな気が――。


「なぁマドカ…、マドカは母親の顔、覚えてないって言っとったやろ?」

 マドカはこくりと頷いた。

「俺も母親の顔なんて覚えてない。覚えてないというより、全く知らん。母親の声とか温もりとか…そういう記憶もない。俺は、母親がどこの誰かも知らんねん」

 マドカは胸の震えを抑えながらロランの横顔を見つめた。

「一番小さい頃の記憶で覚えてるのは、病院のベッドの上だった。目を開けたら、そこに親父がいた。親父しかおらんかったな。それがいくつの頃の記憶か分らへん。でも、俺には親父しかおらんかった。親父は画家やったから…毎日絵を描いていて、二人で小さなアパートで暮らしてた。狭い部屋の中は画材やらイーゼルやらで埋め尽くされとったから、絵の具の匂いだとか油の匂いとか、それが幼い頃の記憶として残ってる」

 マドカは黙ってうなずいた。


「マドカも週刊誌の記事見たんやろ?あれに書いてあることはほぼ事実やな。まぁ、俺は書かれたことに対して別に何とも思わへんから。ただ…このことで、メンバーやスタッフや…マドカに迷惑かけてしまったな」

「そんな…、私…迷惑だとか…」

「心配したやろ?」

「うん…」

 マドカは寂し気にこくりと頷くと、ロランの白い指先にそっと触れた。

「ロラン…、私は迷惑だなんて少しも思ってないよ。私は…、もっとロランを近くに感じたいし、もっとロランのことが知りたい。寂しそうなロランは見たくない。できることならロランの背負っているものを全部一緒に…」

「マドカ」

 ふわりとロランに引き寄せられる。その腕の中で、マドカは彼の鼓動の音に耳を澄ませた。


「マドカ…、失いたくない」

 ロランは小さな体をマドカに寄せ、華奢な腕でマドカをぎゅっと抱きしめた。

「マドカだけは失いたくない。俺は小さい頃にひねくれてしまったせいで、どんなに欲しいものも欲しいと言ったところで手に入らんって思ってた。本当に欲しいものなんてなかったし、何も必要ないって思ってた。だけど、その代わりに失うものばっかり増えていって、ある日気づいたら俺は空っぽになってたんや」

 ロランはそう言って、マドカの耳に頬をぴたりと寄せた。


「マドカに出会って…、マドカは俺のなくしたものをそっと手繰り寄せてくれた。マドカの無邪気な笑顔見ていたら、空っぽな俺の人生も捨てたもんやないなって思った。なぁ、こういうのって…重い?」

 ロランは大きな瞳を潤ませてマドカの顔をのぞいた。マドカは思わずぷっと声を出して笑う。

「こら、何で笑う」

 マドカはロランの腕を掴むと、声をあげて笑った。

「だって…」

 涙目になって楽しそうに笑うマドカの姿を眺めていると、ロランの口元も自然と緩んだ。

「だって、ロラン…子供みたい。ロラン、子供がお母さんに甘える時みたいな表情するんだもん。かわいい…」

マドカが大袈裟に手を叩いて喜ぶと、ロランはむっとした表情を作って口を尖らせた。


「でも、どうして私なんだろう。ロランだったら…私じゃなくて、もっと綺麗な女の子がたーっくさん寄ってくるでしょ、それに…ロランを幸せにしてあげたいと思ってる女の子、この世に数えきれないほどいるんだよ?」

「せやな。確かにマドカはまだまだ子供やし、胸は小さいし、エッチも上手くないし、料理も俺のほうが断然巧いし、すぐ泣くし…」

「ちょっと、ロラン!それって私のことバカにしてる?」

 マドカは頬を膨らませてロランの顔を見つめ返した。

「嘘や。さっきのお返し」

そう言って、ロランは再びマドカを抱きしめた。

「マドカ…やっと巡り合えたな。神様が、マドカに出会えるように俺をここまで連れてきてくれた」

 マドカはロランの息遣いを耳元に感じながら、そっと目を閉じた。

「俺はきっと、マドカを愛してる」

 ロランがマドカの体を抱きしめる腕に力を込める。

「きっと…?」

「いや、たぶん…」

「なによ、それ?」

「うるさい。愛してる――」





 ロラン…、あの時、私は本当に幸せな女の子だった。あなたの傍にいると、いつの日も胸が痛かった。今にも消えてしまいそうな美しいあなたを、私は小さな手で抱きしめてあげることしかできなかった。それでも、あなたは私を愛してると言ってくれた。

 あなたの失った風景に、私はほんの少しだけ近づいた気がしたの。あなたの瞳に映る景色を、ほんの少しだけ眺めることができたように感じたの。


 完璧な闇が訪れるその前に、ひとつの光が消えてしまう前に、私はずっとそばにいたかった。

 あなたを…その悲しみの海から救いたかった。

 なのに、気づいてあげられなくて…、ごめんね…、ロラン――。

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