第5章 或るボーカリストの軌跡(2)
「そうだね、私がタッちゃんに出会ったのは19の頃で、当時まだラ・ヴォワ・ラクテっていうバンドは存在しなかった。タッちゃんは今のメンバーとは違う三人とバンドを組んでいて、私はそのバンドのファンだった。何度もライブに足を運んでいるうちにタッちゃんとは自然と仲良くなって、私から積極的にアプローチして付き合うようになったんだ」
アサミはそう言って、テーブルの上に置かれた五本の指に輝く桜色の爪を撫でた。
「あの頃、私が出入りしてたライブハウスではタッちゃんのバンド以外に四組のバンドがステージに立っていて、お互いが良い意味でライバルだった。その中で知り合ったのが、ドラムのカオルくん。今もそうだけど、あの頃からすごく無口な人だった」
マドカはカオルの顔を思い出す。確かにいつもむすっとしていて口数は少ない。インタビューの内容以外で言葉を交わした記憶さえなかった。
「タッちゃんのベースの腕はね、大阪では結構有名だったんだ。だから、タッちゃんがカオルくんに新しいバンドの話を持ちかけた時、大阪でバンドをやってる人たちのあいだじゃちょっとした話題になったの」
アサミの胸元の、高そうなプラチナのネックレスがきらきらと揺れた。
「じゃあ他のメンバーはどうするっていう話になった時、カオルくんの知り合いがたまたまライブに連れてきたシンちゃんを紹介したの。シンちゃんは大学二年生だった。シンちゃんのギターを聴いたタッちゃんは、その音に惚れたって言ってたよ。テクニックに関してはまだまだ甘いけど、感情のコントロールが巧いって」
シンのギター。マドカはその音色を耳元でリフレンする。技術に関してはよく分からないけれど、巧い下手というぐらいのことはマドカにも少しは分かる。シンのギターはマドカが今までに聴いたことのない類の音だった。細く緊張した甘い旋律に、胸の奥が切なくなる。
「タッちゃんはシンちゃんに、本気でやるなら大学を辞めて本格的に俺と組まないかって言ったの。バカみたいでしょ、将来も見えないたかがロックバンドのために学校まで辞めろって。でもあの時、タッちゃんは本気だったんだと思う。きっと、これが最後の賭けだと思ってたのね」
アサミはそう言って懐かしそうに目を細めた。
「タッちゃんが一目置くくらい最高のドラマーがいて、誰よりも切ない音を奏でるギタリストがいて、そして大阪で天下をとったベーシストがいて…、タッちゃんが夢にまで見た理想のバンドの土台が固まった。それが今から五年前のことかな。タッちゃんがちょうど二十歳の頃」
アサミはそこまで話すとにっこりと笑いながらマドカの瞳を覗いた。
「マドカちゃん、私の話退屈じゃない?」
「いえ、そんなことありません…、続けてください」
マドカは頭の中で流れる、ラクテの『Stars』を特別なもののように抱きしめる。アサミの口から語られるストーリーは、マドカのまだ知らない、劇的な物語の始まりであるのだろう。
「ここまで完璧にそろえば、あとはボーカルを探すだけ。ボーカリストはバンドの華。ボーカルにそのバンドのすべてが委ねられると言っても過言ではない。だから…、なかなか見つからなかったの。タッちゃんの求めている逸材が」
カップの縁についた口紅の跡を指先で拭うと、アサミは首をかしげた。
「マドカちゃん、私にもよく分からないの。ルックスが良くて、歌えて、作詞ができて、ある程度ファンもついていて…そういう将来性のあるボーカリストは大阪にも何人かいたのよ。だけど、タッちゃんは大阪から範囲を広げて、関西中のライブハウスをひとつずつ回って、理想のボーカリストを探したの。私にも、周りの人間にだってそこまでするタッちゃんの信念みたいなものが理解できなかった。むしろそんなタッちゃんが怖いくらいだった」
アサミは綺麗に手入れされた細い指をテーブルの上で絡ませた。マドカは手にしたカップをソーサーの上に静かに乗せて、アサミの顔をじっと見つめていた。
「でも…、今思えば、それで正解だったのよ。ロランに出会わなければタッちゃんの夢もこうして実現しなかっただろうし、ラ・ヴォワ・ラクテっていうバンドも生まれなかったんだから」
アサミは長いあいだその長い睫毛を伏せていた。彼女が再び話し始めるのを待ちながら、ラクテに賭けたタツの執念とラクテのメンバー、そしてロランが抱えた覚悟を思い、マドカは胸が熱くなった。
「関西中探し回っても、結局ボーカルは見つからなかった。でもね、やっぱりそのボーカリストはいた。タッちゃんの求めるすべての条件を満たしたボーカリストが存在したの」
「すべての条件?」
「それは私にも分からない。タッちゃんにしかイメージできないことだから」
店内は仕事帰りのOLたちの姿で賑やかになった。どのテーブルも会話に花が咲き、華やかな雰囲気が漂っている。
アサミは残りのコーヒーを飲み干して薄い唇をカップの縁から離すと、一呼吸置いて先を続けた。
「結論から言うとね、ロランは松山にいたの」
「松山?松山って…愛媛県の?」
「そう、松山の、ずーっと田舎にある小さなライブハウスにいた。ロランはそこでフランスのロックバンドのコピーをしていたの。そのフランス人のバンドの名前は忘れちゃったけど、当時は…って今もそうだけど、フランスのロックバンドのコピーなんて、あまり誰もやらないものね」
アサミはそう言って、綺麗な指をテーブルの上で組みかえた。
「タッちゃんは、ロランのことを人づてに聞いて、何度も松山に足を運んでロランのステージを見た。田舎町の、今にも崩れそうな寂れたライブハウスのステージに、タッちゃんのイメージをリアルに持ち合わせたボーカリストがいたのね」
マドカは初めてロランを観たライブの日、ステージの上に立つ彼の姿にあっさりと瞳を奪われてしまったことを思い出した。あの麗しく力強い大きな瞳が、フロアにいるすべての人間を引きつける。ステージの上で様々な色に変化するロランの表情が、ひとつひとつの曲に鮮やかな息を吹き込む。
ロランの魅力は透明感のある彼の歌声だけではないことが、そこにいるすべての人間にストレートに伝わる。それは、才能や素質という領域に収められるものではない。
ただ、そこにロランがいる。それだけでその場がステージになる。マドカは、彼の持つ美しさが見事に凝縮された世界がそこにはあるのだと思う。それだけのことだと思う――。
「ロランはタッちゃんの誘いを何度も断り続けたの。タッちゃんは自作のデモテープを持って、しつこいくらいロランに会いに行った。俺の前に立って歌ってほしいって。ロランが歌ってくれないのなら、タッちゃんはせっかく必死になって確立させたそのバンドを辞めるとまで言い出したのよ。ロランがどうしてそこまでタッちゃんの想いを受け入れなかったのか、その理由は誰にも分からない。でも…、ロランはタッちゃんにある条件を呑んでくれたら、歌ってもいいって言ったらしいの。これは他のバンドのメンバーも知らない。タッちゃんとロランが交わした、契約みたいなものだと思う」
「…契約?」
「もちろん私にもその内容は分からないわ。タッちゃんも誰にも言わないし、メンバーの間でも一度も話題に出したことはなかった。もう忘れてるんじゃないかな、きっと。男同士の約束みたいなもので、あんまり重要なことではないとは思うけど。ロランが加入したあとは、マドカちゃんも知っている通りだと思う。インディーズで出したアルバムが売れて、メジャーデビュー。そんな感じかな」
アサミはそこまで話し終えると、今までで一番素敵な微笑みをマドカに向けた。洗練されているわけでもなく、幼さを残した可愛らしさでもなく、アサミの柔らかな笑顔は持って生まれた才能のように、無意識のままにそこにあるものだった。優しくて温かい。どこか懐かしい風景に溶け込んだようなその笑顔。
「マドカちゃん…、ロランが好き?」
「えっ…?」
アサミの唐突な質問に、マドカは顔を赤くして下を向く。
「好きなのね」
マドカの恥じらう表情に、アサミは目を細めて微笑んだ。
「マドカちゃん、私がこんなこと言うのもおかしいけど…、ずっとロランの傍にいてあげてね」
アサミは淡い照明の下でその長い睫毛を揺らしていた。
「マドカちゃん、ロランは悲しみを背負って生きてる。ロランの心にはぽっかりと大きな穴が開いているのよ。私にはそれがなんとなくだけど分かるんだ。ロランはずっと寂しかったんじゃないかな。ロランは喜びとか悲しみを、誰かに共有してもらいたいんだと思う。でも、それは誰でもいいわけじゃない。彼はめったに他人に心を開かないから。きっと、ロランはずっと探してるんだよ。その悲しみを沈めてくれる誰かを、ずっと探してる――」
*
部屋の鍵を開ける。月明かりがシンクの上に一筋の線を落とし、キッチンの床に丸い円を描いている。静まり返った部屋の中に冷蔵庫が稼動する音が聞こえ、板張りの床はひんやりとしていた。
ロランはまだ帰っていない。マドカはガラスの仕切り戸を開け、狭い六畳の部屋を見渡した。何も変わらない、こざっぱりとしたシンプルな部屋。煙草の吸殻と一緒に、テーブルの上に散らばる楽譜。ギターのコードがずらずらと殴り書きされている。六線譜の空白のスペースにマドカは言葉の断片を見つける。おそらく詞を書いていたのだろう。そこには一人のアーティストとして生きるロランの影が浮遊していた。
マドカの手が触れられない領域――。
ロランの世界を取り囲む城壁が、マドカの声を跳ね返す。
ふと、マドカはアサミの言葉を思い出した。
「ロランは悲しみを背負って生きている――」
目を凝らせば、霞んだ空気の中にある塵とともに、濃い闇と深い悲しみが存在しているように感じられる。六線譜の上にも、煙草の吸殻の中にも、窓際に置かれたギターの傍らにも、ロランの面影と一緒にそれは淡いベールに包まれ、感情の微粒子が漂っている。でもそれは結局、マドカのやるせない想いを描いた欲望の渦かもしれなかった。
マドカは綺麗に整えられたベッドにそっと腰掛け、部屋の明かりもつけずにテレビの電源を入れた。14インチの画面に、無意味な笑いが飛び交っている。チェンネルを変えながら、21時の人々の営みをマドカは画面から感じ取る。
ぼんやりと青白い画面を見つめていると、車のCMが流れた。どこかで耳にしたことのある歌声。
画面の右下、「Song by:La voie Lactee」の文字――。
玄関のドアが開いて外灯の光が部屋の中に差し込むと、静かに扉の閉まる音が聞こえた。
「マドカ?」
ロランは無音の部屋のベッドの上に、体育座りをしたマドカの姿を見つけた。体を折りたたんで両腕で膝を包み込んだまま、マドカはコンビニの袋を下げたロランの顔を見上げる。
「どうしたん?電気もつけないで」
ロランが部屋の明かりを点ける。黄白色の蛍光灯がカチカチと音を立て、二人の頭上で静かにその呼吸を始めた。ロランはジーンズのポケットから煙草を取り出すと、部屋の鍵と一緒にそれらをテーブルの上に置いた。
「どうしたん?冴えない顔して」
ロランが首を傾げてマドカの顔を覗く。ブラウンのサングラスをかけたロランの瞳が、レンズの奥で幾通りの光をも放っていた。
コンビニの袋からミネラルウォーターと缶ビール、牛乳と朝食のヨーグルトを取り出してロランは順番に冷蔵庫の中にしまっていった。冷蔵庫の扉の隙間から、オレンジ色の光が彼の頬を鮮やかに照らしていた。
マドカはロランの心に潜む、その闇を手探りで前に進もうとする。まだ知らないロランの断片を小さな両手で抱きしめようとする。彼の内側にある、秘められた壁を無言でノックする。
確かな痛みが、そこにはあるのだ。
「…ほら」
ふと、目の前に大きな手が差し出される。マドカは深い藍色の瞳をしたロランの顔を見上げた。
「散歩や」
*
「シーザーサラダとスモークチキンのディッシュ。で、俺がビール」
ウェイトレスがしょげたマドカの隣に立ち、注文を打つ。
「それと、こいつにはクリームソーダ」
二人は駅前のファミレスにいた。深夜の店内は和やかだった。ぽつぽつと空席が見えるフロアは、遠くから眺めるとモグラの巣のようにも見える。
ロランは煙草に火をつけた。ファミレスで彼の姿を見つめるのも、マドカには妙な感じがした。
「私…、クリームソーダ飲みたいなんて言ってないよ」
マドカはぼんやりと煙草の煙の行方を目で追った。
「マドカ、クリームソーダ嫌いなん?」
サングラスを外したロランの瞳がこちらを向く。
「…嫌いじゃない。むしろ大好きだけど…」
「やっぱり。まだ子供やな。子供って、機嫌の悪いときにクリームソーダ与えると喜ぶやろ?」
マドカはぽかんと口を開けてロランの顔を見つめた。
「別に…、機嫌なんか悪くないよ」
「いや、機嫌が悪いと言うより、いつもの笑顔が見当たらん」
そんなことない――。
ただ、自分の無力さに少し落ち込んでるだけなのに――。
マドカの前にクリームソーダが運ばれる。グラスいっぱいに詰められたアイスキューブ。鮮やかなグリーンに着色されたソーダ水。綺麗な半球形をしたバニラアイスに赤いさくらんぼ。
マドカは思う。ロランは簡単に人の心を引きつけてしまうのと同時に、引きつけたその心を離さない。これは単純にマドカが彼に恋をしているからではない。おそらく、彼のこうした先天的な魅力にタツも魅了されたはずだろう。
選ばれた人間にしか与えられない美しさ――。とても必然的に、ロランはこの世界に生まれてきたのだとマドカは思う。
マドカは赤いさくらんぼを口に入れた。
「こうしてマドカと外で食べるのって初めてやな。たまには外で食べるのもええな。ファミレスやけど」
ロメインレタスを頬張りながらロランが微笑む。マドカはストローの口を左右に折り曲げながら、ロランの瞳を直視した。
「…どうしたん?」
ロランは口に運んだフォークを静かに下ろし、不思議そうに首を傾けた。
「ロラン…、ロランは…、私とこうしているところを誰かに見られても、平気なの?」
「平気って?」
「だって…ロランは今いっちばん注目を集めているバンドのボーカルで…、私とだってこうして仕事で会ってるわけじゃないし、ファンの子だっていっぱいいて…、ほら、バンドにとって今は大事な時期なんじゃないのかな…って思ったわけで…」
マドカはそう言って、手持ち無沙汰になった両手を膝の上で丁寧にそろえた。
「お前、いまさら何言ってるん?バンドはバンド、マドカはマドカ。それとも、マドカ、そんなに気にしてるん?」
マドカは首を振った。
「俺、マドカはそういうの気にしないと思ってたんやけど」
「ううん…実は今日ね、アサミさんに会ったの」
「アサミ?」
マドカは頷いた。
「あー、タッちゃんの」
「ちょっとアサミさんが羨ましくなったんだ。私の知らないロランを、たくさん知ってて…」
再び目を伏せて俯いたマドカに、ロランが小さなため息をつく。
「なぁマドカ、マドカは俺のこと結構知っとる。チーズバーガーはダブルが好きで、真昼間に絵描いて、弱ってるときに一人でいられなかったり…、マドカにしか見せたことのない俺の顔…いっぱいあるんやけどな」
ロランは眩しそうに目を細めてマドカを見た。
目を細めてそこにある対象を見るのが、ロランの癖だった。