第5章 或るボーカリストの軌跡(1)
「お電話かわりました、吉井です」
「マドカちゃん、元気?」
聞き覚えのあるハキハキとした声だった。でも、誰の声だったろう?
「あの、どちら様でしょうか…?」
声の主は受話器の向こうで咳払いをする。
「タツです」
「えっ、タツさん?」
「久しぶりだね、マドカちゃん。元気だった?」
「はい!元気ですよー」
二ヶ月ぶりに聞くその優しい声に、マドカは機嫌良くデスクの回転椅子でくるくると回った。
「マドカちゃん、今日は仕事、何時に終わる?」
「今日…ですか?」
デスクの上に乱雑した書類を見渡しながら、マドカは期日の迫った原稿を素早くチェックしてみる。
「えーっと…、今日は早く終われそうですね」
「じゃあ、夕方なら大丈夫?」
「はい!大丈夫だと思います」
「じゃあ、18時にどこかで会えないかな?」
受話器の向こうから、街の喧騒が聞こえる。
「実は…マドカちゃんに渡したいものがあるんだけど…、俺、打ち合わせで抜けれそうにないから、代理が届けに行っても大丈夫?」
「代理?」
マドカはデスクの上に置いてあったメモ用紙に、ボールペンで意味のない模様を書いていた。
「そう、代理。マドカちゃんのオフィスってどこ?」
「九段下です」
「じゃあ、駅前に18時で!」
「え、ちょっと…代理って…?タツさん!?」
そこでぷつりと電話が切れた。
マドカは受話器を置くと、首をかしげながら再びパソコンの画面に集中した。ふと卓上カレンダーに目をやる。ロランと互いの気持ちを通じ合わせて、三週間――。
毎日仕事が終わると、マドカは渡された合鍵でロランの部屋を訪れた。どんなに仕事が遅くなっても、マドカはオフィスから歩いて20分のロランのアパートに足を運んでいた。けれど、マドカが部屋を訪れるとロランはたいてい留守だった。冷蔵庫の中を物色して有り合わせの食事を作り、やりかけの仕事に手直しを入れながらマドカはロランの帰りを待った。
コンコンコン――。
ロランはいつも部屋のドアを三回ノックした。愛しい人の帰りに待ちくたびれたマドカは急いで鍵を開ける。そこには煙草をくわえたロランが立っている。そして、「ただいま」と言ってほろ苦い味のキスをくれる。
ロランがマドカの帰りを待つ時には、必ず手の込んだご馳走を作ってくれていた。マドカの大好きなぶりの照り焼きに肉じゃが、揚げだし豆腐にふろふき大根。ロランの料理の腕はなかなかだった。あの美しい風貌からは想像もつかないけれど、マドカはロランのそんな意外な一面にますます惹かれていった。
どんな時も会いたいと思えば、そこには必ずロランがいてくれる。この時間が永遠に続けばいいと願う。もっともっと、この身体で彼のすべてを感じたいと思う。マドカはもう、無力な女の子ではないような気がする。自分が、一人の男性を愛する一人前の女性であるように感じる。
目に見える確かな愛が欲しい。何度も「愛してる」と言って欲しい。できることなら、「愛してる」と大きな文字で紙に書いて証明して欲しいとさえ思う。けれどそんな馬鹿げたことなんてできないから、私たちは抱き合う。ひとつになりたいと思う。
ロランもこんな気持ちでいてくれてるのだろうか?
一人のアーティストとして生きるロランが、このままずっと私を愛し続けてくれるのだろうか――。
それでも、マドカはあの夜を忘れない。皮の手帳に挟めた黒いピック。
夢が現実になるお守り――。これがあればロランがいつでも傍にいてくれるような気がする。マドカの隣で、あの美しく深い瞳が息づいているのを感じることができる。
それは、たった一人の愛しい人――。
マドカは静かに目を閉じる。
*
マドカは約束の時間より少し前にオフィスを出た。夕暮れの街には初秋の風が吹き始めている。この時期は、一年で最も過ごしやすい季節だ。やがて訪れる秋の予感を抱きしめ、ちぎれた雲の散らばる空を見上げると、白い月が凛と浮かんでいた。コットンのカーディガンを羽織り、マドカは九段下駅へとその足を急いだ。
困ったなぁ…駅前って言われても、どこの出口か分からないんだけど…
九段下には三つの地下鉄が通っている。漠然と駅前と言われても何番出口か分からない。とりあえずいつも利用している、オフィスに近い7番出口の前でタツの代理という人物を待つことにする。
行き交う車のエンジン音に紛れて、途切れ途切れに聞こえる音楽。耳を澄ませると、近くのコンビニから流行りのアイドルが歌う新曲のサビ部分が聞こえている。
腕時計に目をやると、18時ちょうどだった。待ち合わせ場所が曖昧なうえ、相手の顔を知らないという焦燥感がマドカを襲う。通行人の群れをきょろきょろと見渡してみても、そこには見知らぬ顔ばかりが並ぶ。
「マドカちゃん?」
マドカは声のする方向に振り向いた。
「吉井マドカちゃんですか?」
*
「はい、これ」
彼女はマドカの前に二枚の短冊形をした紙切れを差し出た。
「タッちゃんが、あなたにって」
そう言って可愛らしい笑顔を向ける。
マドカはタツの代理という女性に7番出口で会い、近くのコーヒーショップに入った。夕暮れの店内は客足も少なく、二人は比較的落ち着いたフロアの奥のテーブルに座った。
マドカは紙切れを受け取ると、目の前に翳してじっくりと眺めた。それは、ラクテのクリスマスライブのチケットだった。まだ印刷前の段階らしく、タツが書いたと思われる文字に、手作り感たっぷりの手書きのイラストが微笑ましかった。
「まだちょっと早いけど、それがライブハウスで演奏する最後のライブなるかもしれないって」
「最後のライブ?」
「うん。もう、小さなところでやることはないんじゃないかって。来年から大きい会場を回るんだって。タッちゃんがね、ロランは自分からライブに来いなんて言えない奴だし、せっかくのクリスマスにマドカちゃんがロランと一緒に居られないとかわいそうだって」
彼女はテーブルの上のカップを両手で包み込むようにしてコーヒーを飲んだ。斜めに分けられた前髪と、肩までのボブにゆるいパーマをかけて感じの良い微笑を向ける彼女は、笑うと目尻に薄っすらとチャーミングな皺が寄り、丸い頬に小さなえくぼが現れる。
おそらくマドカより少し年上だろう。柔らかそうなピンク色のニットが、彼女の表情を明るく見せている。終始にこやかな表情を向ける彼女に、マドカも自然と笑みがこぼれた。
「私ね、アサミって言うの。マドカちゃんのことは、タッちゃんに少しだけ聞いてたから」
「タツさんに?」
「私ね、タッちゃんと付き合ってるんだ。タッちゃんが大阪にいる頃からずっと」
店内の薄暗い照明が、アサミの赤茶色の髪を照らしている。彼女がまばたきをするたび、長い睫毛が揺れていた。
「やっぱり、マドカちゃんは思った通りの女の子だった」
アサミの頬に見え隠れする小さなえくぼは、傍にいる人間に安心感を与える。きっと彼女の人柄を表しているのだろう。マドカは会って間もない彼女のことを、一目見ただけで好きになった。
「絵本から抜け出してきたみたいな女の子」
「絵本?」
「うん。ロランがタッちゃんにそう言ってたんだって。絵本から抜け出してきたみたいな女の子だ、って」
絵本から抜け出してきたみたいな女の子……
「それって…褒め言葉なんでしょうか…?」
彼女の口から発せられた予想外の言葉に苦笑いしながら、マドカは微笑むアサミに問いかけた。
「それはロランに直接聞いてみないとね。私は、素敵な褒め言葉だと思うけど」
アサミの口元からこぼれる厭味のない微笑み。その淑やかな大人の仕草に、マドカは見惚れてしまう。豊かな表情の彼女に比べ、マドカは自分の幼さを笑うしかない。
「アサミさんは、タツさんとは…」
「タッちゃんに出会って、もう六年になるかな。でも、どうして?」
「いえ、あの…」
マドカはカップの上に視線を落として口を噤んだ。照明が落とされた店内には、甘いボサノバソングが流れている。
言いかけた言葉を飲み込んだマドカの瞳を、アサミの丸い目がのぞき込んでいた。
「あの…もしよければ、アサミさんの知っている範囲でかまわないので、バンドのこと、詳しく教えてくれませんか?」
マドカの質問に、アサミは快諾の笑みを浮かべた。
「バンドについてというより、タッちゃんののろけ話になっちゃうかも」
アサミの素敵な笑顔。マドカは彼女の頬にさりげなく現れる小さなえくぼの存在を、羨ましいとさえ感じていた。長い睫毛を伏せる彼女は人形のように愛くるしかった。
アサミはコーヒーを一口飲むと、その瞳をマドカに向けて穏やかに語り始めた。