第4章 マドカの朝(3)
「ロラン…、もし…もしね、ロランに会いたくなったら…、私はどうすればいい?ロランに、会いたくて、会いたくて…、どうしようもない時は…どうすればいい?」
瞳からこぼれる涙が頬を伝い、足元に落ちる。
溢れる涙をこらえようとしても、それは無駄な抵抗だった。マドカの意思とは反対に、涙の粒はただ、細い感情の線を伝って瞳から次々と流れてくる。
静まり返ったアパートの部屋は、マドカのすすり泣く声と切ない想いで満たされるばかりだ。
「会いたかった…。毎日、会いたくて…何度もあの公園に行ったけど、会えなくて…、ここにも来たけど、会えなくて…」
無邪気にすすり泣くマドカの姿に、ロランは目を細めた。
吹きつける夜風がスカートの裾を揺らし、そのたびにマドカは胸の奥がズキズキと痛んだ。
「ロラン、教えて…ロランに会いたい時…どうすればいい?私は…どうしたらいい…?」
泣きじゃくる自分がどんな顔をしていたのか、どんな場違いな言葉を並べてしまったのか、そんなことを考える余裕はなかった。これが、精一杯の気持ちだった。
月の光に照らされて並ぶ二つの影。迷子になった幼い子供のように必死に泣きじゃくるマドカを、ロランは愛しそうに見下ろした。
ふたつの影が静かに重なる。
「バカやな」
ロランはマドカをそっと抱きしめた。腕の中で細い肩を上下に震わせてすすり泣くマドカをなだめるように頭を撫でると、ロランは穏やかに言った。
「マドカ…、お前はバカやな。なぁ、マドカ…」
あきれたようにそう言うと、腕の中で呼吸を整えるマドカの耳にロランは頬をぴたりと寄せた。
「お前もバカやけど、俺も相当バカや」
マドカは顔を上げて、月明かりを含んだロランの大きな瞳を見つめる。
「祈ったん?会えるように、マドカも祈ってたん?」
優しい夜風が肌をくすぐり、涙に濡れた頬を乾かしてゆく。近づけられたロランの瞳は美しく、まるで深い緑色の湖の底を気持ち良く泳いでいるような感覚に包まれた。
「不思議やな…マドカ。お前が傍にいるとな、俺もまだ知らない、別の自分がおることに気づくねん。子供の頃に見た夢の続きの中に放り出された感じがして…忘れてた、懐かしい何かをお前がそっと引き出してくれるんや。俺の言うてることの意味が分かる?」
「わから…ない」
ロランの柔らかな声と息づかいを感じながら、マドカはくすくすと笑った。
「まぁ、ええわ」
泣いて腫らした目が痛い。マドカはロランの小さな体に身を寄せた。夜風とロランの手の温もりが、マドカのおでこをふわりと撫でていく。
「でこ」
ロランは手のひらでマドカの前髪をひらりと上げてキスをした。形の良いロランの唇から、ほろ苦い煙草の香りがする。
マドカは前髪に触れている、ロランの手をそっと握り締めて指を絡めた。波のように浮き上がる血管の筋と骨張ったロランの指が、マドカの胸を熱くさせた。
「ロラン…、ロランの手」
「ん?」
「ロラン、こんなに華奢なのに…、男の人みたいな手してる」
血管の筋に指先で触れながら、マドカは可笑しそうにロランの顔を見上げた。
「お前なぁ…俺、男やないか」
大きな瞳とバランスの良い眉をひそめて困惑するロランの表情が可愛くて、マドカはぷっと噴出して笑う。
さっきまでずっと離れたところに感じられたロランの瞳が、今は手を伸ばせばすぐ届くところにある。耳元に響く鼓動のリズムがロランを彩るひとつひとつの美しい仕草に結びつくことを、マドカはこの時とてもリアルに感じることができた。
月光が差し込む部屋のドアを静かに閉めながら、ロランが口を開いた。
「キス…、フレンチがいい?それとも…」
ロランは指先でマドカの唇をなぞった。
「どっち?」
マドカの長い髪をゆっくりと撫で、再びロランが意地悪そうに質問する。
「…フレンチ。フレンチが…いい」
マドカは恥ずかしそうにそう答えると、虚ろな瞳でロランに視線を送った。
二人の唇が重なる。
唇で感じるロランの体温は柔らかくて、とても温かい。息を吐く瞬間に、ふっと香る煙草の苦い味。知らず知らずのうちに差し入れられるロランの舌を、マドカは少しも迷いもせず素直に受け入れる。
マドカはまぶたを閉じて、ロランの体温に身を預けた。マドカには、瞳を閉じていてもわかる。そこに、空に浮かぶ雲のように儚くてつかめないような美しさをただ純粋にまとった、ロランがいることを――。
「ロランの意地悪…」
「意地悪?」
ロランは肩眉を上げて首をかしげると、不満げに頬を膨らませたマドカを見下ろした。
「そう、意地悪…フレンチって、言ったじゃん…」
潤んだ瞳が可愛くて、ロランは両腕をマドカの腰に回してぎゅっと抱き寄せた。
マドカの鼻先にロランの喉仏があたる。ロランの首筋に、窓から微かに入る月の光の筋が伸びていた。
「フレンチは、こないだしたやろ?」
「こないだ?」
「ああ、そういやお前…酔っ払って覚えてなかったんだっけ」
ロランが話すと小さな喉仏が上下左右に連動する。マドカは首を傾けて、ロランの顔を見上げた。
大きな口を開け、綺麗な歯を見せて笑うロラン。
あの時と同じ…ロランの整った顔が、ほんの少しだけ崩れる瞬間――。
「ちょっと、ねぇロラン、あの日…何もしてないって言ってたよね?」
「ん?」
「私が公園で酔っ払ってた日。何もしてないって言ったじゃん!」
マドカの膨れた頬を、ロランの両手が包み込む。
「フレンチキスなんてなぁ、何もしてないのと一緒やん」
ただ、静かに彼の鼓動の音を聞けば、そこにひとつだけ…確かな答えを見つけることができる。きっとこの恋は、私のすべてを捧げてしまっても、後悔などしない。
果てしなく続く空の向こうに、真っ白な「未来」というキャンバスが見える。ずっと探していた、大切な…大切なものを、
ロランが気づかせてくれたんだって、そう思ったから――。
*
濡れた髪についた滴をタオルで乾かしながら、ロランがガラス戸を開けて部屋に入ってくる。テーブルの上に置かれたセブンスターに手を伸ばしてジッポで火をつける。白い煙が低い天井の四隅にまで広がっていく。
ただそこには美しいロランがいる。マドカが生まれて初めてその身体に触れた相手――。マドカはどこの誰でもなく、ただ目の前にいる愛しい彼のことを想う。
複雑な気持ちを閉じ込めた抜け殻が、煙草の煙に混じって天井に消えてゆく。ロランの指の中で煙草の灰だけが、その姿を歪めている。
「マドカもシャワー浴びれば?」
眼鏡をかけたロランの顔が、ベッドに横たわるマドカの視界に飛び込んでくる。首まで引っ張り上げたタオルケットに体を包んだまま、マドカは窓に揺れるカーテンをぼんやりと見つめていた。
薄い壁を通して隣の部屋のテレビの音が聞こえる。七時のニュース番組の始まる音楽だ。
「まだ、痛いん?」
髪についた水気をぱたぱたと払いながら、ロランは床に座ると空き缶に煙草の灰を落とした。
「それ、当分痛いで。まぁ、だいたい女の子は慣れるまで…五回目くらいまで痛いんとちゃうん?」
窓から差し込む白い光が、テーブルの上にくっきりと台形の模様を描いている。光の筋の直線上にロランの細い腕がある。二の腕に小さくついた筋肉の動きをマドカは見つめ、その腕に抱きしめられたときの感触を思い出していた。
「ねぇロラン、ロランは今まで何人の人とセックスしたの?」
マドカの不意をついた質問に、タオルを動かすロランの手が止まった。
「いちいち数えてないから、そんなの分からへん」
ロランの言葉に不満げな表情を浮かべたマドカは、タオルケットの中でしなやかな体をそっと震わせた。
「じゃあ、付き合った女の人は?」
マドカの瞳が好奇心に駆られた幼い子供のようにくりくりと動く。そんなマドカの表情を見てロランがふっと微笑む。
「付き合った数がセックスした人数とは限らんやろ?」
ロランは意地悪そうに勝ち誇った顔をして、マドカを横目で見下ろした。不服そうに口を尖らせながらもマドカはその回答に納得する。
青く澄んだ晩夏の空が、窓の隙間から二人を見下ろしている。ロランが短くなった煙草を缶の中に落とすと、カランという歯切れのいい音が聞こえた。
「まぁ、俺の場合…付き合ったっていうより、メシ食わせてもらってたって感じやけど」
ロランは光の中で眩しそうに目を細め、ベッドの上で丸くなったマドカの体を見つめた。
「それって、ヒモってこと…?」
「そうやな。金なんて持ってなかったからな。彼女が仕事に出ている昼間に俺が家事やって、夜になったらバンドの練習に行って。人妻からキャバ嬢まで…あぁ、幼稚園の先生もおったわ」
「ずっと…?ずっとそうだったの?」
「確か、俺が14の時からやったから…」
「じゅっ、14歳?」
「そんなに驚かんでも…」
「だって…私…、初めて母親と喧嘩して唯一家出っぽいことしたのが17歳の時だったし…」
ロランは唇に挟んでいたまだ火のつかない煙草を箱の上に戻し、マドカの傍に歩み寄った。眼鏡のレンズ越しに、ガラス玉みたいなロランの瞳が覗く。
「マドカ…俺のこと嫌いになる?」
マドカの頬を指先でくすぐりながらロランが顔を近づける。まだ湿り気を帯びたロランの長い前髪がマドカの頬に落ちた。石鹸の香りがする。
「マドカを色に例えたら…白やな」
「白…?」
「そう。純白の白。まだなーんの色にも染められてへん白」
通りを行き交う人々の話し声が外からぼんやりと聞こえてくる。街が、人が、その息をゆっくりとふき返している何も変わらない朝。ただひとつだけ変わったのは、マドカの瞳に映る景色だった。昨日よりもずっとずっと近いところにロランの姿を捉えることができる。
その美しさも、彼の匂いも、柔らかな息遣いも、ロランを彩るものがマドカの瞳には鮮明に映し出されている。傍にいるロランの温度が、マドカの想いを膨張させたり収縮させたりする。
「ロラン…、私、もっとあなたのことが知りたい。どんなロランでも私はかまわない。ロランのすべてをもっと近くに感じたいの。私はただ、ロランの瞳に映る景色と同じ風景が見たいから」
手のひらに握り締めた部屋の鍵。太陽の光に翳し、その銀色の輝きを何度もこの目で確かめては、感情の高鳴りを痛いくらいに感じる。歩道に伸びた影を眺めると、その小さな影たちにも伝えきれない愛しい気持ちが交じり合っていた。
「これで祈らなくても会えるやろ」
そう言って渡されたロランの部屋の鍵。明けない夜はないと言うけれど、マドカはこの淡い色彩に囲まれた世界が、ただいつまでも続くことを願った。
暗くて寒い闇が訪れないように。
その小さな星が消えてしまわないように――。
マドカの新しい朝が始まる。