第4章 マドカの朝(2)
ライブハウスの前は女の子たちの黄色い声も熱い活気もなく、ただしんと静まり返っていた。楽屋口のある裏通りに回ってみても、出待ちのファンの姿はない。「関係者専用」と書かれた通用口の黒い扉だけが、蛍光灯の青白い光を受けて異彩な空気を放っている。
マドカは再び表に向かい、ステージのある地下へと続く階段を見下ろした。何の音も聞こえない。ただ、そこには深い絶望にも似た虚しさが漂っているだけだ。
不意に、誰かが地下の階段を上る足音が聞こえて来た。次第に近づく気配にマドカは身構えると、息を殺して下階をじっと見つめた。
足音の主の顔が見える。
ハードな装飾品をつけたパンク風の身形をした、30歳前後の男性だった。
「あの…」
マドカがおそるおそる声をかけると、男性は足を止めて鋭い視線をこちらに向けた。
「あの、ライブ…終わったんですか?」
眉間に皺を寄せて怪訝な顔をした彼に、マドカの体は萎縮してしまう。
「あの…今日は、ラ・ヴォワ・ラクテのライブが…あったんですよね?」
マドカは智樹の手から勢いよく奪い取ってきたチラシを広げ、男の前に差し出してみせた。
男性は煙草に火をつけた。薄暗い路地に、ライターの炎が揺らめく影が伸びていく。
「それ、中止になったんだよ」
「中止?」
「そ、中止」
白い煙を見つめながら、男は繰り返した。
「どうして…中止になったんですか?」
マドカは訳の分からぬ顔で男の唇に挟まれた煙草をじっと見つめていた。宙に浮かんだ煙が視界をかすめていく。
「君、知らなかった?喧嘩だよ、ケンカ」
「ケンカ…?」
マドカは表情を曇らせた。
「三日前のライブの時だったかなー。ほら、そこの関係者通路のとこあるだろ」
男が裏口を指差した。
「そこで、ファンの子たちが派手にケンカしたわけ。何が気に入らなかったのかよくわかんないけど、女の子が取っ組み合いのケンカになって警察まで来てさ。メンバーに直接的な責任はないだろうけど、またそういうことになると色々と面倒だろ?デビューしたばかりだし。まぁ、そういうことだから、しばらくライブはやめるんだと」
男はそう言ってアスファルトの上で煙草の火を消した。闇に浮かび上がる赤い光が、マドカと男のあいだに歪んだ円を描いている。
マドカの心の中に埋もれていた感情が、一つずつ音を立てて崩れ落ちていった。
「まぁ、君にこう言うのもなんだけどさ…あいつらは、もうこんな小さなとこでやっていかなくても充分すぎるくらいのバンドだよ」
男の手に握られたライターにマドカは焦点を合わせる。
「君は?君も、ロランのファン?」
「えっ…」
戸惑う表情のマドカを見ると、男は小さく笑った。
「ロラン…か。俺が思うに、ボーカリストとしてのあいつの実力も全部含めて、あのバンドは売れる。絶対に売れる。あと二年もすれば、あいつらは日本のロック界の頂点に立つ。俺には、それが分かるんだ」
あと二年もすれば、あいつらは日本のロック界の頂点に立つ――。
マドカは電車に揺られ、男の言葉を思い出していた。ほんの数週間前に隣にいたロランの存在が、遠い世界へと離れていってしまう。
さらさらと夜風に揺れる綺麗な髪も、その細い指に挟まれた煙草から立ち昇る煙も、二重の大きな美しく深い瞳も、ロランを形作るすべてのものが遥か彼方に消えてしまった過去の出来事のようだった。
それらはすべて、通過点にすぎなかったのかもしれない。
私にとっても…、ロランにとっても…
鉄骨の階段を上る。
寂れたアパートの二階。この階段を上るのも今日が最後だ。
今日、ロランに会えなかったら、もうここに来るのはやめよう。ロランに出会えたことはすべて、ただの偶然だったと思えばいい。
私は…気持ちの良い夢を見ていただけなんだ――。
玄関脇の曇ガラスに部屋の明かりがないことを確かめると、マドカはドアの前にしゃがみ込んだ。
タイムリミットは午前0時。
0時までにロランが現れなかったら…
マドカはただ、ロランに会えること祈りながら、彼の帰りを待ち続けることしかできない。
きっと、ロランは現れる。
いつだって逢いたいと願えば、そこにはロランがいてくれた。
あの雨の日も、星の見えない夜も、ロランは私をみつけてくれた。
祈れば…、きっと会える。
私はそう信じてる――。
*
「…マド…カ……」
誰かが私を呼んでいる。
「マドカ……」
この優しくて柔らかい声は…、ロラン?
ロラン…、私を迎えにきてくれたの?
嬉しい…私も…、ロランに逢いたかったんだ――。
「マドカ!」
目を覚ますと、そこにはロランが立っていた。生ぬるい夏の湿った空気がマドカの肌にまとわりつく。
「ホンマに、お前はどこでも寝れる奴やな」
どうやらマドカは部屋の前で座り込んだまま寝てしまったらしい。
「また酔っ払ってるん?」
ロランは茶化したようにそう言ってポンポンとマドカの頭を叩くと、部屋の鍵を開けた。
「ロラン…、ロラン、私…」
マドカは急いで立ち上がる。
いつものように、ロランの唇にはセブンスターが形良く収まっている。マドカの大好きな煙草の香りが辺りに漂う。形の良い唇からほんの少しだけのぞいた綺麗な歯並びが眩しい。
「あがれば?」
玄関のドアを開けると、閉め切っていた部屋の暑い空気がむっと外に流れてくる。ロランはそそくさと部屋の中へ消えてしまった。扇風機の電源を入れるカチッという音が聞こえてくる。
「なぁ、この扇風機なんやけどな、この扇風機、これお前のやろ?なぁ、これ、涼しくなるまで貸してくれへん?」
マドカは暗い部屋の中にいるロランの声を聞いていた。ロランが窓を開けるガラガラという音。ただ、そんな物音を聞くだけで胸が熱くなる。
ロランが近くにいるだけで、こんなに切ない気持ちになる。
こんなに誰かを愛しいと思ったのは、はじめてだ――。
「なぁ、どうしたん?俺の話聞いとる?」
マドカは玄関に立ち尽くしていた。開いたドアの後ろから差し込む街灯の明かりがキッチンの床を白く包んでいる。
ロランは冷蔵庫からエビアンのボトルを取り出すと、マドカの影に近づいた。
「マドカ…?」
ロランの大きな瞳は今日も完全にマドカの心を見透かしているみたいだった。
「ひゃっ!冷たい…」
不意にひやりとしたボトルを頬にあてられ、マドカは思わず右頬を手のひらで押さえた。
ロランが白い歯を見せていたずらに笑う。
「元気やった?ここ最近、会えんかったな」
ロランの優しい微笑みをマドカはじっと見つめた。キッチンの床に映る二人の影が左右に揺れている。
「もしかして、会いたかったん?」
ロランは首を傾げてうつむいたマドカの瞳を下からのぞいた。
マドカの目に涙が溢れる。月の光がシンクを照らし、キラキラと反射させている。
どこからともなく聞こえる時計の針の音。時間はゆっくりとその針を進めているようだ。
「ロラン…」
マドカは細い声でロランの名前を呼んだ。