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空に架かる橋  作者: 楓花
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第1章 雨の交差点(1)

「でさ、なんかそういうのって運命の出会いって感じがしない?」


 街の喧騒に包まれたオープンカフェのテーブルで、マドカは向かい側に座る智樹の顔を覗いた。明らかに呆れ顔の彼は、アイスティーのグラスから伸びるストローに口をつけ、適当に上手い言葉を探しているようだった。


「お前さ、まだそんな少女漫画みたいなこと考えてるわけ?」

「え?」

「だから、偶然会っただけの男が運命なわけないだろ、ってこと」


 智樹の口から出た言葉は、面白いほどマドカの予想通りだった。

 確かに智樹の言うことは正しい。交差点のど真ん中で転倒した女の子に手を貸す男なんてごまんといるに違いない。 たったその瞬間、たまたま居合わせただけのことなのに、それを運命の出会いと勘違いしてしまうなんて、やはり少女漫画か恋愛ドラマの見過ぎだとからかわれても仕方ない。 思えば、そんな出会いが運命の恋に発展するというラブストーリーをどこかで見た覚えがある。



   *




 3日前、マドカはいつものようにライターに依頼していた原稿を引き取り、九段下にあるオフィスへと急いでいた。 梅雨を迎えた東京の空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうな顔をしていて、案の定、駅に着いたときには、空から大粒の雫がバケツをひっくり返したシャワーのように降り注いできた。


 やばい!原稿が濡れちゃう!


 みるみるうちにアスファルトが黒色に染まり、通りを行き交う人々は足早に駆けて行く。右手に抱える原稿の入った茶封筒を気にかけながら、マドカは小走りに交差点へ向かった。


 赤信号にイライラしながらも立ち止まり、信号が青に変わると、歩き出す人の群れから急いで駆け出す。アスファルトに踊る雨粒が跳ね返り、買ったばかりのパンプスの爪先に雨水が浸透する。足先が生温かく湿り、皮の靴底はつるつると滑った。


 交差点を渡ればオフィスはもう目の前だ。


 だが不運に足元を掴まれたのはその時だった。勢いよく駆け出したせいでバランスを崩し、パンプスのかかとが見事に折れ、マドカは交差点のど真ん中で派手に転んでしまったのだ。


「痛ったぁ…」


 転んだ拍子に膝を擦り剥き、マドカはひどい格好で交差点の真ん中に放り出された。運悪く、抱えていた原稿は茶封筒の外に飛び出し、歩行者の波に埋もれてさんざんな姿になってしまっている。


 マドカは今にも泣き出しそうな気分だった。雨に降られ、3回払いで買ったお気に入りのインポートブランドの靴は壊れてしまい、おまけに原稿は四方八方に飛び散らかっている。行き交う人々は誰もマドカの姿を気にも止めず、交差点の向こう側へ消えていく。


 やれやれ、マドカはそう思うと静かに立ち上がり、信号が変わるのを気にしながら一枚一枚原稿を拾い集めた。大粒の雨は無情にも、散乱した原稿をことごとく濡らし、マドカの頭上に容赦なく降り注いでいる。


「大丈夫?」


 マドカの視界に皮の磨り減った男物のブーツが飛び込んでくる。少し高めの柔らかな声にふと顔を上げると、一人の男性がマドカの顔を覗き込んでいた。


 美しく整った顔立ちに、吸い込まれそうな大きな瞳。

 白い頬にかかる髪が小さな雫を落としながら風に揺れ、マドカは一瞬言葉を失った。


 なんて綺麗な男の人なんだろう…




「早くしないと信号変わっちゃうよ」


 彼はそう言いながら、アスファルトに散らばる原稿を一枚一枚拾い集めた。傘を持たない人は皆、顔をしかめて急ぎ足で駆けて行くのに、彼は雨を楽しんでいるように見えた。

 彼は雨がよく似合っていた。多くの雨粒と一緒に、地上に降りてきたと言っても過言ではなかった。

 言葉では言い表せない神秘的な空気が彼の周囲には漂っていた。その横顔に見惚れ、マドカは茫然としてしまう。


「ほら、信号変わっちゃう!」


 原稿は拾い終わったものの、片足はかかとの折れた靴を履き、膝を派手に擦り剥いてしまったマドカは立ち上がることさえ困難だった。

 今思えば、あの時立ち上がることができなかったのは、突然目の前に現れた完璧な美しさを持つ彼のせいだったのかもしれない。


「ケガしてるの?」


 足元に転がったパンプスを拾い上げると、彼はとっさにマドカの肩をとり、信号待ちのドライバーに向かってすまなそうに会釈をしながら横断歩道を渡り切った。


「ありがとうございました」

 交差点を渡ると、マドカは礼を言った。

 彼は顔をしかめながらも心配そうな表情で擦りむいた膝を指差した。


「足、大丈夫?」

「平気です、このくらい…」

「そんな不安定な靴履くからだよ。そんなおしゃれ用の靴で全速力で走ってたら危ないよ」


 まさか勢いよく走り出したところを見られたのかと思うと、マドカは苦笑いを浮かべるしかなかった。


「本当にありがとうございました」


 マドカは再び頭を下げ、ヒールのないパンプスに片方の足を入れると、茶封筒をきつく抱き寄せて彼に背を向けた。


 「さよなら」と言って静かに微笑み、綺麗な歯並びをのぞかせた美しい彼は、そのまま雑踏の中に消えた。




 あの寂しそうな深い瞳をした彼は、どこへ行ったのだろう。ほんの数秒の出来事だった。交わした言葉も平凡以下のものだった。けれど、あの人の瞳は特別な言葉を語りかけていた。

 「さよなら」と言った彼の口元は、大切な何かを伝えたがっているような気がした。それはどこかに仕舞いこんだ淡い記憶をふっと思い出した時のような表情に似ていた。ただの自惚れかもしれないけれど、少なくともマドカにはそう思えたのだ。

 けれど、おそらく二度と会えないだろう。マドカにだってそのくらいの分別はつく。

 智樹の言うとおり、運命の出会いなんてないのだ。




   *




「智樹には分かんないのよ」

「何が?」

「智樹みたいに色んな女の子をとっかえひっかえしてるような男には、私の気持ちなんて一生分かんないでしょ?」


 マドカは俯き、ティーカップの底に溶け残った砂糖をじっと見つめた。智樹は肩を落として溜め息をつくと、通りを歩く人の群れに視線を注いだ。




 智樹は中学時代からの友人で、同じ高校に進学し、クラスもずっと一緒という、いわゆる切っても切れない腐れ縁というやつだった。

 180センチの長身のバランスのとれた体格に、スポーツが得意で頭もキレる爽やかな印象の彼は、多くの後輩から「智樹先輩」と呼ばれる女の子たちの憧れの的だった。 なのに致命的なほど女癖が悪くて不真面目で、今まで泣かせた女の子の数は片手どころか両手でも足りないだろう。

 智樹は大学、マドカは短大進学のために上京し、休日はどちらが誘うわけでもなく一緒に街に出て一日をつぶした。 今日も短大を卒業して一足先に社会人になったマドカを就職活動のアドバイザーという口実で誘い出した智樹は、 いつものようにカフェの椅子に座って、忙しなく変化し続ける街並みをぼんやりと眺めている。


「智樹はさ、好きな女の子なんていないわけ?」


 不意をついたマドカの質問に、智樹は正面に向き直ると眉間に皺を寄せた。


「はぁ?お前、今さら何言ってんの?俺が女と真面目に付き合う気なんてこれっぽちもないって知ってるくせに」

「そ、そうだけどさ…これも今さら聞くようで悪いんだけど、なんで?智樹だったら言い寄ってくる女の子だっていっぱいいるし、智樹にぴったりの子、いると思うよ?」


 智樹は面倒臭そうに首を傾げ、肩をすくめた。


「さぁね。てゆうかお前に心配してもらう理由がわかんねえよ。むしろ、俺はお前のほうが心配だけど?」

「心配?」

 智樹の言う「心配」の意味が分からず、マドカは睫毛をぱちぱちさせた。

「少女漫画みたいな恋なんて、やってくるわけないんだって」

「どういうこと?」

「いや、俺はただお前に忠告してやってるわけ」

「何を?」

 まるで聞き分けのない子供みたいにクエスチョンマークを送り続けるマドカに、智樹は諦めたように目を伏せると椅子の背に深くもたれかかった。


「ほら、あのさ、お前さぁわかんないの?」

「だから、何なのよ?」

「だから、な、21で処女はマズイんじゃないの?っていう話だよ」

「なっ、何言ってんの!?こんなとこで、そんな話…」

 頬を赤らめて俯いたマドカを見て、智樹はふっと微笑んだ。


「お前ってホントわかんないよなー、顔もスタイルもブスじゃないし、むしろ可愛いくらいだけど。俺はお前が男に何を求めてんのかさっぱりわかんねーな、男に何を期待してんだよ?お前は自分を大切にしすぎなの」

「そんなこと…ないもん」

「そうか?お前さ、高校ん時の彼氏いたじゃん?あの時はお前が相手のこと無視して自然消滅っていう話だったけど、あれって、お前がエッチするの断ったからだろ?お前、もしかして男嫌いなの?それとも、本気で運命の相手とか探してるわけじゃないよな?」


 本気で探してるわけではなかった。けれどマドカはずっとこう思っていた。いつか出逢う誰かのために、ひそやかにそっとこの胸をあたためていたい。笑われてもいい、惨めでもいいから、たったひとりの人を愛せたらどんなに幸せだろう、と。


「まぁ、俺がしてやってもいいんだけどね」

「何を?」

「お前の初めての相手」

「ばっ…ばっかじゃないの!?」

いつものように冗談を言って笑う智樹に呆れながらも、マドカは静かに微笑んだ。

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