プロローグ
始まりはいつだって唐突で。
紅峰遥子は嫌っていた。
騒がしい子供を、喧しい大人を、鬱陶しいクラスメイトを、“人間”という醜悪な生き物を、心の底から酷く嫌っていた。
ぽたり、ぽたりと傷みを知らない黒髪から雫が滴る。
頭の天辺から爪先まで、可愛らしい制服を汚く染めた泥水。一瞬にして出来上がった水溜まりの中、映る遥子は静かに立ち尽くす。
派手なグループの女生徒たち数人の馬鹿にした笑い声が、遥子の耳を通り過ぎていった。
(よくもまあ、これだけ集めたものだ……)
昨晩降った雨。目の前で腹を抱えて笑う彼女たちは、それが作った水溜まりからバケツいっぱいに泥水を集め、遥子にぶちまけたのだ。
その無駄な行動力に、逆に感心して呆ける。そんな姿を絶望したと捉えたのか、派手グループは笑いながら走り去った。
小学生の頃から繰り返されるいじめ。遥子は既に抵抗を諦め、幼稚な事に費やせる時間があるとは羨ましいなどと考えるようになっている。
伸ばした長い前髪の下、大きな黒縁眼鏡の奥の黒い瞳は冷ややかな色を宿している。
溜め息を零し、瞑目した遥子は空想する。彼女たちを苦しめて苦しめて、苦しめぬいて殺す事を。一体、何度こうしてクラスメイトたちを殺害しただろう。
読書好きの遥子は、詰めに詰め込んだ様々な知識を駆使して、仮想の犯罪者になる。絶対に逮捕されない、極悪の大罪人。
「おはよう、遥子ちゃ……どうしたの!?」
知らず知らずの内に歩んでいた登校路、遥子は空想を断ち切って振り返る。
血相を変えて駆けて来たのは、中学校からの付き合いの黒瀬麗依。茶髪を緩く巻き、薄く化粧を施している派手めな彼女は、その実遥子の一番の親友である。
「おはよう、麗依ちゃん。気にしなくていい、さっき水溜まりで転んだだけだ」
心を閉ざすかのように、幼少の頃から口調はぶっきら棒だ。
敢えていじめだとは言わない。心配をかけたくないから、などといういじらしい理由からではなく、単に面倒なだけなのだ。
麗依は必要以上に騒ぐので、そこは鬱陶しいと思う遥子である。
麗依は訝む表情のあとに苦笑を浮かべた。
「また考え事しながら歩いてたんでしょ? やめなよ、その癖。あんたってば、いっつもそれで怪我とかするんだし」
「ああ、そうだな」
「ちょっと、受け流さないでよ」
見えているのか見えていないのか分からない遥子の目元を見て、麗依は盛大に溜め息を吐いた。
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ガラリ。遥子が教室の引き戸を開けると、騒がしかった室内が一瞬にして静まり返った。
遥子がずぶ濡れである事を認識すると、小さなクスクスという笑いがあちこちから上がる。それを睨みひとつで止ませる麗依。
「牽制するだけ無駄だ。気にしなければいい」
「遥子! そんな構えだから、あんたはいつまでもいじめの対象なんだよ!?」
「どうでもいい。そんな事より、昨日の英語の宿題で不安な箇所があってな。教えてくれ」
「〜〜〜もうっ!」
遥子の事勿れ主義とも捉えられる思考回路に、麗依の声にならないイライラが募る。が、最終的には放り出してしまう。二人の間でよくある光景だ。
もそもそと体育着に着替えたあと、不愉快そうな視線を華麗にスルーして勉強に取り組む。遥子の神経は図太い。
「おはよう、遥子。どうしたんだ? そんな格好して……今日って体育の授業あったか?」
「よーっす」
五分もしない内に、キラキライケメンな界外皇と、ボディービルダーかと見紛う体格の遠藤真太が教室に入って来た。仲良し四人組が揃う。
遥子の幼馴染みの皇は、体育着を横に引き伸ばす胸元に若干赤くなりながら、疑問を口にした。
一方の真太は、欠伸混じりで怠そうである。
「おはよう、二人とも。登校中に水溜まりで転んでな」
「またドジったのか? 怪我は?」
「無い。汚れただけだ」
「そうか、良かった」
あからさまにほっとした皇。何故かクラスの女子から鋭い視線が遥子に飛ぶ。
遥子はそれを受けて、面倒臭そうに一度まばたきするだけ。
普段から猫背で陰気な雰囲気の遥子と爽やかスマイル王子様の皇、仲が良い幼馴染みという二人の関係性が許せない女子。昔からなくならないいじめの原因は、ここにあった。
(私を攻撃する暇があるなら、自分を磨いてこいつを貰ってくれたらいいのに)
自分が関わる事がいじめを助長させるという事実に気付いているのかいないのか、皇はぐいぐいくる。
その行動原理である感情に気付けない遥子ではないが、非常に面倒極まりないので完全スルーの方向性でいる。
そこで三度、教室の扉が開く。
「いつまで騒いでいるの! さっさと自分の席に座りなさい!」
後ろできつく一束にまとめられた黒髪に、理知的に見える細いフレームの眼鏡。厳しい印象を受ける表情のその女性は、担任の関口薫だ。
実際に厳しい人だが、根底の生徒への思い遣りが度々滲み出るので、厳しさは愛の鞭と呼ばれて喜ばれている(生徒たちがMなわけではない)。
薫に続いて入って来たのは、草食動物を彷彿とさせる気弱そうな男性。教育実習生の立花修弥。
自分の足に引っ掛かかって躓いているのを横目に、薫は遥子の格好を尋ねる。説明が面倒臭くなってきた遥子の雰囲気を察し、麗依が口を開いた。
(可哀相な麗依ちゃん……私と友達やめればいいのに)
こうして一日は始まり、日中ちくちくと幼稚ないじめをスルーしながら、遥子の日常は過ぎていく。
窓際の席の遥子、ふと空を見上げた。
風を入れる為に開け放たれた大きな窓枠に嵌まった快晴、雲一つない青を遥子は見入る。
「……例えば命を奪っても、罰せられない世界に行けたらいいのにな」
口の中で溶けた呟き。誰かに拾われる事など無く、遥子は静かに目を伏せた。
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「ほんっとうざい!」
「死ねよ!」
「皇くんに近付くな!」
昼休み、屋上の扉前の踊り場。そこに響くのは、女子特有の甲高い喚き声と重たいものを叩く音、そしてくぐもった呻き声。
遥子と、彼女の服に隠れて見えない箇所を巧妙且つ本気で蹴り上げるクラスメイトたちがいた。
遥子は言い返す事もやり返す事もしない。嫌いな人間の為に口を開くのが億劫な上に、反撃すればこちらも悪くなってしまうからだ。
ひたすら時間が過ぎ去るのを待つ遥子は、ぼうっと空想に浸る。最早癖だ。
(生きたまま全身の皮を剥ぐ……手足の指を時間をかけて丁寧に折る……ゴキブリを大量に投入した浴槽に沈める……爪を剥いで尖った方を元の場所に突き刺す……)
蹴られる一方で、残虐な拷問を繰り返す。
暫くすると気が済んだのか、女子たちはたわいない世間話に花を咲かせながら立ち去った。
か細い呼吸で痛みに堪える遥子は、心底願う。
「私に力があれば……私を護ってくれる誰かがいれば……法なんて無ければ……ぅぐ、あぁっ」
激痛に声を漏らして、それでも無視して立ち上がる遥子の胸中を満たす感情。一言で表すなら、“神様なんかいないんだ”だろうか。
ゆっくりとした足取りで教室へ戻った時、既に五限目は始まってしまっていた。担当教師にトイレに行っていたとごまかし、残り少ない一日を過ごす。
心配そうな表情の皇を無視したり、追究する麗依をスルーしたり、深入りせずに苦笑いするだけの真太に軽く感謝している内に放課後になった。
そして日常は崩れ始める。
「きゃはは! マジウケるー……あれ?」
「どうしたの?」
「んー……なんか、開かないんだけど」
「は? どういう事?」
「え、ちょ、何これ!?」
いつも一番に教室を出て行く西上美貴と中村里香が、最初に異変に気付いた。
何故か、教室と廊下を隔てる扉が開かないのだ。
ガタガタと激しい音を立てて動かない扉。スライドしても、押しても、引いても、叩いても、蹴っても、椅子をぶつけてもダメ。
クラス中に言い知れぬ不安と恐怖が広がり、直後にそれらを助長させる不思議な現象が起こる。
「きゃあああ!」
「何だよ、これ!」
「助けてー!」
「うわあああ!」
足下、教室の床全体に広がる光り輝く複雑な図形。漫画やアニメで見る魔方陣というやつが、全員の目を潰すつもりかと思うほど輝きを増した。
そして、ふつりと途絶える。
あとに残ったのは静謐な教室と、寂しそうにそこに在るだけの机や椅子、各個人の鞄。
その日の内に、大規模神隠し事件として大々的にニュース報道されるのだが、消え去った三十六名が知る由も無い。
驚きの行き当たりばったり感。