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第三章 其は、籠の中の小鳥

 今のセリアに主人はいない。

 自由なのだ。

 はじめて手にした自由。

 心が高鳴った。真上にかざした真っ白な自分の手を見つめ、ぎゅっと握りしめた。

 セリアは青年から与えられた部屋を見回した。ドーナンの屋敷で自室として使っていた部屋の倍もありそうなくらい広い部屋には、立派な調度品が品よく並んでいた。若い娘が好みそうな華やかな色合いの調度品は、目の肥えたセリアでさえ目をみはるものばかりだった。

 ドーナンがここにいたら、きっとセリア以上に目を輝かせたことだろう。複雑な模様が描かれた壁から細部に至るまで、すべてが芸術品のようであった。

 ふっと視線を窓へと移したセリアは、ほんの少し眩しげに目を細めた。

 陽光が注がれているせいか、まるで天なる地か常世の地のようでもあった。実際に常世の地に降り立ったことはないが、『朝』があり、『夜』がある常世の地で暮らすことは憧れであった。一年中明るく、穏やかで美しい天なる地や暗く寂れた腐敗の地よりも、変化があるという常世の地が一番好きだった。

 名前も知らぬ青年が忘れられた(ドゥワール)と言っていたが、忘れられた地というのはどこなのだろう。

 綿にくるまれているような心地がする寝台の上で、横になっていたセリアは、ぼんやりと考えた。

 もうずっとここから動いていない。まるで病んだ人のように臥せってからどれくらいの時間が経っただろう。


「我が君」


 軽く扉が叩かれたあと、ゆっくりと部屋に入ってきたのは、セリアを主人と仰ぐ青年であった。その手には、銀の盆がのっていた。


「食事をお持ちいたしました」

「……いら、ない」


 そう口にするのは酷く勇気がいった。食べ物を粗末にするなと殴られないか不安になったのだ。それでも食欲がなかった。


「けれど、昼食も召し上がらなかった。もしや忘れられた地の食物がお気に召しませんか? 我が君がいらした世界の物とは多少味も見かけも違いますが……」


 青年が寝台の横にある小さな円卓の上に盆を置いた。銀の繊細な文様が入った器からは、湯気がのぼっていた。

 すんっと鼻をくすぐる肉汁が滴ったようなおいしそうな匂い。

 何かの肉を煮込んだのだろう。赤や白い肉片が、野菜らしき塊とともに透明なスープの中に沈んでいた。  

 その横には、真っ白なパンがある。

 柔らかそうなそれは、ドーナンの屋敷でもお目にかかったことがない。

 パンといえば、こんがり焼けた固めの麦パンだったからだ。それを薄く切って、火であぶったチーズや燻製にしたハムなどを乗せて食べるのがドーナン流だった。

 ドーナンは、等しく肥えた天なる地の中でも特に裕福な部類に入るらしく、広く立派な蒼壁の屋敷には、客人も珍しがるものがいっぱいあった。

 回廊に並ぶ骨董品や絵画を掃除するときなど、使用人の手はいつも緊張に震えていたのをセリアは知っていた。屋敷に置かれた調度品に少しでも傷がついたのなら、ドーナンは容赦なく使用人の首をはねただろう。

 普段は穏和なドーナンだったが、お気に入りのモノを傷つけられたら癇癪を起こすのが常だった。もちろん、その被害がセリアにまで及ぶことはなかったが。


(ああ、そっか……わたしも物だったんだ……)


 さぞやお気に入りの人形だったに違いない。

 珍しい物が好きなドーナンだからこそ、変わった毛色のセリアを可愛がってくれたのだ。

 セリアがもし漆黒の髪に黒い双眸をしていたのなら、ドーナンは決して目を掛けてはくれなかったはずだ。


「どうなさいました? まだ気分が優れませんか? ……ああ、血が」


 知らず唇をきつく噛んでいたのだろう。強く噛みすぎてか、薄い皮が切れてしまっていた。

 青年は少し眉を寄せた。

 それを目に入れたセリアは恐怖に顔を強ばらせ、近づいてくる手から逃れるように身を反らした。


「……っ」


 彼もそうなのだろうか。

 ドーナンと同じように怒るのだろうか。

 セリアの体なのに、傷一つつくることは許されない、そんな窮屈な世界に戻ってしまったのだろうか。


「我が君、」

「ちがぅ……」


 セリアは頑強に首を振った。


「わたし、ちがう……っ。セリアよ、セリアなの……」


 見開かれた双眸からぽろぽろと透明な雫が零れ落ちていく。


「だれも『わたし』を見てくれないの? わたしは我が君なんかじゃない。わたし、まだなにもわからないのに……なんにも知らないのに……」


 自分にはちゃんと『セリア』という名前があるのだ。名前を呼ばれないと、まるで自分自身も否定されたような錯覚を起こしてしまう。

 だってセリアは『我が君』じゃないから。

 青年の言う『我が君』がわからない。

 青年はセリアを神だといい、仕えるべき主人だと頭を下げるけれど、奴隷として従順に生きてきたセリアには、突然そんなことをいわれても対処ができないのだ。

 せっかく自由を手に入れてもなにをしていいかわからない。

 新しい地での生活は、快適だけれど、いつも不安と恐怖で押しつぶされそうだった。

 青年は多くを語らない。

 そしてセリアも問う術を知らず、自分の置かれている状況を理解できていなかったのだ。


「なにをお知りになりたいのです?」

「わたしの知らないこと……」


 おずおずと答えると、セリアはもどかしげに眉を下げた。


「承知いたしました。我が君のお知りになりたいことをお教えしましょう。我が君は、憔悴していらしたので、お教えするのはもう少し時間を置いてからと考えていましたが」


 彼は、碧の片目をやさしく細め、セリアを見つめた。


「ですが、お話しする前に、少しでもお召し上がりください。栄養をしっかりとらなければ倒れてしまいますよ」


 まるで母親のような台詞に、涙の止まったセリアは目元を拭うと小さく笑った。

 それを見た青年も表情を和らげ、寝台のほうに円卓を近づけた。

 身を起こしたセリアも寝台の端に移動して、青年が見守る中食事を始めた。ふわふわのパンも温かいスープも想像以上においしかった。見た目は固そうな肉もほろほろと崩れて、口の中に肉汁が広がった。

 熱々のスープを食べるには、怪我をした唇が少し痛んだが、それすら気にならなくなるほど夢中で食べた。思ったよりお腹が空いていたのだろう。最後に、青年が注いでくれた水を含むと、ひんやりと冷たく、爽やかな後味が残った。

 ドーナンの屋敷の食事もおいしいと思っていたが、青年が運んできた食事はそれ以上だったかもしれない。


「ほかに甘い果実や焼き菓子はいかがですか?」

「ううん、もういらない」


 セリアは首を振った。

 どんな甘味が出てくるのかと興味はあったが、お腹は十分満足していた。


「とってもおいしかった。ありがとう」

「それはようございました。我が君の好みをまだ存じ上げなかったものですから、簡単なものしかできず申し訳ございません」

「あなたが、作ったの?」


 セリアは目を丸くした。


「ええ、すべて私が」

「作ってくれる人はいないの?」

「我が君が口にされる物をほかの者には任せられません。貴女の滑らかな肌に…細い指先に触れるもの、その稀なる金の双眸に見るものはすべて私がしつらえました。穢れなき魂を持つ貴女に相応しいように」


 青年は甘く微笑んだ。どこか熱を孕んだような双眸は、逸らせない魅力があった。


「ぁ……」


 ほんのりと頬を染めたセリアは、改めて美しい青年に魅入っていた。

 白皙の美青年と言葉ひとつでくくるにはあまりにも人離れした美貌。

 笑顔を消せば声を掛けるのもはばかられるような冷気をまとっているというのに、セリアに向ける眼差しは日だまりのようにあたたかく、艶やかな低い声は全身を真綿で包み込むようであった。


「目……痛い?」


 恐る恐る手を伸ばしたセリアは右目を覆う眼帯に触れた。冷たい感触。繊細な文様が入ったそれは、純銀で作られているようだった。


「いいえ」


 セリアの手に己の手を重ねた青年は、その温もりを感じるように開いている目を閉じた。


「あなたの手はひんやりしてる……まるで冷たい水の中に手をいれたあとのよう」

「私の体に血が流れていないからでしょう」


 ふっと目を開いた青年は、えっと目を丸くしているセリアを見つめた。彼が重ねていた手から離すと、セリアの手も支えを失ったかのように落ちた。その手を労るかのようにそっと撫でた青年は、体を寄せた。


「私に、名を与えてくださいますか?」

「な、まえ……?」

「そうしたら私は貴女のモノ。永遠に……」


 顔を近づけ、セリアの耳に甘く囁いた青年は、びくりと体を震わせたセリアの銀の髪を愛おしげに撫でた。


「ああ、美しき我が君……。こうして触れあえる至上の喜びを私はずっと長い間待っておりました。この冷たく無機質な城の中で(いく)とせ過ごしたことでしょう。我が君のいらっしゃらない世界は何もかも色あせて見えてしまう」

「あ、あのっ」


 顔を赤らめたままセリアは、彼から香る甘やかな体臭に心臓を高鳴らせながらぎゅむっと目を瞑った。

 きっと青年にはセリアの心臓の音など聞こえているだろう。

 それくらい激しく鼓動を打っているのだ。


「どうなさいました? 我が君」


 耳元で問う青年。

 羽のようにくすぐる心地よい低音に酔いしれたセリアは、顔を更に赤くした。


「は、離れて……」


 精一杯の抵抗。

 青年はくすりと笑った。


「本当にお可愛らしい」


 離れていく体。

 ほっと目を開けたセリアの双眸は羞恥に潤んでいた。


「お、教えてくれるって……」


 セリアは柔らかな薄布を恥ずかしそうに首元までたぐり寄せると、鼻まで覆ってしまった。ちょこんと目元だけを出しながら、青年を見上げる。


「では、どうか私に名を。貴女だけが縛れる私の名前をお与えください」

「ぁ……ど、して……」


 さっきはそのようなこと言わなかったはずだと言外に視線にそう込めれば、青年は困ったように首を傾げた。さらりと零れる漆黒の髪が、まるで絹糸のようであった。


「申し訳ございません。私はきっと焦っているのでしょうね。貴女と私の関係がまだ完全ではないので」

「かん、ぜん……?」

「私たちはまだ細い糸で繋がっているだけです。それでも貴女を護り、お仕えするのに不自由はございませんが、名をいただきたいのは私の身勝手な思いゆえ。私を縛り、律することができるのは我が君だけ。そしてそれは真名(まな)の契約を成したことにより成立するのです」


 ふっと目元を和らげた青年は、愛おしげにセリアを見つめた。


「我が君の……〈鍵〉のいらっしゃらない世界など、私にとっては暗闇と同じ。〈鍵〉の存在があってはじめてこの目に映る景色に光が宿り、温もりや息吹を感じることができるのです」

「〈鍵〉ってなあに? わたし、知らないわ。ご主人さまにもそう呼ばれたことなんてなかった」

「〈鍵〉は、神です」

「か、み?」


 セリアは意味を理解しようときゅっと眉を寄せた。


「ふふ、イ=バールを創ったのは創造主バティ=ラグではありませんよ」

「バティ=ラグ……、それが神さまの名前……?」


 セリアは困惑気味に視線を揺らした。

 『神』という存在をそれほど深く考えたことがなかったのだ。いや、イ=バールではセリアの考え方が常識的だろう。

 『神』。それはすなわち、天なる地の住人を指すのだから。腐敗の地で生活したセリアにとっては、『神』とは神話的な存在ではなく、実在する人物であった。

 イ=バールは、神である天なる地の住人によって創られ、長い間統治されてきたのだ。

 その神の世話係として選ばれたのが清き(ヴィーラ)であり、神のために働くのが常世の(アル・ドラーナ)の住人だ。

 そして腐敗の地の住人は奴隷として、自分たちよりも身分の上の者たちに従うよう強いられる。

 そうして世界は廻っていたいたのだ。


「天なる地のどなたが……?」


 天なる地にそう目に見えた階級制度はない。

 争い事のない地なのだから、統率者もいない。

 ただ天なる地を管理する者たちが数人と、富める者たちとさらに富める者たちがいるだけだ。

 もちろんセリアは天なる地の仕組みに聡くはなかったが、永劫に続く平和な地は、なにもかもが緩やかだった。

 神である彼ら自身が法であり、掟なのだ。

 人の命ですら彼らの感情ひとつで思うまま消し去ることのできる地。

 奴隷や使用人がどのような拷問にかけられようと、凄惨な死に目に遭おうと関係ないのだ。

 彼らを罰し、取り締まる者はいないのだから。

 それが当たり前の世界。

 彼らに目をつけられた者はただ己の不運を嘆き、堪え忍び、いつかはわからない死を覚悟して生活しなければならないのだ。


「卑しき天なる(アル・フェス)の者たちが神、ですか」


 くすくすと柔らかに笑っているのに、なぜか嘲笑する色がある。

 まるで、そんな明快なことすら区別のつかない愚か者ですね、と嘲られたようだった。

 思わずびくりと体を竦めると、それに気づいた青年がすぐに優しい笑みを浮かべた。


「貴女を嗤ったわけではありません。ただ、己を神と信じ、そう振る舞う彼らがまるで道化師(ドゥーア)のようで」

「知っているの?」

「貴女のいない世界は退屈でしたので、ときおり水鏡(ドゥール)で愚かしい彼らのことを観察していましたよ。支配者としての生活をしらないから残虐で、頭の回転の鈍く、性根の腐った者たちばかりで、それはそこそこ愉しめましたが。何も知らないということはどんな幸せなことか。ふふ、きっと過去の報いを受けているのでしょうね。因果応報とでもいいましょうか」

「意味が、わからないわ」

「まだ、知らなくてよろしいのです」


 青年がそう言うと、セリアは少し戸惑ったあと素直に頷いた。

 まだ、ということは、その時期になったら教えてくれるのだろう。彼は自分のことを考えてくれているのだから。


「創造主バティ=ラグは、混沌より生まれ、星の欠片から世界を創り出した者。人が神と呼んでよい、唯一無二にして絶対の存在。けれど彼は己が創り上げた世界に満足せず、〈鍵〉制度を創り、世界を自由に創造できる方を人間の中からお選びになったのです」

「それが、わたし?」

「……ええ」


 頷いた青年は、薄く笑みを引いた。

 セリアは小さく体を震わせた。

 自分は自由にするどころか壊してしまったのだ。

 多くの命を奪い、すべてを破壊した。

 神が知ったらどう思うだろう。きっと自分を罰するに違いない。けれど痛みでもなんでも受け入れる覚悟であった。それほどの大罪を犯してしまったのだから。


「神さまはどこにいらっしゃるの?」

「神にご興味が?」

「神さまなら……神さまなら戻せるかもしれない。時を戻して、みんなが生きてる時に……っ」


 青年はため息を吐いた。


「……神はもうおりません。〈鍵〉制度を創り上げると混沌へ消え失せたのです。神はその座を〈鍵〉に託したのです」

「ぁ……そ、んな……」

「愚かな人間どもなど忘れてしまいなさい。貴女を悩ますその存在が恨めしい。けれど形なき相手と戦うわけには参りませんからね。……いっそ貴女の記憶を消し去って」


 ふ、とほの暗さを片方の目にたたえた青年は、聞こえていない様子のセリアを見て、唇の両端をつり上げた。


「消えてしまえばいい。邪魔なモノはすべて……。貴女は鳥かごにいるか弱い小鳥」


 くつりと笑みを押し殺した青年は、一瞬、残虐な光を走らせた。


「共に堕ちましょう……どこまでも深く……閉ざされた闇の世へ」


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