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   その四

「……はっ」


 目を覚ましたセリアは、かはっと息を吐き出し、咳き込んだ。つかの間、息をするのを忘れていたのか、新鮮な空気が肺を満たしていく。


「我が君、ご無事でなにより」


 すっと頬を撫でていく冷たい感触に、すっと視線を移すとあの青年がいた。一体いつからいたのか、案じるように目を細め、セリアの顔を覗き込んだ青年は諭すように言った。


「闇に囚われては、そのまま心を乗っ取られてしまいますよ」

「……ふ、ぅっ」


 セリアの目から涙がポロポロと落ちる。

 アレは夢だったのだ。

 悪夢。

 そう、過去に起きた悪夢……。

 ドーナンのおかげで解き放たれたというのに、悪夢は未だにセリアを苦しめていた。

 青年は絹の布で丁寧に流れ落ちる雫を拭っていった。

 そのどこまでもやさしい姿にすがりつくように手を伸ばして抱きついた。


「奴隷、だから、幸せになれないの? どうして、わたし、ばかり……」


 辛い目に遭うのだろう。

 どうして幸せになれないのだろう。

 それが奴隷の――腐敗の地に生まれた者の運命(さだめ)だというのだろうか。

 ならばどうして奴隷として生まれたのだろう。せめて常世の地の住人であったのならもっとましな生活を送れたのかもしれないのに。

 決して多くは望まない。

 貧しくともよい。

 父と母と三人で暮らせたなら、セリアはなんだってしただろう。

 もうそれは叶わぬ夢物語だが。


「私がお側におります。これからは、ずっと」


 ぴくっと肩を揺らしたセリアは顔を少しだけ上げて青年を見上げた。

 白皙の怜悧な美貌は、笑んでいるせいかとても柔らかく、ふわっとセリアを包み込むかのようだった。


「貴女は〈鍵〉。世界を手中に収める崇高な存在。貴女の心を煩わすものはすべて私が消してしまいましょう。貴女はただ幸福であればいい。蜜のように甘く、日だまりの中のように穏やかな生活を送ればよいのです」


 青年は指先でセリアの涙を拭った。熱を持った目元に、青年の体温のない指先が心地よかった。


「貴女はただ私に命じればよいのです。貴女は、今は無き世界――イ=バールのただひとりの神なのですから」


 イ=バール。

 それは、三層から成った地の総称である。

 セリアはゆっくりと瞬いた。驚きすぎて涙は止まってしまった。泣きすぎて目元を赤くしたまま、少し眉を寄せた。


「神になんてなれない。奴隷は奴隷……一生奴隷のまま……。もし神になれるのだとしたら、それは天なる地の住人だけ」

「いいえ、それは誤った知識です。〈鍵〉こそがイ=バールの支配者であり神なのです。そして私は神を支え、神の望みを叶える者。そして貴女がその神なのです。私の仕えるべきお方」

「うそよ……うそ……そんなのうそだわ! わたし、奴隷だもの。なんの力も持たない無力な奴隷だもの。わたしが神だというなら、どうして助けてくれなかったの? 母さんは死んじゃった……! 父さんだって死んじゃったかもしれない……っ。助けて欲しかったのに……救って欲しかったのに……!」


 力なく青年の胸を叩いた。

 八つ当たりだとわかっていた。

 それでもあの悪夢を見て思い出してしまったのだ。救いのない世界を。

 願っても願っても叶えられることない現実。

 ひたすらに歯を食いしばって耐えることしかできなかった現実。

 自分はまだ恵まれているのだと言い聞かせ、

 腐敗の(アル・クルト)を思い浮かべ、

 もっと悲惨な状況に置かれている住人がいるのだと脳裏に刻み込む。

 自分は不幸だけれど絶望的ではないと暗示のように唱えなければ、心が折れてしまいそうだった。


「貴女がイ=バールに誕生されたのはわかっていました。けれど貴女に(けが)れが訪れなければ私はどのような手段を用いても見つけ出すことはできないのです」

「けがれ……?」

「人の言葉に言い換えるならば女神の血とでもいいましょうか……。貴女が穢れを知り、私はようやく見いだすことができたのです。それからずっとお側で見守っておりました」

「ど……して、姿を見せてくれなかったの? なんで……、もっと。もっと、早く助けてくれれば……っ」


 欲を抱くドーナンの姿を見た瞬間の恐怖は一生忘れないだろう。

 今もまだ覚えている、生暖かい舌が肌を這うあの不快な感触を……。

 本当に怖くて、救いのない己の運命に絶望し、ただ耐えることしかできなかったあのとき。

 もし、彼がもっと早くセリアをあの苦痛の時から救ってくれたのなら、セリアはあんなにも怖い思いをしなくてすんだのだ。


「貴女が強く救いを請い、助け求めなければ私は動くことができなかったのです。貴女の心の叫びが強く弾けた刹那、私は貴女を救うことができた」


 青年はセリアの気をなだめるように髪をゆっくりと撫でた。

 その手つきがとてもやさしくて、セリアは思わず目を瞑りそうになった。

 彼は人殺しだというのに、どうしてこんなにも心が落ち着くのだろう。怖さを感じないのは、彼のまとう空気が穏やかだからだろうか。


「でも、なんで、ご主人さまを……」


 殺す必要があったのだろうか。

 自分を救ってくれるだけならば、ドーナンを殺す必要はなかった。セリアはそこまで望んでいなかったのだから。


「ああ……もしや我が君に非道な振る舞いをしていた(やから)のことですか?」


 すっと目を細めた青年。

 一瞬、凍てつくような冷えた光が宿ったが、すぐに柔らかくなる。


「申し訳ございません。許可を得ず、勝手なまねを……。けれどいかなる理由があろうとも我が君に手を出した者を野放しにはできません。報いを受けるのならば、その身をもって罰せられるべきです」


 氷も溶かしてしまうほど慈愛に満ちた笑みを浮かべながらも、その口が語るのは残酷な台詞。

 彼は笑みを深めながら続けた。


「我が君に非情な世界など、人間ともども消えてしまえばいい。そう思いませんか?」

「……」


 セリアは口をつぐんだ。

 イ=バールの不条理な世界のことわりが嫌だと思ったことはあったが、消えてしまえばいいとは思わなかった。

 確かに奴隷であるセリアには辛い世界だろう。

 けれどそれでも恵まれていた部類に入るセリアには、楽しいこともいっぱいあった。辛かったことだけではないのだ。

 そこまで思いを巡らせたセリアは、あぁ、と目を見開いた。


(わたしは、嫌いじゃない……)


 そう、イ=バールが嫌いではなかったのだ。

 天なる地の美しい層も、腐敗の地の澱んだ層も……セリアには大切な場所なのだ。

 自分が生まれ、育った世界なのだ。

 それなのに、どうして破滅を願ってしまったのか。

 自由と引き換えに失った代償は大きい。

 ゆらゆらと視線を不安定にさまよわせたセリアは、意を決したように青年を見上げ、ゆっくりと口を開いた。


「もう一度、戻す、方法は、ないの……? わたしが神だっていうなら、もう一度……っ」


 イ=バールを生き返らせて欲しい。

 たとえその代わりに自分の命が犠牲になったとしても、セリアはイ=バールの復活を望んだだろう。

 自らの言動が招いた結果とはいえ、良心の呵責に苛まれ、このままにはしていられなかった。

 青年は微笑を消し、セリアを見つめた。

 視線ひとつで殺せるような鋭さに、セリアはびくりと震えた。

とたん、目元を和らげた青年はゆっくりと首を振った。


「――忘れてしまいなさい、イ=バールなど。この城で暮らせば、すべてを忘れられますよ。ここは貴女のためだけに創られた世界。貴女がこの忘れられた(ドゥワール)の主なのですから」

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