その二
「ん……っ」
セリアはゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと天井を見つめ、いつもと違うことに気づいた。
「お目覚めですか」
耳に心地よい低音は、楽の調べのようであった。
うっとりと聞き惚れていたセリアがハッとわれに返って顔を向けると、いつからいたのか笑みを浮かべた青年が立っていた。
「あな、たは……? ……ぁ、」
青年の美しさに目を奪われ、不思議そうに問いかけたセリアの脳裏に、ドーナンの無惨な死に姿が浮かんだ。
(ご主人さまは死んだ、んだ……)
柔らかな毛布を強く握りしめ、カタカタと震えるセリアの手を青年が包み込んだ。驚いたのと嫌悪感から思わず引っ込めそうになるが、青年の力は見かけよりもずっと強かった。
彼はドーナンを殺した。
それはまごう事なき事実。
本来ならば人殺しである彼を厭うべきなのに、伝わるひんやりとした指先からは労りが感じられた。だからだろうか。怖いはずの相手に、こんなにも安堵してしまうのは。
「もう貴女を脅かす存在はこの世におりません」
怯えるセリアの目を見て、やさしく話しかけてくれる青年。
あの残酷さが嘘のような美しい顔立ちには、どこか気品があった。まるで、あれは悪夢だったかのように……。
セリアは何か言おうと口を開いたが、震える唇が音を発することはない。
形にしようとした言葉が喉の奥へ虚しく消えていき、もどかしさに唇を噛むと、冷たい指先がすっと触れた。驚いて噛むのを止めると、青年は柔らかく微笑み手を引っ込めた。怯えるセリアを包み込むような笑みに、ほんの少し見惚れる。
慈愛に満ちた笑みを向けられるのは久しぶりであった。
セリアがその笑みをもらったのは、大好きな両親とドーナンだけだ。
そこでドーナンを再び思い出したセリアの顔が曇る。
もう、いないのだ。
無体なことをしようとしたドーナンであったが、死んだとなると胸が痛かった。 いや、ドーナンだけではない。
今も耳元に残っている。
死んでいった者たちの悲鳴――慟哭。
「夢、だ……夢なんだ。きっと、そう、悪い夢……」
目が覚めたらドーナンたちがいるはずだ。
変わらない日々が待っているのだ。
堪らず目を閉じたセリアは、自分に言い聞かせるように呟いた。たとえ目覚めた先に耐え難い現実が待っていようと、この罪深さが消えるのならば、ドーナンの仕打ちにも耐えられる気がした。
「夢ではありませんよ」
青年は逃避しようとするセリアに現実を突きつけた。
長い銀色の睫を揺らしながら持ち上げたセリアは、この世の悲しみをすべて宿したかのような悲壮な顔で青年を凝視した。
「戸惑われているのですね。ええ、それは当然です。けれど貴女は望んでしまった。世界の破滅を……そして、〈鍵〉である願いを叶えたのはこの私です。世界の終焉など容易いことですよ。望みが叶ったというのに、貴女の顔にはどうして笑みが浮かばないのですか? 貴女の望みはそれほど希有なものではなかったというのに」
「ど…して……、そんなに、冷静なの? みんなを殺したのに……」
語尾が震え、蒼白になったセリアは思わず顔を覆った。とても青年のように冷静ではいられなかった。
「どこからお話しをしたらよろしいのでしょう……。貴女はきっと何もご存じないのでしょうね。私に善悪の感情があるのかとの質問でしたら、否と答えましょう。私は我が君のためだけに存在する者。我が君が望めば、神すらこの手にかけましょう。我が君こそが私に命じることができる唯一の存在なのですから」
「わたし、あなたの主人じゃないわ」
セリアが暗く呟いた。手を離し、ゆっくりと上げたその顔に涙の跡はなく、ただ輝きを失ったほの暗い双眸が青年を見つめた。
「いいえ、あなたは〈鍵〉。私のこの世で最も大切な主人です」
――〈鍵〉。
〈鍵〉とはなんなのだろう。
青年は一体何者なのだろう。
そして、ここはどこなのだろう。セリアが住んでいた世界は消えてしまったのだから、ほかの世界なのだろう。けれど、ほかにも世界が存在していることは聞いたことがない。
ぐるぐると脳裏を駆けめぐっていく疑問に、セリアの目もなんだか回っていくようだった。
「もう少しお休みください」
体調の悪くなったセリアを察してか、青年がそう声を掛けた。
セリアは休みたくなどなかったが、青年のすらりとした手が双眸を覆い隠すと、とたん意識が混濁していった。




