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第二章 其は、護る者 その一

「だれか、だれかおらぬか! 不審な者が――っ」


 扉一枚を隔てた奥の部屋に待機している見張りに叫ぶが、いくら待っても主の呼びかけに、武器を持った使用人が大挙してくる様子はない。

 うろたえる彼に向かって青年は艶やかに微笑んだ。


「ああ、もしかして畜生をお捜しですか?」

「畜生?」


 ドーナンが理解できないといったように眉を潜めた。その表情は、未だ半裸状態で醜態をさらす姿と相まって、酷く間抜けた図であった。

 危機感の薄いドーナンに冷ややかな視線を送った青年は、嘲るように口の端を軽く持ち上げた。


「畜生ですよ。たとえ直接手出しはしていなくとも、この部屋で何が行われるか知っていたはず。目を背け、耳を塞ぎ、口を閉じ、ただ静観していた彼らに、人の心などあるものですか。低俗な人間に飼われるしか脳のない憐れな生き物ですよ」

「な……っ」


 怒りのあまり体を震わせたドーナンは、とっさに言葉も返せない様子だった。


「援軍を待っているのならば、期待しないほうがいい。この屋敷の畜生なら、寝ていますよ。――永遠に、ね」


 酷薄な笑みを浮かべた青年は、何が起こっているのかわからずただ震えているセリアを恭しい態度で抱き上げた。


「さあ、我が君。お望みはなんですか?」


 ドーナンに向けていたものとは全く違う、やさしげな眼差しがセリアに注がれる。


「この世の破滅? それとも……」

「……は、めつ……?」


 セリアは呆然とした。

 彼は何を言っているのだろう。

 彼の整った唇が紡ぐのはあまりに禍々しい言葉であった。


「何も望まないのであれば、いいように弄ばれるだけですよ」


 あの者に――、と。

 青年の視線の先にいるのはドーナンであった。

 酷く憤慨しているようで、支離滅裂な言葉を吐き捨てていた。いつもの穏和な姿からは想像できないほど顔が歪み、澱んだ目の奥がギラつく。

 そのあまりの憤怒ぶりに、戦いた。

 青年がいなくなったら、その怒りを向けられるのは自分だ。

 使用人が目の前で殺されたときのことを思い出し、顔から血の気が失せていく。自分もああなるのだろうか。そんなのは絶対に嫌だ!


「でも、なにを望めばいいかわからない……」


 ドーナンから逃れるために、どんな望みを口にすればよいのだろう。考えてもセリアには何も思い浮かばない。

 そんな彼女の耳に顔を寄せた青年は甘く囁いた。


「この(いびつ)な世界が壊れてしまえば、貴女は自由ですよ」

「じ、ゆう……」


 それはまるで危険な毒のように体に入り込み、痺れるように脳を刺激した。

 どれほど渇望しようと、腐敗の地の住人であるセリアには、決して与えられることのない自由。青年は奴隷という身分から解き放ってくれるというのであろうか。


「こわしてしまえば、わたしは、じゆう……?」

「ええ、貴女は自由。もう何者にも怯えることはないのですよ」


 甘言は蜜よりも甘く、そして深く入り込んでいった。『自由』という響きに陶酔し、酔いしれているセリアは、自由という言葉にばかり気を取られ、青年の言葉の意味をよく理解していなかった。


「こわすわ……こわす」

「世界を?」


 青年が問うと、セリアはこくりと頷いた。

 その刹那、青年が妖しく微笑んだ。


「承知いたしました」


 怜悧に双眸を光らせた青年は、片腕でセリアを支えると、指を鳴らした。


 とたん、地鳴りが轟いた。

 立っていられないほどの揺れであったが、青年の周りだけ静かであった。彼は揺れなど感じていないように平然とした様子で立っていた。

 次々と傾ぎ、音を立てて床に倒れる家具。

 ぴしりと壁に亀裂が入る。


「な、なにをした!」


 情けなく床にはいつくばり、気色ばむドーナンに、しかし青年は微笑んだまま小さく首を傾げた。


「我が君の願いを叶えたまでのこと」

「なにを……――っ」


 ドーナンは最後まで言葉を吐くことができなかった。

 いきなりドーナンの首と四肢が吹き飛んだのだ。

 怒り顔のままの首が弧を描き、床に転がった。

 きっと本人も何が起こったのかわかっていなかっただろう。


「ふむ。余興にしてはあっけなかったですか」


 愉しげに肉片と血が飛び散るのを見ていた青年は、ふと腕の中のセリアに目を落とすと目元を和らげた。


「ようやくお会いすることが叶いました……我が君」


 万感の想いでそう呟いた青年は、青ざめた顔でドーナンの死体を見つめるセリアの髪にそっと口づけた。


「さあ、我が君にこの世の終焉をご覧に入れましょう。最も華やかで、残酷な瞬間を――」


 崩れ落ちる天井。

 床にも亀裂が入り、真っ二つに割れた。

 さすがに危険な状態に、けれど青年は余裕の顔で、そこから瞬きの間に空間を移動した。次に青年が姿を現したのは上空だった。まるで翼があるかのように浮いていた。

 眼下では、地面が真っ二つに裂け、家を、大地を呑み込んでいった。花びらが舞い、悲鳴が轟音の中に消えていく。


「ぁ……」


 崩れゆく天なる地を虚ろに見下ろしていたセリアの双眸に薄い光が宿る。カタカタと震える体。


「これは、夢だわ……」


 セリアが呟く。

 今起こっていることが信じられなかった。

 けれど青年は非情にもセリアの願望を打ち砕く。


「いいえ、これは現実です。我が君の望みが叶ったというのに、どうして怯えているのです? もう貴女に恐怖を与えるモノは存在しないというのに」


 セリアは激しく首を振った。

 青年の言葉を信じたくなかったのだ。

 自分のせいで世界が滅んだとはとうてい受け入れられない事実であった。耳を塞ぎ、青年の胸に顔をうずめても世界が崩れゆく音は止まない。


 ――――そして――辺りに静寂が満ちた。


 光に満ちた世界に存在するのは青年とセリアだけであった。


「み、んな、死んじゃっ、たの……? 天なる地の人も、腐敗の地の人も……」


 呆然と。

 ただ呆然とそれを見つめたセリアの唇が小刻みに震えていた。


「世界のすべてが死に絶えたのですよ。貴女が望んだのでしょ? ほら、ご覧なさい。より美しくなった世界を。真っさらなこの世界は貴女のモノですよ」


 果てなく続く白い世界は、まるで天なる地のようでもあったが、花々が咲き乱れていた地面が消え、神なる(ツォーラ)のなくなったこの世界は、完全な『無』であった。

 音の無い世界。

 風もなく、

 鳥の鳴く声もなく、

 人々の笑い声すら響くことはない、無音。

 ただ青年とセリアの声だけが虚しく、大きく反響し、消えていく。


「うそ、よ……うそ……」


 セリアは頑強に首を振る。

 白いこの世界が不気味で怖い。


「いやっいやっ、こんなの違う。わたし、知らないっ」


 鼓動が速くなる。

 苦しくて、苦しくて、右手で心臓を押さえる。

 わたしじゃないと繰り返すセリアは、恐慌状態に陥っていた。考えがうまくまとまらず、ただ繰り言のように否定の言葉を呟く。

 ぐにゃりと視界が歪むのをまるで他人事のように感じていた。遠のく意識の中で、ただ微笑を浮かべて見つめてくる青年だけが酷く鮮明であった。

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