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   その四

「あなたの名前。もう、遅い? 絆は切れてしまった?」


 それはずっとセリアが青年に伝えたかった事。青年に求められながらもずっと決めかねていたが、ようやく見つけたのだ。彼に相応しい名を。


「私の、名前……」


 青年が呆然と呟いた。


「ラフィーネという言葉は、光を指すの。あなたはわたしにとっての光……。わたしを苦しみから解放してくれたまばゆい光だわ。だからその名前が相応しいと思ったの」

「――あぁ」


 青年が苦痛を耐えるかのような顔でよろめいた。


「私はもう覚悟していたはずなのに……貴女は二度とこの地を踏むことはないだろうと。これまでの〈鍵〉がそうであったように」

「でも、わたしは戻ってきた。喜んではくれないの? 嬉しくない? わたしだけだった? わたしだけこんなに会いたいって思ってた?」


 セリアの姿を見れば、忘れられた(ドゥワール)にたどり着くまでどんなに大変かわかっているだろう。髪や服は砂で汚れていたし、神々しいほどの美貌を持つ青年の前に平然と立てる格好ではなかった。

 それでも今のセリアに身なりを気に掛ける余裕などなかった。

 青年に振り向いて欲しかった。

 あの包み込むような笑顔が見たかった。


「貴女の声は聞こえていました……ずっと」


 顔を俯けた青年はそう呟いた。


「ずっと……?」

「私は臆病だから、貴女が幸せそうに暮らす姿を目に入れたくはなかった。これまでの〈鍵〉のように水鏡(ドゥール)で新しい貴女の人生をこの目に焼き付けることができなかった」

「なぜ……?」

「私のいない世界で貴女が笑っていたならば、私は貴女をさらってしまっていたでしょう」


 顔を上げた彼の碧眼にやっと感情らしき光が宿った。狂おしいほどの想いを宿した瞳がセリアを射抜く。


「貴女のいない世界は色がないのです。感情さえ氷のように冷え切ってしまったように、私はただこの世界に在るだけの存在となっていた。心を閉ざし、目を閉じ、耳を封じ……貴女のことを忘れようと、貴女と過ごした日々を記憶の底に追いやって、新しい〈鍵〉の誕生を待とうとしていたのに……」


 セリアがいなくなってからの青年は城の中で孤独に過ごしていたのだ。だれとも触れあわず、セリアのことさえ記憶から消し去ろうとしていた。

 けれど、彼は完全にセリアという存在を追い出すことはできなかった。

 ずっと声が聞こえていたからだ。楽しそうな笑い声、悩む声……。すべてが青年の耳に届いていた。結界を創り出し、遮断しようとも、まるで直接脳に語りかけてくるように聞こえてきたのだ。

 そして彼はセリアが忘れられた(ドゥワール)を求めて旅立ったことも、こうして無事にたどり着いたことも知っていた。

 闇の住人に襲われていたときも青年はずっと高見から見ていたのだ。助けなかったのは、自分を置いていってしまったセリアへのささいな反抗心からだった。もしものときは助ける予定ではあったが、その前に敵を退けてしまったのだ。

 その〈鍵〉としての姿に、青年もようやく姿を見せる覚悟がついたのだ。


「貴女に会えて嬉しくないはずないでしょ。こんなにも胸が高鳴り、歓喜に震えているというのに……」


 青年が穏やかに微笑んだ。

 やさしいやさしい微笑み。

 それはセリアが求めていた笑顔であった。


「それに、貴女は私に名を与えて下さった。ようやく……」


 万感の思いを噛みしめるかのように吐息を漏らした青年はゆっくりと跪くと、汚れた布地に唇を寄せた。


「ラフィーネの名のもとに、我が主に永遠の忠誠を誓い、この身を捧げます」


 青年の自分に対する思いの深さに感じ入っていたセリアは、突然成された宣誓に顔を強ばらせた。


「! いらない。そんなのいらない!」


 首を激しく振ったセリアは、しゃがみ込んでラフィーネの冷たい手を取った。


「忠誠なんていらない。ただ側にいてほしいの……」

「我が君のお望みのままに」

「違うわ! 違うの……そうじゃなくて、普通がいいの」

「普通、ですか?」

「そう。わたしが望んだから側にいるなんて変。そんなのちっとも嬉しくない。もしわたしの側にいるのが嫌なら言って! ラフィーネの心が知りたいの」

「私は……」


 戸惑うように瞳が揺れたのは一瞬のことだった。


「貴女のお側にと願う気持ちに偽りはございません。我が君の限りある命をお側で見届けることができるのは至上の喜び。それに、我が君の願いを叶えることこそが私の望みなのです」


 変わらない主従関係。

 青年は〈鍵〉のために在るのだから仕方ないのかもしれない。

 それでもセリアはそれが不満だった。

 仕えてくれるのは嬉しい。

 共にいてくれると誓ってくれたのが泣きそうなくらい嬉しい。

 でも、違う。セリアは彼と対等でいたかった。母と父のように心を許し、通じ合う仲でいたかったのだ。


「わたしは主人じゃない。セリアよ。〈鍵〉じゃなくてただのセリア。呼んでよ、わたしの名前」


 それは決して命令ではない。強要でもない。

 そんなセリアの思いが伝わったのか、青年は口にするのをはばかったように閉ざした。もしこれが強制であったならば、ためらいなく青年はセリアを呼び捨てにしただろう。真名が魂を支配するこの世界では、従者である青年が主人の真名を呼ぶのは決して許されるべき行為ではない。しかし、主人の願いを第一に考えるのが青年の務めであった。

 青年は考える時間を欲するかのように少し時間を置いてから、口をゆっくりと開いた。


「……セリ、ア……」


 吐息のような掠れた声音はしっかりとセリアの耳にも届いた。

 青年も悩んだようだったが、自分の意志で名を呼ぶことに決めたのだろう。

 グルグリッドがセリアの名を呼んだときのように、いやそれよりももっとあたたかく不思議な感覚がセリアを包み込んだ。

 まるで青年に抱かれているような心地に、ついっと両手を伸ばしたセリアはそのまま青年の胸に倒れ込んだ。血の通っていない体は冷たいのに、今のセリアにはどこかあたたかく感じられた。


「わたし、ようやくたどり着いた気がする。ほんとうの居場所に……」


 いろいろなことがあった。

 悩んで、苦しんで……。

 でもみんな大切な思い出だ。

 多くの命を奪ったことも、またそれを再生させたことも決して忘れてはいけない。たとえ命を生き返らせても、罪は永遠に消えることはないのだから。


「私の居場所は貴女のお側です」

「ラフィーネ……」

「貴女こそ私が求めていた方だったのです」


 ようやく青年は、一緒に在る主を手に入れたのだ。その思いは計り知れないだろう。



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