その三
さぞやドーナンは驚いていることだろう。セリアが目の前で消えたのだから。
「戻って、きたんだ……! やっと、やっと……っ」
やはり、光の衣が道だったのだ。
なぜ一度目はたどり着けなかったのかわからないが、きっとセリアの思いが足りなかったのかもしれない。けれどそんなささいなことはどうでもいい。ここはもう忘れられた地なのだ。
嬉しくて、びっくりして、いろんな感情が駆けめぐった。ぶわっと胸が熱くなり、涙が出そうになったが、きゅっと目に力を入れて我慢した。まだこれは終着点ではないのだ。
「聞こえる……? わたし、戻ってきたの!」
セリアは空に向かって声を張り上げた。
青年に声は届いているのだろうか。
いや、届いていないだろう。
それでもセリアは言わずにはいられなかった。
「――ラフィーネ」
それはあの青年の名。
記憶を取り戻したセリアが考えて、考えて浮かんだたった一つの名前。
きっともう、すべてが遅すぎたのかもしれない。
〈鍵〉ではないセリアを見放してしまったのかもしれない。
それでもセリアは歩き出した。
「今度はわたしが見つける番……」
セリアはきゅっと唇を引き結んだ。
いつだってセリアを見つけ、救ってくれた青年。
もう甘えてはいけないのだ。彼を見捨ててしまったのは自分のほうなのだから。
太陽が分厚い雲に覆われ始める。
『夜』になるのだ。
セリアは闇の住人のことを思い出し、微かに体を震わせたが、勇猛にも足を止めることはなかった。
太陽が完全に隠れると、シュワシュワと紫色の煙を立ち上らせながら、穴から闇の住人が出てきた。蛇の体に獣の頭を持った彼らは立ちつくすセリアに気づくと、涎を垂らして地を這った。
小さく息を呑んだセリアは、その場で固まった。恐怖に竦んだ足は、まるで針で縫い取られてしまったかのように動かない。
セリアの身の丈の倍はありそうな異形が、ねばねばとした液体を毛穴から出しながら、しゅるりと蠢く。身のこなしは素早く、瞬く間に目の前に迫ってきた。
獅子のようなどう猛な顔から鋭い牙が覗く。大きな口だ。セリアの頭を噛み砕くのは容易いだろう。
「――ッ」
怖い。
肌が粟立った。
(こんなところで死にたくない!)
飢餓に似た強い感情が駆けめぐる。
すると、その想いに突き動かされたかのように、足が動いた。襲いかかってくる異形から逃げるように後ろに下がった。
間一髪避けることができたセリアだったが、まだ気は抜けなかった。周囲を異形に囲まれてしまう。もう逃げ場はないのだ。
異形はお互いを牽制するように低く唸っていた。だれもがセリアを狙っていたのだろう。
もう、これまでなのだろうか。諦観したセリアが思わず目を瞑りかけたそのとき、諦めてはいけないという激情がぶわっとせり上がってきた。
なんのためにここまで来たのだろうか?
苦しい思いをして、やっとたどり着いたというのに!
(駄目……弱気になっちゃ駄目なんだ……っ)
ぎゅっと両手を握りしめたセリアは、気丈にも異形を睨みつけた。
「わ、わたしは死なない! こんなところで死なないわ」
それは精一杯の抵抗。
武器ももたない今のセリアには、恐怖を押し殺し、虚勢を張るしかなかった。
それでも震えは止まらない。次にどう動けばいいのかわからなかった。
セリアの叫びに反応したかのように、目の前の異形がくわっと口を開いた。
「こ、来ないでっ! あっちへ行ってよ!」
胴体を起こした異形の鋭い牙がセリアの頭にかかろうとした。
セリアは絶望に目を瞑った。
けれどいつまでも襲ってこない痛みに薄く目を開けると、口を開いていたはずの異形がいつの間にか去っていた。周囲の異形も興味が失せたかのように散っていく。
「ど、して……」
何が起こったのだろう。
状況がわからず困惑を深めていると、懐かしい声が聞こえてきた。
「貴女が〈鍵〉だからですよ。彼らは〈鍵〉である貴女の命令に従ったまでのこと。野生の本能しか持たない下等生物にとって〈鍵〉の言葉は絶対ですからね」
驚いて振り返ると、無表情の青年が佇んでいた。
――息が止まるかと思った。
ずっとずっと会いたかった青年がすぐ目の前にいたのだ。きゅっと心臓が痛くなる。嬉しくて切なくて、いろいろな思いが胸の内に交錯する。
けれど――。
笑みのない青年の姿はまるで精巧な人形のようであった。触れたら指先から凍ってしまいそうなほど冷えた空気をまとう彼は、セリアを視線の中に映しても歓喜の色すら宿さなかった。
青年に出会えた嬉しさが急にしぼんでいった。彼はちっとも喜んでいないのだ。
「……わたしは、もう〈鍵〉じゃない……。だって願いを叶えてしまったもの……」
「いいえ、貴女はまだ〈鍵〉です。そうでなければ、貴女はこの地に再び戻ることすらできなかったでしょう」
「怒って、いるの……?」
笑顔のない青年はどこか恐ろしく感じられた。
「愚かだとは思っています」
「……!」
「安穏と暮らしていらっしゃればいいものを……。それこそが貴女の望みだったのでしょ?」
「ちが……っ」
とっさに否定したセリアは、しかし下唇を噛みしめると辛そうに俯いた。
「違わない……」
セリアはぽつりと漏らした。
「わたしの望みは父さんと母さんと一緒に幸せに暮らすことだったもの……」
「ならば、なぜ……」
「でも、……でもっ!」
セリアは顔を上げ、涙の滲む目で青年を見上げた。
「あなたがいないっ。ウィズもロウもリンリンも……みんないないわ!」
青年は虚を突かれたようにわずかに目を見開いた。
「神さまに記憶を消されて、わたし、みんなのこと思い出せなかった。父さんがいて、母さんがいて、とっても楽しくて……幸せだったのに、なぜか胸にぽっかりとね、穴が空いたようだった……。なにかが違う、どこか違うってずっと思ってたの。でも、記憶が戻って、わたし、まだやり残したことがあるのを思い出したのよ」
セリアはほんの少し頬を染め、微笑んだ。
「ねえ、言ってくれたでしょ? ずっと側にいてくれるって……。わたし、とっても嬉しかった……。だってそんなこと言ってくれた人、だれもいなかったから。わたしはいつもひとりだった。母さんと父さんがいなくなってからずっとひとりぼっちだったのよ。だから余計に嬉しいのかなって思ったけど、違ってた。父さんと母さんがいても、ひとりぼっちみたいな気分だったの。暗闇に取り残されてしまったみたいに……。それってきっとわたしが……わたしだけが違うからね。わたしだけが新しいイ=バールの住人として生きてこなかったから」
そっと胸に手を当てたセリアは父と母の姿を思い浮かべた。
「母さんには父さんがいる。父さんには母さんがいる。だから大丈夫。わたしがいなくても」
あのふたりならば、たとえどんな苦難がふりかかろうと乗り越えられるだろう。最初は辛く感じるかもしれないが、時が癒してくれるはずだ。それに父も母もまだ若い。この先、新しい命を授かることだって否定できない。
「――ラフィーネ」
セリアは、その名をゆっくりと口にした。




