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   その二


(わたし、この世界が好き……働かないと食べていけない世界だけど、これまで出会った人たちはみんな笑顔だった)


 旅をしていて気づいたのだ。仕事を心から楽しんでいる彼らの姿に。神父の統制のもと、彼らは秩序ある暮らしをしていた。天なる地のような豊かさはないが、それでも日々を嘆く声はなかった。

 もし、忘れられた地を探し出せなかったとしても、この旅は決して無駄ではなかったと感じるのだ。無手(むて)(ぽう)で考えなしの旅であったが、これでもこの旅を通していろんな知識を得ることができた。

 ドーナンのこともそうだ。旅をしなければ、幸せに暮らしていることに気づかないままだっただろう。


(でも、前のイ=バールも大好き)


 グルグリッドが言っていたように、決してセリアたち腐敗の(アル・クルト)にはやさしくない世界であったが、あの残酷で美しい世界がセリアは好きだった。

 それは多分、セリアが生まれ育った世界だったからだろう。

 そして、前の〈鍵〉の心に触れられたような気がした今では、たとえやり方が違っても、同じく人々の幸せを願った者として愛さずにはいられない世界だったのだ。

 もう今はない三層から成るイ=バール。

 階級制度を廃したこの世界を前の〈鍵〉は気に入ってくれただろうか?

 彼女がここにいたらどんな反応を見せてくれただろう。

 想像すると、少しドキドキした。彼女にも気に入って欲しかったのだ。

 セリアはドーナンの言葉に従ってただ真っ直ぐ歩き続けた。滴る汗を拭い、何度も少量の水を大切そうに口に含みながら、目印である砂山を目指した。目印がなければ、この金色の砂が広がる中で迷っていた。

 頭上にあった太陽がゆっくりと傾いていく。陽が沈むまでそう時間はかからないだろう。

 セリアは速度を速めた。ドーナンが迎えに来る前に到着しなければ。息が切れ、慣れない砂地に何度も足を取られながら前へ進んだ。

 やがて、砂山を越えると眼下に荒れ地が広がった。固いむき出しの地面が覗いていた。雑草がところどころ生えているだけの荒れ地には、大小の岩や石が無数に転がっていた。

 その境となる部分にうっすらと白金の帯が見えた。


「あれが……光の衣?」


 目を凝らしたセリアは、見えてきた光の衣に感嘆としたため息を漏らした。

 青い空に向かって伸びる光は(ひだ)のように広がり、きらきらと輝いていた。

 砂山を転がるように駆け下りたセリアは、光の衣の前へ立った。どうして境を隔てるように伸びているのだろうか。とても不思議で幻想的な光景だった。もし今が夜だったならば、暗闇に映えてそれは美しい光景だったのかもしれない。

 もしかしたら神なる(ツォーラ)もこんな感じだったのだろうか。神々しささえまとう、異質な存在。

 まるでセリアのように……。とくん、とくんと鼓動が期待に早まる。セリアはそっと光の衣に触れた。

 一瞬、火花が散ったような痛みが走ったが、指先はすんなり向こう側へと通った。自分の掌が白金の光に包まれて見えた。


(わたしを導いてくれる? 忘れられた(ドゥワール)へ……)


 なにも起こらないかもしれない。

 なにも変わらないかもしれない。

 ただこの身は荒れ地へと踏み出すだけなのかもしれない。

 それでもセリアはもうただ立ち止まっているのは嫌だった。

 セリアは強い意志を秘めた目でゆっくりとその光の中に身を滑り込ませた。眩しい光を感じて目を瞑ったセリアの胸の内を不安と期待が交錯する。目を開けて荒れ地だったら……。そう考えると怖い。永遠にたどり着けないのではないかと考えると怖い。

 こくりと唾を飲み込んだセリアは、しばらくしてから目を開いた。


「――! ど、して……」


 力を失ったセリアの体がその場に崩れ落ちた。

 手応えはあったのだ。それでも、目の前に広がる景色はセリアが望んだものではなかった。


「ここだと思ったのに! 絶対ここだって……っ」


 悲痛な叫びが、砂漠へと吸い込まれていく。

 なにも起こらなかった。

 なにも変わらなかった。

 その事実がセリアの心を引き裂き、絶望へと突き落とした。


(もう、たどり着けない……だって、わからない。ほかに忘れられた(ドゥワール)へ行く方法なんて見つからない!)


 会えないのだ。

 もう、二度と。


「――――……っ」


 声にならない思いが胸の奥からあふれ出る。

 唇が戦慄(わなな)き、心臓がぎゅっと何かで掴まれたみたいに痛んだ。顔を覆ったセリアは、その場から動こうとしなかった。生きる活力を失ってしまったように体が砂地へと倒れ込む。


「会いたいよ……戻りたい……っ」


 苦しい。

 苦しい。

 苦しすぎて――痛い。

 忘れられた(ドゥワール)で暮らした時間は短かったけれど、セリアにとってはかけがえのない時間だった。あんなにも不可思議で、濃密なひとときは、他にはない。

 セリアの脳裏に浮かぶ青年の姿。快く神の元へと送り出してくれた彼は、セリアが二度と戻れないことを知っていたのだろうか。


(なんでっ、なんで言ってくれなかったの!? 戻れないって知ったら考えたのに……っ、もっといっぱい考えて、みんなにお別れだってちゃんと言って……)


 そして、父と母と三人で仲良く暮らしたのだろうか?

 神が用意した新しい人生を歩んだのだろうか?

 すべてを忘れて……。


(わかってる。無理だって……。だって、みんなわたしだもの……これまでの人生があって今のわたしがいる。父さんと母さんがいても、そこにいるわたしは違う。違うセリアなんだ)


 一緒に暮らして気づいた。記憶を取り戻したセリアは、父と母が知っているセリアではない、と。

 父と母と仲良く平和に暮らしたセリアはただの幻。

 本当のセリアは奴隷であり、自由を知った十四歳の娘なのだ。


(神さま、お願いです。どんなこともするから、わたしの願いを叶えてください。また、一緒にいたい。みんなと一緒にいたいの!) 


 セリアは必死に神に祈った。

 思いが届きますようにと念じていると、遠くの方から焦ったような声が聞こえてきた。だんだん声が近づいてくる。ああ、これはドーナンの声だ。約束通り迎えに来たのだろう。


「……ぃ! おい!」


 耳元に迫ったドーナンの声に、ハッとセリアが夢から覚めたかのように身を起こそうとした。けれど体は重く、身動きがとれなかった。


「今助ける、待っていなさい」


 ドーナンによって引き上げられたセリアは、自分のからたが砂に埋もれていたことを知った。セリアが気力を失ってからかなりの時間が経っていたのだろう。空が赤紫のような美しい色合いをまとい、太陽が地平線へとかかる。

 太陽が離れたせいか、気温も少し冷たくなったようだった。ドーナンに救い出されなかったら、セリアはあのまま砂の中で死んでいたかも知れない。そう考えるとぞっとした。


「見つからなかったのか……」


 軽々と光の衣を飛び越えてきたドーナンは、意気消沈としたセリアを見て悟ったようだった。


「ひとまず、わしの住まいへ来なさい。ここにおったら、凍死してしまうぞ」

「でも、でも……っ」


 セリアは悔しげに唇を噛んだ。ここにいてもしょうがないのだ。もう、道は閉ざされてしまったのだから。


「さ、行くぞ」


 オルヴァーは、おとなしく光の衣の向こうで待っていた。セリアたちのことなど興味なさげに膝を折り、じっとしていた。

 ドーナンに促され、歩き始めたセリアだったが、少し進むと止まってしまった。


「どうした? 具合でも悪いか?」

「やっぱり、駄目……行けない」


 ドーナンはすでにオルヴァーと同じ光の衣の向こうにいる。

 光の衣に透けて見えるドーナンに向かってセリアは頑強に首を振った。


「いいから、来なさい。ここへは、また明日に来ればいいじゃないか」


 駄々をこねるセリアを生暖かい視線で見つめたドーナンは、嫌がるセリアの腕を取り、無理やりオルヴァーの背に乗せた。


「いやっ、離して!」

「おとなしくしなさい。落ちるぞ」


 セリアを前に乗せ、自らも跨るとオルヴァーの腹を蹴った。すると、ゆっくりとオルヴァーが立ち上がる。


「待って……、お願いですっ」


 夜になると砂漠は気温が下がって、いくら外套があるとはいえ、砂漠で生き抜く知恵のないセリアには一夜を過ごすことは難しいだろう。それをドーナンは心配しているのだ。やや乱暴な行為にも、ちゃんと理由がある。

 悪いのは言うことをきかないセリアの方。それはわかっていたが、衝動を抑えられないのだ。

 オルヴァーが走り出した刹那、セリアは思わず目の前にあったドーナンの腕に噛みついた。


「イ……ッ」


 痛みにセリアを拘束する腕が緩んだ隙を狙って、砂山を駆けようとしたオルヴァーの背から飛び降りした。柔らかな砂地のおかげで怪我はなかったが、息が詰まるような衝撃が襲った。


「セリア――! なんてことをっ」


 舌打ちをしたドーナンが、すぐにオルヴァーから下りると、駆け寄ってこようとした。

 けれどそれよりも早くセリアは走り出す。光の衣へ舞い戻ったセリアは、振り返ってドーナンを見つめた。


「ごめんなさい。怪我をさせて、迷惑もかけてほんとうにごめんなさい……、わたし、やっぱり諦められないんです」

「求めるものはなかったんだろ?」


 血の滲む腕を押さえながら、理解できないというようにドーナンが顔をしかめた。


「でも、もう一回だけ……ううん、ボロボロになるまで諦めない。何回だって挑戦する。だってやっぱり、今のわたしにはここしかないから。ここが唯一の希望の光なの」


 深く深呼吸をしたセリアは、強い意志を秘めた双眸で光の衣を凝視した。さきほどと同じようにゆっくりと手を触れる。ピリッとした痛みが今度は全身に広がっていく。

 けれどもうセリアは過度な期待をしなかった。ただ静かに足を踏み出した。


「お願い、わたしを忘れられた(ドゥワール)へ連れていって……!」

「セリア! ……っ、そんな、馬鹿な――!」


 なぜか恐怖に満ちた声が聞こえた。

 思わず振り返ったセリアは、信じられないと言いたげなドーナンの顔に気づき、何事かと彼の視線を追った。そこに広がっていたのは、光の衣の先に透けて見えていた荒れ地ではなかった。

 真っ赤な土。

 そして奥には二つに連なった山があった。グルグリッドと行こうとしていたあの山だ。

 その手前は森があったはずだが、焦土化した地は草木一本すら生えてなかった。


「危険だっ、戻ってきなさい!」


 ドーナンが引き戻そうと手を伸ばしてくるが、それよりも前にセリアの体が光の衣を通り抜けるのが早かった。


「さようなら、わたしの世界……」


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