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第九章 其は、羽ばたく者 その一

 ドーナンの家で貴重な食べ物と水を分けてもらったセリアは、オルヴァーという蜥蜴(とかげ)を大きくしたような動物の背に跨って送ってもらった。砂漠は広大で、ときおり風が通り抜けていくと、金の砂が舞い、青空に色をつけた。

 草木も動物もいない砂原には、静寂だけが満ちていた。

 砂と陽射しよけの頭巾を目深に被り、オルヴァーの手綱を握っていたドーナンは、遠くに見える砂山に気づくと、ゆっくりと手綱を引いた。とたん、制止の合図に気づいたオルヴァーが、見た目からは想像できないほど軽やかに疾走していた足を止めた。

 甲羅のように固い背を愛しげに撫でたドーナンは、腕の中にいるセリアに訊ねた。


「あの山を越えれば、すぐに目的のものが見えるだろう。だが、本当にここでいいのか? オルヴァーに乗ればそう経たずに着くぞ」

「あとは自分の足で歩きたいんです」


 ゆるりと首を振ったセリアは、決意を宿した目を砂山へと向けた。緩やかな曲線を描く山は、陽に当たって黄金に輝いていた。きらきらと光る山はため息がこぼれ落ちるほど美しかった。

 セリアの頑なな態度に最後まで渋っていたドーナンも嘆息した。オルヴァーの背から降りると、セリアを抱き上げ降ろした。


「砂嵐には気をつけるんだぞ」


 オルヴァーにくくりつけていた荷をほどくと、セリアに渡した。

 受け取ったセリアは、麻袋を斜めにかけた。麻袋の中には水や食糧など、これから必要な物や家から持ってきた物が入っていた。


「それと、昼間は陽射しがきついからなしっかりと布を巻きつけていなさい」

「はい」


 顔の半分まで隠してしまう大きな布を頭から被り、体に巻きつけたセリアは頷いた。黄色っぽい布には、美しい幾何学模様の刺繍が入っていた。

 ドーナンの妻が商人に売るために仕立てのだという。人の良い奥さんは、砂漠を越えようとしているセリアのためにその貴重な一枚をくれたのだ。

 セリアは改めてドーナンを見つめた。

 本当に彼は変わった。

 もう、今の彼を見て怯えることはないだろう。あの悪夢のような出来事も今では夢のように感じられる。


「もし何か困ったことが起きたのなら、光の衣のところにいなさい。太陽が沈む前にもう一度光の衣の場所まで見回りに行くからな。――気をつけてな」

「いろいろとありがとうございました」


 わずがに双眸を潤ませたセリアは、深く頭を下げた。

 再びオルヴァーの背に乗ってゆっくりと去っていくドーナンを見送ったセリアは、小さく唇を震わせた。


「わたし、ご主人さまにききたかったの……今、幸せですかって」


 ぽつりと唇から零れ落ちた呟きは、静かな砂漠の地に落ちて消えていく。

 変な子だと思われてもいい。ドーナンの答えが知りたかった。

 小さくなっていくドーナンの姿を両目に刻んだセリアは、首の辺りで布をきゅっと掴むときびすを返した。ゆっくり砂地を歩き始めたセリアの顔から笑みが漏れる。

 きっと答えなんて訊かなくてもわかっている。

 だって、ドーナンは幸せそうだった。五人の子供と綺麗な奥さんに囲まれて。住まいこそ手狭だったが、そこには笑い声と愛で溢れていた。

 ドーナンはこの世界で全く新しい人生を歩んでいるのだろう。砂漠の管理という大任に誇りを持っているようで、天なる(アル・フェス)で怠惰な暮らしを送っていたドーナンと同一人物とはとても思えなかった。

 もしかしたら、最初の主人もドーナンと同じように幸せに暮らしているのかもしれない。

 彼のことを思い浮かべるのは怖いし、辛いが、幸せであればいいなと思った。 あの頃の彼はちっとも幸せそうじゃなかったからだ。

 セリアをいたぶることで愉悦を見いだしていた彼は、誉れ高い天なる地の一員であるというのに、いつも暗く双眸を歪ませていた。彼の心から笑った顔をセリアは見たことがなかった。

 ドーナンもそうだ。やさしく笑っていたドーナンだったが、現在のドーナンの笑顔を見たセリアには、一緒にいた頃の笑顔が表面上だけのものに思えた。

 天なる地は花と光に満ちた美しい世界だったが、彼らにとったら正気を失わせる場所だったのかもしれない。苦しみを知らず、働くこともせず、満ち足りた生活だけでは、やがて人は堕落していく。


(辛いことがあるから幸せがわかる……痛みを知るから人の苦しみがわかるの……)


 頭上を見上げたセリアは眩しげに目を細めた。どこまでも続く澄んだ青空。手を伸ばせば触れられそうな気がした。

 つかの間魅入っていると、突然突風が吹き抜けていった。立っていられないほどの強風に、その場にしゃがみ込むと布で全身を覆った。

 やがて、風が止み、再び静寂が戻る。軽く砂を払ったセリアは、また歩き出した。柔らかな砂地は酷く歩きにくかった。

 たったひとりでこの広い砂原を歩き続けながらセリアはふっと前の〈鍵〉のことを考えた。

 前の〈鍵〉はきっと、セリアと同じように天なる地に住む人々の幸せを願ったのだろう。そして、自分たちを虐げた腐敗の地――元は支配階級だった者たちの破滅を望んだ。

 天なる地に住む人々が最初から病んでいたのかセリアにはわからない。

 けれど、とセリアは思う。

 同じ〈鍵〉であったセリアだから思うのだ。

 天なる地は本当に美しい世界だったのでないかと。笑い声の絶えない光に包まれた世界だったのではないかと。

 苦痛から解き放たれ、狂喜する彼らを前の〈鍵〉はとても嬉しく見守っていたことだろう。

 そう、女神のように。


(女神……)


 セリアはハッとした。

 神は天なる地に住む人々を指す言葉であったが、女神は違う。

 セリアはあまり詳しくないが、昔、ドーナンに聞いたことがあったのだ。

 すべては女神アル・クルーチェから創造されたと言い伝えられていると。生命の誕生を司る彼女を敬愛し、女が一人前になった証である内から流れる血のことを、「女神の血」と呼ぶようになったという。女神のように子孫をつくり出す能力のある女が尊いものだと考えられていたようだった。

 女神アル・クルーチェは、すべての生き物の母であり、至高の存在だったようで、数多の神々の中で彼女だけが唯一名を与えられた神だった。

 もしかしたらアル・クルーチェというのが前の〈鍵〉の名前なのかもしれない。憶測に過ぎなかったが、前の〈鍵〉も女だったことを考えると、そう思うほうが自然だった。


(わたし、なんにも知らなかった……でも、今は違う)


 少しずつ今のイ=バールを知っていく。

 知らなかったことを知るのはとても楽しい。

 それは、天なる(アル・フェス)では考えられなかったことだ。

 自分で考えて、

 答えを見つけて、

 自分の力で歩く。

 そんな小さなことがセリアには大きな喜びだった。


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