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   その五

 セリアは、きゅっと唇を引き結ぶと踵を返した。階段を下り、食事の支度をしている母の元へ向かった。


「母さん」

「あら、早かったのね。私が呼びに行くまでお父さんと話し込んでいると思っていたのに」

「仕事の邪魔はできないもん」


 セリアは困ったように笑った。

 記憶が戻る前のセリアだったのなら、母が呆れたように呼びに来るまで父と喋っていただろう。けれど今のセリアは、母たちの知っているセリアとは少し違う。分別をしっかりとわきまえているのだ。


「……なんだか今日のあなたはいつもと違うわね。甘えん坊だった子供がいきなり大人になってしまったようだわ」


 どうしてかしら、少し寂しいわ……と微笑んだ母親に、セリアは胸が詰まった。

 そっと視線を逸らしたセリアは、母の手伝いを申し出た。ふたりで話ながら食事の準備をするのは楽しいひとときだった。ここで生まれ育ったセリアは毎日母の手伝いをしていたようだが、記憶を取り戻したセリアにとっては初めて料理を作るのだ。何もかもが新鮮だった。


「いい匂いだな」


 食卓に料理を並べ終わるとちょうど父が入ってきた。

 がっしりとした体に無精髭が男らしい父親の姿に、セリアはちょっと眩しげに目を細めた。父さんだ、という感慨がじんわりと胸に広がった。


「さ、いただきましょう」


 席についた母親は、セリアにも座るよう促した。

 セリアが母の隣に腰を下ろしてから、父親が神へ感謝の言葉を述べると母も後に続いた。セリアも慌てて繰り返す。

 セリアがちゃんと食べているのに気づくと、母と父は目配せし合い、よかったとばかりに相好を崩した。


「あのね、ふたりに話があるの」


 みんなが食べ終わった頃を見計らってセリアが切り出した。


「どうした? 何か欲しい物でもあるのか?」


 父がやさしく問い返す。

 それに首を振ったセリアは、父と母に順々に視線を移した。


「わたし……わたしね、会いたい人がいるの」


 セリアは掌をぎゅっと握りしめながら告げた。


「でも、その人がいる場所はとっても遠くて……たどり着けるかわからないけど、わたしとってもその人にお世話になって、今こうしていられるのもその人、ううんもっといっぱいの人おかげで……」


 彼らに伝わるとは思っていなかった。両親は、何も知らないのだ。

 腐敗の(アル・クルト)での生活のことも、セリアがどんな苦難な道を歩んできたのかも。

 それでもセリアは必死に言葉を紡いだ。


「だから会いたいの。でももし会えたら、もう二度とお母さんたちに会えないかもしれない……」


 もう戻ってはこられないだろう。そう簡単に行き来できる距離ではなかったからだ。


「セリア、あなた何を言っているの?」


 母は湯飲みを静かに置くと、真顔でセリアを見つめた。


「ごめなさい、母さん。急だってわかってる……、でも、わたし行きたいの……っ」


 セリアの切実な訴えに、父と母の顔が凍りついた。笑みを消し、呆然とセリアを見つめる。

 静まり返ると、あんなにあたたかだった食卓が急に冷えたようだった。窓から差し込む陽射しは眩しく、柔らかにセリアたちを彩るが、精彩を欠いた父と母の表情をさらに暗くみせていた。

 きつく握りしめた掌がじんわりと汗を掻く。それでもセリアは黙って居心地の悪い空間に耐えていた。

 先に沈黙を破ったのは母であった。


「あなたはまだ十四よ? 旅をするには早すぎるわ。もう少し年を重ねたらご挨拶に伺えばいいじゃない。そうね、それなら少しは安心できるわ」


 強ばった顔にぎこちない笑みを乗せ、精一杯明るく振る舞う母に、セリアは辛そうに顔を歪めた。


「今がいいの。今じゃなきゃ駄目なの。だってみんなわたしのことを忘れちゃうかもしれない。だからお願い、母さん。許して?」

「じゃあ、私も一緒に行くわ。セリアがお世話になった人なんて初耳だけれど、それなら親である私もお礼を言わないとね。父さんは、仕事があるから無理でしょうけど」

「つれてけない……つれてけないよ。だって……」


 忘れられた(ドゥワール)のことをどう説明すればいいのだろう。

 絶対に信じてくれないはず。

 この世界の歴史が、実はセリアが神にお願いして創ってもらったものだと言ったらどんな反応が返ってくるだろう。神父の反応を思い出して気分が沈んだ。きっと両親も神父と同じようにセリアの言葉を否定するはず。


「どういうこと? 母さんに言えない理由でもあるといの!?」

「ローリア」


 感情的になる母をたしなめるように父が母の名を呼んだが、彼女は聞く耳持たないとばかりに激しく首を振った。


「駄目よ、駄目っ。許さないわ! 当たり前でしょ? 帰ってこられないなんて……そんな危険な旅に、大切な娘をたったひとりで放る親がどこにいるのよ」

「でも、母さん──っ」

「……っ、黙りなさい!」


 パァンッと乾いた音が響き渡った。

 ぶたれた頬を押さえたセリアは呆然とした。叩かれてのは初めてだった。

 母も愕然としたように己の手を見つめ、震えながらもう片方の手で押さえた。


「ローリア、止めないか。……セリア、部屋に戻っていなさい」

「父さん……」

「父さんも本当は反対だ。それだけは覚えておきなさい」


 セリアは悄然とした様子で立ち上がった。

 母をちらりと見ると、真っ赤な顔でそっぽを向いていた。それでもセリアに手をあげてしまったことには、後悔を滲ませた顔で、近寄ってきた父の胸に顔を埋めていた。

 静かにその場を去ったセリアは、痛む頬を押さえた。痛いのは嫌いだ。過去の辛い記憶を呼び起こさせるから。けれど、母だって痛かったはずだ。だって、セリアを叩いた手も赤くなっていたのだから。

 自室に戻ると、母と父の言い合う声が聞こえてくる。めったに喧嘩をしないふたりだけに、セリアの胸の奥が痛んだ。自分が招いたという事実がセリアを苦しめた。

 閉めた扉に背をもたれ、ずるずるとしゃがみ込んだセリアは、膝を抱え、そこに顔を埋めた。


(でも、わたしは決めたから……。もう、決めたの)


 反対されようと意志は変わらなかった。

 それでも黙って出て行きたくなかったのは、両親と仲違いをしたまま一生会えなくなるのが嫌だったからだ。

 再びセリアが両親と向かい合ったのは、陽が落ちた頃であった。

 ふたりとも真剣にセリアのことを話し合っていたのか、どこか憔悴した面持ちであった。

 父が促すまま席に着いたセリアは、身を堅くした。どんな叱責にも耐える覚悟であった。ここで簡単に諦めるようだったら、セリアは端から口にしていなかった。

 つかの間、沈黙が訪れる。みんなきっかけを探しているようであった。

 先にこの重苦しい空気を払ったのは、母だ。彼女は深くため息を吐くと、一度閉じた目をゆっくりと開いた。その目は赤く、瞼は腫れぼったくなっていた。きっと泣いたのだろう。


「もう、決めたのね? 私たちが反対しようと、その考えは揺るがないのね?」


 静かな母の問いにこくりと頷くと、彼女は苦く笑った。もう怒っていないようだったが、悲しげに双眸を曇らせていた。


「セリア、お前はまだ世の中のことを何も知らない。外は甘くはないぞ」


 口をつぐんだ母と入れ替わるように、父が厳しく言った。


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