その四
「バラッド……神さまのお名前……」
呟いたセリアは、ふっと老神父から、彼の背後に視線を移した。
色硝子を背に建っている白い像。
創造主バラッドを象ったそれは、清麗で、侵しがたい雰囲気に包まれていた。背が高く、顎髭を伸ばした老人の姿をしていたが、口元や目は慈しみに溢れていた。
「そうですよ」
セリアの視線を追うように像を見上げた老神父は、両腕を交差させ、拝礼した。
「本当に? 本当にそれが神さまのお名前?」
どうしてかしっくりこなかった。もっと別の名前を知っている気がするのだ。
セリアがすがるように尋ねると、振り向いた老神父はゆっくりと首を横に振った。
「秩序あるイ=バールを創られた創造主バラッド以外に偉大なる神はおりません。欠かすことなく祈りの日に教会へ足を運び、なぜそのような考えにたどり着くのか……」
「でも、…でも、神父さま……わたしはもっと違うお名前を……」
知っているような気がするのだ。
セリアは再び神を象った像を見上げた。
――神はあんな姿だっただろうか?
そう疑問に思ったそのとき、こめかみがずきんと傷んだ。
――神はバラッドという名だっただろうか?
疑問が深まるごとに、痛みが激しくなる。
「……──っ」
耐えきれず、頭を押さえてうずくまったセリア。
「どうしました?」
顔色を変えた老神父がセリアの上半身を持ち上げた。
けれど老神父の問いかけに答える余裕などセリアにはなかった。激痛に支配されながらも、ゆっくりと疑問が持ち上がる。
(イ=バール……)
それがセリアの住んでいる世界の名。
暮らしは豊かではないが、だれもが笑顔で、助け合って暮らす世界。
(でも、わたしは……)
もっとほかの世界も知っているような気がする。
そう強く感じたそのとき、ぱぁんと頭の中の何かが割れた気がした。
晴れていく――。
そう、霧が晴れていくかのようだった。
あれほど激しかった痛みが引き、脳裏に様々な出来事が思い浮かんでは消えていった。
「だれか薬師を……」
「だい…じょうぶ、です」
奥の部屋にいる聖職者に呼びに行かせようとした老神父を制したセリアは、彼の手を借りながらゆっくりと立ち上がった。
「病かもしれない。薬師に診せたほうが……」
案ずる老神父に、セリアは心配ないとばかりに微笑んだ。その顔は晴れ晴れとしており、先ほどまで苦悶を浮かべていたのが嘘のようだった。
「思い、出したんです」
セリアはそっと胸に手を置いた。
(どうして忘れていたんだろう……あの人やウィズたちのことを……)
「神父さま、わたし、とっても大事なことを思い出したんです。とっても、とっても、大事なこと」
戸惑っていた老神父は、セリアのしっかりとした口調にようやく表情を和らげた。薬師の必要がないと悟ったのだろう。
「神父さまのおかげです。悩みを聞いて下さって、ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をしたセリアは、「あなたに主の祝福を」と穏やかに微笑む老神父に背を向けて走り出した。
家に戻ったセリアは、庭で花の手入れをしている母親に気づくと、後ろから抱きついた。
「母さん……!」
「まあ、どうしたの? 早かったのね」
ああ、母の匂いだ。ずっと恋しく思っていた母の香り。あたたかい温もり。記憶の中の母よりふっくらしていて、健康そうだった。やさしい黒水晶の目だけが変わらない。
ずっとずっと会いたかった。
ずっとずっと声を聞きたかった。
涙がこみ上げてきそうになるのをぐっと堪え、わずかに唇を震わせながら口を開いた。
「母さんは幸せ? 今、幸せ?」
「なんなの急に……でも、そうね。幸せよ、とっても。当たり前じゃない」
恥ずかしそうに呟く母。
腐敗の地で暮らしていたとき、父が連れて行かれてからは暗い顔をしてばかりだったから、幸せという母の言葉を聞いてセリアの胸はいっぱいになった。自分のしたことは間違っていなかったのだ。
「あなたがいて……お父さんがいて……毎日が大変だけど、とても楽しいわ」
「わたしも……わたしもとっても幸せ。ほんとに夢みたいよ……」
「大げさね」
くすりと笑った母。
けれどセリアとってはちっとも大げさなんかではない。叶わない夢だと諦めていたのだ。またこうして触れあえるとは思わなかったのだ。
「父さんは?」
「仕事場にいるわ」
母と別れたセリアは家の奥に造られた仕事場へ走った。
大きな窓から注がれる光の中に父の姿はあった。大きな背中。記憶の中にあるよりもずっと逞しく、広く見えた。
入口で立ち止まったセリアは、そっと仕事場を覗き込むと、滲んだ涙を指先で拭った。
セリアは、さらわれた父がどんな人生を歩んだのか知らない。
働き手として連れて行かれた父は、きっとセリアよりも酷い扱いを受けていただろう。
セリアが数多くの命を無惨に奪ってしまったあのとき、父の命ももしかしたら含まれていたのかもしれない。そう考えると改めて己がしでかした事の大きさと、罪深さを思い知るのだ。
けれども、こうして父の生き生きとした姿を見ると、たとえようのない感情がこみ上げてくる。
母よりもずっと早くに生き別れてしまった父。それがこうして目の前にいるのだ。
母と同じくらい大好きだった父。
腐敗の地で、セリアたちは精一杯肩を寄せ合いながら生きていたのだ。その頃のことを思い出したセリアの目から、ついに堪えきれなくなった涙がポロポロと零れ落ちていく。
「──……ふ…ぅっ」
ようやく。
ようやく手に入れたのだ。家族との安穏とした生活を。
それはセリアがずっと思い続けていた夢であった。神は本当に願いを叶えてくれたのだ。
袖で涙を拭ったセリアは、父の仕事の邪魔をしないよう部屋を離れた。自室に戻ると寝台の上に倒れ込む。
「わたしの居場所……」
ぽつりと呟いたセリアは、きゅっと眉を寄せた。
ふっと脳裏に浮かび上がるのは、隻眼の美しいあの青年だった。黒髪のあの人……。記憶を失っていたセリアがずっと思い出せなかった人。グルグリッドやウィズたちよりも心に残っているのは、それだけ彼が特別だったからだろう。
(勝手にいなくなったわたしのこと、怒ってるかな……。お別れ、ちゃんと言いたかったのに)
もう少し神さまが待ってくれたら、ちゃんと別れの言葉を告げられたのに。
いや、違う。
(わたし、もっといたかったんだ……あそこに……)
セリアの心が震えた。
点となった光が、急に広がったような、そんな心地がした。
忘れられた地のことを考えると胸が熱くなる。記憶が戻った今でも、ここに居場所がないように感じるのは、忘れられた地に居場所があるからだろうか。
(神父さまは自分だけが答えを知っているとおっしゃたけど、忘れられた地に行きたいって望むわたしの行為は正しい? 大好きな母さんと父さんを置いてでも、忘れられた地に行きたいって思うの)
すっと寝台から下りたセリアは窓を開けて、雲一つない晴れ渡った空を見上げた。
(──それに、わたし、まだあの人の願いを叶えてあげてない。わたしばかり幸せで……それって違う。わたしはあの人にも幸せになって欲しいの)
脳裏に浮かぶのは、最後に見た寂しげな笑みだった。
彼の表情を曇らせたのは自分だ。自分のことに精一杯で、残される彼の気持ちなど考えもしなかった。今、彼はどうしているのだろう。ウィズたちと一緒にいる? それともグルグリッドが虚無で過ごしていたように孤独でいるのだろうか。
(そんなの寂しいわ。……ううん、わたしが寂しいだけね。一緒にいたいのはわたしのほう)
ゆっくりと睫を上げたセリアは、黄金の双眸を煌めかせた。強い意志を秘めた目は、まるで何かを決意したようであった。




