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   その三

 外は闇に包まれていたが、室内は蝋燭の淡い光に覆われていた。

 開かれた窓から、隣家のはしゃぐ声が聞こえてくる。楽しそうな声の中には、ときおり母親らしき人の怒鳴りつける声もあった。

 それに比べて、セリアの家は静かだった。

 創った装身具を隣町まで売りに行っていた父親は、疲れた様子ながらも言い値で売れたと嬉しそうに語り、母親は相づちを打って父親をねぎらっていた。

 会話はどこまでも穏やかで、喧噪などからはほど遠い。ときおり賑やかに騒ぐ声も羨ましく思うこともあったが、セリアはこの落ち着いたあたたかい空間が大好きであった。

 けれど今日はなぜか気分が盛り上がらなかった。父と母の会話をぼんやりと聞き流しながら、食卓に置かれたスープを木の匙でかき混ぜた。すでに冷めてしまったスープは野菜とお肉がたっぷりと入っていた。それに薄く切った固いパンと、大魚を香草と一緒に蒸し焼きにした料理が大皿に乗っていた。

 父親は、チーズをじゃが芋にたっぷりとかけて焼いた料理を手に取ると、木皿の上に大盛りにしてのっけた。それを母に回すと、彼女は少しだけ皿に盛った。 母親はいつものようにセリアにも回そうとしたが、セリアは首を振って拒否した。

 母親の作る料理はどれもおいしくて、いつも残さず食べていたが、今日はなぜか見るだけでお腹いっぱいになった。


「どしたの? セリア。食欲がないようね」

「顔色も冴えないようだが、なにかあったか?」


 セリアの様子を気がかりそうに見つめる両親。

 母と父の言葉に曖昧に笑ったセリアは、弄んでいるだけだった匙を深皿の横に置いた。


「……ご馳走さま」

「ほとんど食べてないじゃない。具合でも悪いの? 薬師さまに一度診ていただいたほうがいいかしら……」


 母親は心配そうに眉を寄せた。


「ううん、大丈夫」


 努めて明るく否定したセリアは、両親の視線から逃げるように部屋に引っ込んだ。


(なにかが違う……なにかが足りない……)


 違和感にそっと胸を押さえた。

 母さんがいて、父さんがいて、親友のディアもいて……楽しい毎日で、満ち足りているはずなのに、胸にはぽっかりと穴が空いているようだった。


(それに、あの人は、だれ……?)


 ずっと脳裏から消えないのだ。黒髪の人のことが。男か女かもわからない。ただ黒髪という事実だけが強く印象に残っていた。


「神さま……わたしは一体なにを忘れているのでしょうか?」


 小窓を開いたセリアは、闇の中にあってひときわ輝く白銀の月に向かって神に問いかけた。

 けれど答えは返ってくるはずもなく、就寝前の祈りを神に捧げたセリアは、寝台に横たわり、静かに夜が更けていくのを待った。

 翌朝、朝食を食べ終わったセリアは母の手伝いをし終えると外出する旨を伝えた。

 前掛けで手を拭いた母親は、セリアの目の下にできたクマを見つめたが、あえてそれに触れず微笑んだ。


「なあに、珍しいわね、教会へ行くなんて。祈りの日は明日のはずだけど」


 祈りの日は、教会が定めた神の声を拝聴する日のことである。その日になると、神の代理である神父が集まった民衆に向かって聖書を読み聞かせるのだ。


「うん……神父さまにお会いしたいの」

「そう。気をつけてね」


 その言葉だけで母親にはセリアが神父に会って何をしたいのか伝わったのだろう。セリアが頼ったのが家族ではなく神父だと知った彼女は、ほんの少し寂しげに瞳を曇らせたが、それでも穏やかな笑みを浮かべると娘を送り出した。

 セリアは町の中心にある教会へ走った。浮き彫りの彫刻が美しい洗練された建物は、どの家よりも立派で大きい。大理石の石段を駆け上がったセリアは一度立ち止まって呼吸を整えた。


「はぁ…はぁ……っ」


 重厚な扉は、まるでセリアの決意を挫くかのようにぴったりと閉じられていた。今日が祈りの日ではないこともあって人の出入りがないのだろう。

 ごくりと唾を飲み込んだセリアは意を決すると金に輝く取っ手に手を伸ばし、ゆっくりと扉を開いた。厳かな教会の扉をくぐると、七色に輝く色硝子がセリアを出迎えてくれた。

 一瞬、その静謐な空間に息を呑む。

 清らかで厳粛な雰囲気に包まれた教会内は、それはそれは畏怖される神々しさだった。

 感嘆としたため息を思わず漏らしたセリアが視線を巡らせると、教壇のそばにいる神父を発見した。


「神父さま!」


 入口から伸びる細い通りを転ばないよう走ったセリアは、純白の衣をまとった老人の前に跪き、両手を胸の前で交差させた。


「どうしました?」


 セリアに背を向けていた老神父は、振り向くと穏やかな声音で問いかけた。

 その包み込むような声音に胸を熱くしながら、セリアは顔を上げた。


「わたし、とっても不安なんです……。わたしの居場所はここにあるのに、それが違う気がして……」

「悩める魂よ」


 深い知性あふれる眼差しをやさしく細めた老神父は、セリアの額の前にすっと右の指先を持っていくと、中指と人差し指をくっつけたまま下から上に動かした。

 これは、祈りの日の最後に行われる清めの行為と同じだ。「心、清らかなれ」という神の言葉に従い、神父は民の魂を清浄にしているのだ。


「いつの日か時が解決してくれることでしょう」

「時が?」

「みな、だれしも居場所を探しながら生きているのです。わたしの場所はこの教会でした。長く遠回りをした果てにようやくたどり着いたのです。悩みなさい。そして、前へ進むのです。まだあなたは深い霧の中にいる。けれど霧はいつか晴れるもの。その先にきっとあなたの望むものがあるはずです。我らが主は、わたしたちに道を用意してくださっているんですよ」

「道……?」

「そう、わたしたちがたどり着く場所までの道を。道を逸れたとしても、最後にたどり着くのは安息の地。それは変わらない事実です。霧の中に迷い込んでしまったあなたは、まだ気づかないのかもしれないですね。我らが主は、あなたに試練をお与えなのです。わたしが長くさまよったように。けれどきっとあなたにも見つかるでしょう。いつだってあなた自身の中に答えはあるのですよ」

「わたし、自身の……」

「創造主バラッドの導きがありますように」


 厳かに祝福した老神父は、指先をセリアの額に当てた。

 あたたかい指先がじんわりと額から広がり、体を包み込んで行くかのようだった。神父がまとっている崇高な空気がセリアにも伝染していくかのようだった。

 感嘆としたため息を吐いたセリアは、段の上に立つ老神父を見上げた。皺が刻まれたやさしげな顔立ちは、畏怖よりも敬愛を感じるようであった。町の者はみな、この神父を慕い、悩みを聞いてもらっているのだ。


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