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   その二

 天なる地で働いているのは、みな常世の地の清き(ヴィー)()と呼ばれている者だけである。彼らだけは自由に、天なる地と常世の地を結ぶ神なる(ツォーラ)を渡ることができるのだ。

 あるとき、セリアは若い侍女に尋ねたことがあった。


「わたしは通れないの? 神なる道をはどこにあるの?」


 清き民である若い侍女は少し困ったように首を傾げた。


「セリアさまがこの天なる地にいらっしゃるのは、神なる道を通ったからにほかならないでしょうけれど、その場所をお教えすることはできません。いかなる場合であろうとも、選ばれない者にお教えすることは禁じられておりますので」


 セリアには神なる道をを通った記憶がなかったし、天なる地の神なる道は、ドーナンの屋敷から見えなかったのだ。

 腐敗の地から伸びる神なる道ならばセリアも知っていた。金色に輝く柱のように空に向かって伸びる道を見ていたからだ。セリアが住んでいたところからは、それは美しく見えたものだ。暗闇の中にあって唯一明るい、希望の光のようだった。

 けれど腐敗の地の住人がそこに近づくことは許されなかった。常世の地の住人が交替でだれも侵入しないか見張っているのだ。近寄ろうものなら容赦なく命を奪ったという。


(清き民のように神なる道を知ってたら、わたしは今頃、ご主人さまの元から逃げ出してたのかな。……ううん、無理。だってわたしは奴隷だもの……。どこへ行ったって、それは変わらない)


 仰向けに寝ころんでいたセリアは、悲しげに顔を覆った。

 セリアがまだ小さかった頃、父が奴隷として天なる地に連れて行かれた。

 父を失い、嘆き悲しんだ母は、憔悴し病を患った。

 セリアは必死に病を治そうとしたが、薬もなく、医師のいない腐敗の地では、小さな怪我でさえ命取りだった。息絶えていく母親をセリアはただ見ていることしかできなかった。

 為す術もなく、呆然としている小さなセリアに、手をさしのべる者などだれもいない。ほかに頼れる者などいないセリアには、ひとりで過酷な毎日を生き抜いていくしかなかったのだ。


 けれど、腐敗の地ではそんな光景もさして珍しくない。生きる力がない者が死ぬのは自然の摂理であった。みんなその日を生きることに精一杯で、他人を構っている余裕などないのだ。

 セリアのように親を連れて行かれたり、亡くしたりしている子供は多くいた。それでも彼らは屍の上を這おうとも生きることを諦めたりはしなかった。地面を掘ってわき出た泥水をすすり、蔓や土をくらい、必死に生きようとしたのだ。その先にもっと残酷な運命が待っていようとも。

 だが、セリアは彼らのように強くはなれなかった。愛する母までも失い、生きることに絶望したセリアは、母のあとを追おうと底なし沼に飛び込もうとした。

 そんなとき、悪漢と呼ばれる男が現れたのだ。

 公然と腐敗の地で見目のよい子供や娘をさらっては、常世の地や天なる地の住人に高値で売っているという、下劣な職業を生業とする男だ。


 黒髪に黒い瞳を持つ者は腐敗の地の住人。

 茶色に茶色の瞳を持つ者は常世の地の住人。

 金髪に蒼い瞳を持つ者は天なる地の住人。


 その三つの種族で分かれている中で、セリアの色は非常に珍しかったのか、男はすぐさま興を惹かれたようだった。

 セリアを持っていた麻袋に入れて、すぐに腐敗の地を離れたのだ。麻袋の中で揺られているうちに急激な眠気が襲ってきてなぜか眠ってしまった。だから競売にかけられるまでの記憶は一切なかった。


(戻りたい。父さんと母さんがいたあの頃に……。生活は苦しかったけど、ふたりがいたから、わたし、とっても幸せだったのに……っ)


 父と母のことを思い出すと、閉じられた瞼の裏がじんと熱くなった。

 天なる地で奴隷として働く実の父を捜さなかったといえば嘘になるだろう。それとなく父を捜していた。ドーナンに頼めば簡単に調べてくれただろうが、従順たる奴隷であるセリアにはお願い事などいえなかった。

 そうして悶々としていたある日、若い侍女から衝撃の事実を聞かされた。

 この天なる(アル・フェス)に連れてこられる奴隷は、すべて天なる地の住人の玩具なのだと。

 健康な男ならば遊びの駒としてぞんざいに命を弄ばれ、若く美しい娘ならば、戯れに手をつけ、子を孕んだら母子ともども殺すか腐敗の地に落とすのだという。

 セリアのように生きているのはほんの一握りだそうだ。

 それを聞いたセリアは父を捜すのをやめた。事実を知らない限り、生きているかもと希望がもてるからだ。もちろん、その希望は、糸よりも細いだろうが。それでも心を強く保つにはその微かな光にすがるしかなかったのだ。

 長い間思いにふけっていたセリアは、暗くなる気持ちを振り払うように、寝台から離れると大きな窓に近寄った。セリアがこの地に来たそのときから、まばゆい太陽は頭上にあり続ける。

 柔らかな陽射しはきつくなく、包み込むような温かさがあった。

 光のない闇に閉ざされた腐敗の(アル・クルト)で暮らしていたセリアは、はじめて太陽なるものをみたときあまりの眩しさに目が開けられなかった。灼かれるかと思ったのだ。それほどに強烈であった。

 腐敗の地で光といえば、発光(はっこう)(せき)の淡いものか炎の猛々しい灯りだけだ。その中で病的なまでに青白い腐敗の地の住人の肌がきらきらと光るのが、唯一幻想的で美しかったかもしれない。


「失礼します」


 軽く扉を叩かれたあと入ってきたのは若い侍女であった。真っ白なお仕着せの服に身を包んだ彼女は、セリアが外を眺めているのに気づくと人好きのよい笑顔を浮かべた。


「湯浴みの時間でございます」

「もう……?」


 この地にいると時間の感覚があいまいになってしまう。つい先ほど入ったばかりだと思っていたら、もうそんなに時間が過ぎていたのだろうか。天なる地の住人は、日に二度も湯に浸かる。起きたときと寝る前だ。すでに一番目の湯を浴びたのだから、今度は就寝前の湯浴みだろう。とても時間の流れが速く感じられた。

 けれど彼女の言葉を疑うべくはない。

 常世の(アル・ドラーナ)の住人である若い侍女は、自由気ままな生活を送る天なる地の住人と違って時間をちゃんと知っていた。

 数の数え方を知っているのは常世の地の住人だけだ。そのため清き(ヴィー)()は、この世界にいても時を知る術を知っており、一日の区切りがどこにあるかわかっていた。

 腰に巻いてある木の枝が時間を告げてくれるようであったが、セリアにはただの枝にしか見えなかった。

 若い侍女はいつもの小さな湯殿ではなく、さらに奥へと続く回廊を渡り、もっと豪華な湯殿がある建物へと案内した。

 周囲を花々で満たした中央に、彫刻が刻まれた黄金の建物があった。いくつもの支柱に支えられたその建物は、風通しの良い吹き抜け仕様だった。

 半円を描く入口を覆うかのように下がった薄い布が風に乗ってひらひらと揺れる。

 それを待ちかまえていた使用人が淑やかに持ち上げ、セリアたちがくぐるのを低頭で見送った。


「旦那さまの特別な許可がおりました。本日よりこの湯殿をご使用するようにとのことです。セリアさまのためにとずいぶんと前からお造りになられていたそうですよ」

「な、……んで」


 セリアの呟きが掠れた。

 けれどそんな戸惑うセリアに構うことなく、さっと服を脱がした若い侍女は、並々とお湯がはられた広い湯殿へ導いた。

 黄金と宝石に彩られた湯殿は目が眩む美しさであったが、動揺しているセリアには、花びらの浮いた湯もあせて見えた。

 体を隅々まで洗われ、甘酸っぱい香りのする湯に胸まで浸かっていると、侍女がとろりとした液体を湯の中に入れ、セリアの体の上にも垂らしていった。


「これ、なあに?」


 いつもと違うやり方にセリアが不安そうな声を上げた。


「薔薇の香油です。これを塗れば肌はますます透き通り、潤うそうですわ。天なる(アル・フェス)のご令嬢方の間で評判がよろしいようですけれど、さすがに真珠色とはいかないようですわね」


 天なる地の住人の肌は少し黒い。

 太陽に長くさらされているせいか、上質な土を塗ったかのような褐色だった。けれどその分、光沢があり、腐敗の地の住人が魅せる青白さとは違った、なにもかも吹き飛ばすような力強い輝きがあった。


「もちろんまだ若くていらっしゃるセリアさまはこのようなものに頼らなくとも十分お美しい肌をお持ちですが」


 彼女は、ほんのりと色づいたむき出しの肩や首、腕などを香油のついた手ですり込むように動かしていく。きつい薔薇の香は、甘酸っぱい花びらの香りと混じり合い、喉に絡みつくようだった。


「じゃ、ぁ、な、んで……」


 絶え絶えに声をしぼり出すセリアの顔は、ほんの少し強ばっていた。


「特別だからですわ」

「とくべつ? なぜ?」


 セリアの問いかけに若い侍女は答えなかった。ただ意味深に浮かべた笑みを深めただけだった。

 困惑したままなすがままのセリアに、透けた布を幾重にも重ね、着せていく。


「寝るのにどうしてめかし込むの?」

「特別だからです」


 さあ、と促され、歩いていくセリアの足取りはどこか重い。

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