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   その五

 霧の一族が、忘れられた(ドゥワール)でも並外れた身体能力を持ち、〈鍵〉に近い容姿を保っているのも、言葉を持たない獣であった祖先が〈鍵〉を襲い、その肉の一部を喰らったからだ。

 けれどその代償は重かった。

 名を持たぬ君が霧の一族を捨て置くことはなかったのだ。〈鍵〉の力を手に入れた祖先だけが辛くも生き延び、名を持たぬ君から隠れるように暮らしてきたのだ。

 以来、名を持たぬ君の不興を買わぬよう掟が定められ、よほどのことがない限り群れの外へ出ることは禁じられた。

 けれど時代と共に恐怖も薄れ始めたのか、〈鍵〉が持つ力のことは畏怖とともに伝わっていた。

 その言い伝えのせいで、霧の一族の中には、半ば本気で〈鍵〉の血肉を喰らいたいと望む者もいるのだ。

 それをロウも知っていたが、本当に〈鍵〉の血肉に力が秘められているとは信じていなかったのだ。

 けれどたった一滴の血で、ここまで驚異的な力をもたらす結果をふまえると〈鍵〉という存在が持つ意義を改めて考えさせられる。

 弱肉強食のこの世界で、〈鍵〉がもたらす力は甘い蜜だ。弱い者ほど貪欲にその力を求めるだろう。黒樹もまたそれに気づいているからこそ、執拗にセリアを狙うのだ。


「ハッ、いい気分ジャン。やられっぱなしは性に合わないっていうの!」


 ロウは圧倒的な力で、襲いかかってくる黒樹を一瞬で消し去っていく。

 呆然としていたウィズもロウに負けじと応戦するが、その差は歴然としていた。

 それでもウィズはロウと同じように〈鍵〉の血を飲もうとはしなかった。昔の勘が戻ってきたのか、キレのある身のこなしで、黒樹の攻撃を封じていく。

 ふたりの勇猛により、黒樹がだんだん勢力を失っていくが、彼らはすっかり失念していた。〈鍵〉の血を含んだものがほかにもいたことを。

 真っ黒な葉っぱが次々と枝から離れると、針のように尖端を細く丸め、セリア目がけて飛んだ。

 まるで雨のように降り注ぐ葉っぱに、セリアのそばに戻ったグルグリッドが剣で応じるが、防ぎきれなかった葉っぱがグルグリッドとセリアに突き刺さった。


「……ととっ、うわっ!」


 精気を吸われ、くらりと眩暈を起こしたグルグリッドが一瞬の隙を突かれて枝に囚われた。空高く投げ出された体が宙に舞う。


「! リンリンッ!」


 痛みに耐えながらセリアが叫ぶ。

 けれどセリアにはグルグリッドを心配している暇はなかった。グルグリッドを捕らえた枝が今度はセリアに迫ったのだ。


「セーア!」

「姫さんっ」


 気づいたロウとウィズが焼き払おうとするが、絡みついた枝のほうが速かった。

 あっという間にセリアの体は高く上げられた。セリアに突き刺さっていた葉っぱが、嬉々として肉をえぐり、血を吸っていく。

 そして、その血を求めるかのように無数の葉っぱが枝から離れ、セリアを覆った。


「セリア! なんでこいつらにこんな力がっ」


 放り出されたとき、とっさに空中に留まったグルグリッドは、方向を転換して上空にいるセリアのもとへ駆けた。

 だが、助け出そうと奮闘するグルグリッドを嘲うかのように、葉が殻のようにセリアを包み込んで離さなかった。

 グルグリッドは、中にいるセリアを傷つけないよう配慮しながら剣を突き立てたが、硬い甲羅で出来ているかのように剣先をはじき飛ばした。

 〈鍵〉の力を宿した黒樹もまた、変化していたのだ。より、強く――。


「なんで……っ、どうして! せっかくここまで来たのにっ。セリア、死んじゃ駄目だよ。それって絶対なんだから!」


 グルグリッドは、必死に叫ぶが隙間なく漆黒の葉で覆われたセリアの耳には届かないだろう。刃の欠けた剣をがむしゃらに打ち付けながら、グルグリッドはセリアに声をかけ続けたのだった。

 一方、空を飛べないウィズとロウは、地上で歯がみしていた。

 セリアがいないなら用はないとばかりに、彼らへの攻撃はすでに止んでいた。黒樹の注意がいっせいに空高くにいるセリアへ向けられる。

 今度は仲間同士の激しい戦いが繰り広げられていた。

 セリアが無事かどうか知る術をもたないウィズは、万策尽きたかのような顔で絶望に顔を青ざめさせていた。

 もしセリアに何か遭ったならば、ウィズたちの命はないだろう。

 いや、城を抜け出した時点で、罰せられる覚悟はできていた。名を持たぬ君は逆らった者には容赦ないからだ。

 それがわかっていてもウィズはセリアの頼みを叶えることを優先したのだ。

 名を持たぬ君は絶対に許してはくれないだろう。

 ウィズは、隣で悔しげに顔を歪めているロウに視線をやった。


「ロウ、ここから去るでやんす」


 名を持たぬ君はきっとロウの存在などお見通しだろう。

 けれど、一緒にいなければ断罪されることはないかもしれないと薄い望みを抱いたのだ。

 冷酷な名を持たぬ君が甘さなど持っているはずはないと、そんなことは仕えているウィズがだれよりもよく知っている。

 それでも、ロウには生きていて欲しかったのだ。ウィズさえいなければ、彼はこうして巻き込まれることはなかったのだから。


「姐さん? なに言ってるのサ」

「主殿はもしかしたらロウのことを見逃して……」


 ウィズの言いたいことを察したのか、片眉を上げたロウは怒ったように睨みつけた。


「オレは、嫌だネ。姐さんに責任を押しつけてオレだけ逃げるのなんか絶対やだ。第一、〈鍵〉の血を舐めたオレを名を持たぬ君が許すものか。どうせ罰を受けるなら、姐さんと一緒がいい。絶対一緒にいる。死んでも離れるものか」

「ロウ……」

「どうして姐さんはそう勝手なんだよ。姐さんがいなくなってだれも気にしないと思った? みんな騒いで大変だったんだからネ! だいたい、どれくらいぶりだと思ってるのサ。ちっとも戻ってこないで……。そんなにあの方のそばにいたかった? オレのことなんてどうだってよかったんだ。姐さんがいなくなってオレすっごく毎日が退屈だったのにサ。それってかなり酷いジャン。オレを育ててくれたのは姐さんだよ。ちゃんと責任取ってよネ!」


 ウィズは深くため息を吐いた。


「……お馬鹿ざんすね。ロウが死んだら長老たちが悲しむざんす」

「姐さんくらいだよ、オレのこと馬鹿って言うの。……けど、そうやってちゃんと叱ってくれるのも姐さんだけだ」


 どこか嬉しそうに語ったロウがウィズの手を握った。

 強く、強く。決して離れないよう。

 ロウの温もりに触れながら、ウィズはゆっくりと目を瞑った。まるでこれから起こることを黙って受け入れるかのように。

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