その四
暗がりの谷。
そこにバティ=ラグが眠っているという。
真っ黒な葉の間から漏れる金色の光は美しく、ウィズの首に腕を回して眺めていたセリアは思わず魅入った。
ウィズとロウは木と木との間を跳ぶように走っていく。
目まぐるしく変わる景色。
「……ッ」
ふっと頬を走った鋭い痛みに息を詰めると、ぴくっと耳を動かしたウィズがぴたりと足を止めた。それに気づいたロウも戻ってウィズの隣に並んだ。
「姫さん、どうしたでやんすか?」
「ぁ……」
なんでもないと首を振ろうとしたセリアだったが、痛むところに触れるとぬるっとした。手には真っ赤な血がべったりとついていた。それほど深くないと思うが、じんじんと痛む頬からは大量の血が滴り落ちていく。
ザワザワッ
風もないのに葉が激しく擦れ合ったと思ったら、すっと地面に向かって落ちる血を奪い合うかのように枝が伸びた。しゅるしゅると伸びていく様は、まるでセリアとグルグリッドを襲った蔦守のようだった。
しかし、蔦守のように柔軟性はなく、石のように固い枝同士がぶつかると乾いた音を立てて折れた。
「姫さん、しっかりで捕まってるでやんす」
ウィズは蠢く木々から離れるように跳躍した。
「まァ~ったく、調子のるんじゃないってェ~の! 植物は大人しく地面に埋まってなッ」
ロウは、血を求めるように伸びてくる無数の枝を鋭い爪で切り落としながら、ウィズの後を追った。
前方から襲ってくる枝をウィズも払っていたが、いかせん数が多すぎた。
森の中で圧倒的に不利なのはウィズたちである。炎の球で焼き払っても怯まず襲ってくる木は、さながら甘露を求めるようにどん欲にセリアを狙っていた。
「姫さんの血が美味しいことに気づいたでやんすね」
苦々しく呟いたウィズは、両手から炎を連弾で放つと、周囲の木を燃やし尽くした。
普段は、太陽や水から養分を摂っている黒樹であったが、元は生きている者から精気を吸い取る闇の植物だ。昼間は活発に行動しない性質であったため油断していたが、セリアの血で本能が目覚めてしまったのだろう。
四方を黒樹に囲まれた状態では、強靱を誇る霧の一族であろうとも骨が折れた。長期戦となれば、圧倒的に不利である。
次第にウィズとロウにも疲労の色が見え始めた。その体はボロボロだ。
「はァ、はァ……クソッ、しっつこいなァ~!」
舌打ちしたロウは、汗を拭う間もなく応戦していた。
その様をを震えながら見つめることしかできないセリアは、どうすればいいのかずっと考えていた。
と、そのとき、視界の端に何かが映った。
「きゃ……っ」
ウィズとロウの手を逃れた枝がセリア目がけて伸びてきた。
しかし、寸前でその枝は切られた。
「ふふんっ、虚無の番人グルグリッドさまの参上だいっ!」
高らかに言い放つその手には剣が握られていた。
「リンリン……」
「ほいさ、オイラをお呼び? まさかアンタがこんなとこにいると思わなかったよ」
それはセリアの台詞である。暗がりの谷にいるものだとばかり思っていたのだから。
宙に浮かんでいるグルグリッドはものすごく元気だ。動けないほどに痛めつけられたのが嘘のようだった。セリアとは違い、ウィズたちのように回復力が早いのだろう。
「城へ迎えに行ったらいなかったから、オイラ探し回っちゃったよ。黒樹が暴れ出さなきゃすれ違ってたかも」
「その甲高い下品な声を少し閉じてくれない~? かなり耳障りジャン」
苛立たしげにロウが口を挟んだ。
「ロウ! 虚無の番人に対してなんて口の利き方をするでやんすっ」
「え~、だってさァ、姐さん。神の手下が忘れられた地にいるのってかなり迷惑だし~。……っていうか、ほんとキリないんだけど」
軽口を叩きながらも攻撃の手を緩めていなかったロウが舌打ちした。
「もうっ、イライラする~! なんだってこんなに数が多いのサ。ねぇ、姐さん、ここはやっぱ禁じ手を使っちゃおうよ。せっかく〈鍵〉がいるんだしサ」
「! なに馬鹿なこと言ってるでやんすか! そのせいで霧の一族が主殿からどんな目に遭ったか知ってるざんしょっ」
気色ばむウィズに、ロウはなだめるように言った。
「まァまァ、モノは試しってネ! だいたい、このままだったら負けるし~。それって姐さんの本意じゃないっしょ? セーアがこれ以上傷ついたら、名を持たぬ君はそっちのほうを怒ると思うけど」
「ぅ……」
言葉につまったウィズは、それでも難色を示した。
ウィズの合意を取るよりもセリアを落としたほうが早いと考えたのか、ロウはグルグリッドに守られているセリアに訊いた。
「セーアだってオレたちの役に立ちたいだろ?」
「う、うん……」
ウィズたちを心配そうに見守っていたセリアは、突然の問いかけに戸惑いつつも頷いた。
姫さんっと焦るウィズとは対照的に、ロウはほくそ笑んだ。
「そこの役立たず、オレの代わりにちゃんと防御してよネ」
「オイラは役立たずなんかじゃない! なんて礼儀知らずっ。いくら温厚なリンリンさんでも怒っちゃうぞ」
「うわっ、キモッ。孤独って精神を蝕むって聞くけど、アレだよネ。かなりイっちゃってる感じジャン」
ひくりと頬を引きつらせるグルグリッドに構わず、合図もなしにセリアの正面に移動したロウは、嘲るように口の端を持ち上げた。
「ちょっ、ちょっと! オイラにだって心構えってものがあるのにっ」
グルグリッドは慌てて宙を飛んでロウの位置と入れ替わったが、剣しか持たないグルグリッドは苦戦していた。
「ロウの無礼はわちしが謝るざんす……」
それを見てウィズが申し訳なさそうに謝った。
弟のように思っているロウの無作法はちゃんと躾けなかった彼女の恥であった。
「なにサ、失礼だネ」
不服そうに彼らを一瞥したロウは、おろおろとしているセリアに顔を近づけ、止めどなく流れる血を舌で舐めとった。
驚くセリアとは反対に、ロウはにやっと好戦的に笑うと、掌を黒樹に向かってかざした。
とたん、それまでとは違う巨大な炎が放たれた。爆音が響き渡る。
「すごいジャン! これが〈鍵〉の力!? 霧の一族が〈鍵〉の血肉を求めるのもわかる気がするっていうかサ。ホント、あの方が大事に護るワケだよネ~」
ロウは縦長の瞳孔を細め、唇を舐めた。〈鍵〉の血が全身に流れ、力がみなぎってくるかのようだった。




