その三
一瞬で景色が変わった。
豪奢な室内は、見覚えのあるものだった。セリアが開け放った窓は、今はしっかりと閉じられていた。
壊れ物を扱うかのような丁重さで床に下ろされたセリアは、慇懃なお辞儀をして部屋を出ていこうとした青年を呼び止めた。
「ま、待って!」
「何か?」
振り向いた青年の眼帯で覆われていないほうの目が冷たく感じて少し怯んだセリアは、息を凝らした。けれどすぐに声をしぼり出すように言った。
「どうして……どうして、リンリンにあんな酷いことしたの……?」
「リンリン? なんともまあ、虚無の番人らしいふざけた愛称ですね」
嘲るように口の端を持ち上げた青年は、身を堅くするセリアに気づくと、周囲を凍てつかせるような光を宿した片目をふっと和らげた。
「我が君はきっとお疲れなのでしょう。ただ今、湯浴みの準備をいたしますね。ああ、それよりも軽食をお召し上がりになりますか? 虚無では時間の流れが止まっているとはいえ、忘れられた地に戻ったのならば、過ぎた時間の空腹も思い出すことでしょう」
そんな言葉通り、セリアのお腹がちょうど鳴った。
これから夜がくるのならば、セリアは昼食を食べていないことになる。
ちっとも気づかなかったが、長い間虚無に留まっていたのだろう。
顔を赤らめお腹を押さえるセリアに、少し笑った青年が、何かお作りしましょう、と言って去っていった。
「ぁ……、ま、待って!」
パタンと閉まった扉に駆け寄ったセリアだったが、鍵が掛けられているのか押しても引いてもびくともしなかった。
柔らかな絨毯の上にへたり込んだセリアは、グルグリッドのことを想い、ぎゅっと胸を服の上から押さえた。
無事だろうか。
また別の化け物に襲われていないだろうか。
グルグリッドのことを考えるだけで不安になり、胸が痛んだ。
彼にただ護られるだけでしかなかった自分。
足手まといになっただけでなく、青年の手を煩わせたあげく、グルグリッドに乱暴を働かせてしまったのだ。
(わたしの、せいだ……)
自分がグルグリッドと行くことを望んだから。
もし青年と一緒におとなしく城に帰っていれば、怪我を負うことはなかっただろう。
人間だったら確実に生きてはいないような状況ではあったが、セリアが最後に見たとき、ちゃんとグルグリッドは動いていた。微かだが息はあったのだ。
きっと人間よりずっと頑丈なのだ。
そう自分に言い聞かせたが、顔色は冴えなかった。
それから青年に勧められるまま軽食を摂り、あたたかい湯で汚れを落としたセリアは、新しい衣服に着替えた。
絹のような滑らかな感触が心地よい服だ。
真珠のような乳白色の小さいな珠が飾りのように散らばって、深い藍色の生地の上で美しく煌めいていた。
銀の髪に映える藍色の服は楚々とした上品さがあって、可憐な顔立ちのセリアによく似合っていたが、心を慰めるものにはならなかった。
だれもいない静かな空間。
柔らかな長いすに体を沈め、悲しげに睫を伏せた。
(また、同じ……? 〈鍵〉も奴隷も変わらない……。わたしは自由……でも、ほんとうに?)
これが自由というのだろうか。
この広い部屋の中にたったひとりでぽつんといるのは酷く惨めだ。
あんなにやさしかった青年は、虚無で会ったときから少しセリアに冷たくなったように感じる。素っ気ないというか、どこか一線を置かれたような壁を感じるのだ。
それがセリアに孤独感を深めさせていた。
ふっとグルグリッドの言葉が蘇る。
神は眠っているとグルグリッドは言ったのに対し、神はいないと答えた青年。
セリアに隠していたのだろうか?
なんのために……?
セリアの心が不安に揺れる。
この世界で信じていた唯一の存在に、不信感など抱きたくなかった。
それでもグルグリッドの言葉を信じてしまうのは、彼が青年以上にいろいろと教えてくれたからだろうか。
(リンリンは、わたしが必要だって言ってくれた……)
神さまを目覚めさせるために。
(わたしに、なにができるんだろう)
セリアは必死に考えた。
主人の言葉に従うだけだったセリアには、自分から積極的に行動を移すのはとても難しい行為だ。
だが、待っているだけでは何も変わらない。
(そう、変わらないんだ……)
虚無へ行ってセリアはいろいろなことを知った。
過去の〈鍵〉の存在。
神が眠りに就いていること。
そして、過去にあったさまざまな世界。
それはすべてセリアが行動したことによって知り得た知識だ。たとえ偶然堕ちた結果にせよ、あのまま部屋に閉じこもっていたなら、今もただ失った世界のことを考えて嘆き苦しんでいることしかできなかった。
(わたしが今することは……)
セリアは目をしっかりと開けた。その金の双眸には、強い光が宿っていた。




