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第五章 其は、惑う その一

 グルグリッドは、飽きることなく円鏡を眺めているセリアに向かって声を掛けた。


「さあ、行こう。バティ=ラグさまを起こしに」


 彼が指を鳴らすと、すべての円鏡は煙のように溶け消えた。

 グルグリッドはセリアに手を差し出した。おずおずとその手を取ったセリアをそのまま引き上げると、セリアの体もグルグリッドと同じように浮かんだ。


「でも、わたし、起こし方なんてわからない……」

「大丈夫。願えば自ずと答えは見つかるから。これって絶対!」


 住まいから飛び出したグルグリッドは、真っ白な霧の中を悠然と進んだ。


「……静かね」


 どこまでも続く霧を見つめながらセリアは呟いた。


「そりゃ、今のところここらで呼吸してる生物は、オイラとアンタだけだからね」

「……じゃあ、わたしがいなかったらリンリンだけ?」

「まあ、そうなるかな」

「寂しく、ない?」


 人の気配のしないこの空間は無機質だった。

 もしここに住めと命じられたら、とても耐えられないだろう。ふれあいも温もりもない虚無は、前の主人に閉じこめられていた冷たい地下牢を思い起こさせた。


「うはっ、それって人間的考え。ここで生きるオイラには、寂しいとか悲しいとかいう感情はないわけ。だって、ここがオイラの世界だから。虚無の番人は、人間みたいに別の世界を望まない。分をわきまえてるからね。それにたまに忘れられた地から堕ちてくるヤツがいるから飽きないさ」


 グルグリッドが言い終わったそのとき、何かがセリアの目の前を横切っていった。服の切れ端だろうか。華やかな色合いのものがすっと霧に紛れて消えていく。


「あちゃ~、拾い忘れか」


 セリアと同じく目の端にその物体を入れたグルグリッドは顔をしかめた。


「あれは……」


 なんだろうと小首を傾げると、グルグリッドは言葉を慎重に選ぶかのようにちょっと首をひねった。


「ん~と、成れの果て」

「なれの、はて……?」

「あ~……」


 グルグリッドは、言葉尻を濁し唸った。


「まあ、永遠を望んだ〈鍵〉が堕ちた結果というか~。つまり、人間には毒なんだよ。ここは。毒が体を蝕んで、少しずつ皮膚から骨まで溶かしちゃうっていうかさ。最期はああやって体を覆っていたものだけが漂うの」

その布っきれを回収するのも番人たるグルグリッドの役目だ。もっとも彼は、その布を住みかの一部と再利用しているが。

「わ、わたしも、ああなるの?」


 話を聞いたセリアはちょっと恐ろしくなった。

 もしかしたら今もセリアの体を蝕んでいるのかもしれないのだ。自分の体が溶けてしまうのを想像したセリアは、顔を強ばらせた。


「――永遠を望んだらね」


 グルグリッドの目が一瞬冷たく光る。

 けれどすぐに苦笑した。


「だいたいさあ、人間に永遠の時間なんて不相応なんだよ。〈鍵〉であることに満足するだけでなく、時間までも望んだら、それってちょっと欲張り。オイラは納得できない。それって当たり前!」

「永遠は、いけないこと?」


 とりあえず、自分が死なないことを知ったセリアは表情を和らげたが、グルグリッドの辛辣な物言いに細い眉を寄せた。


「さぁって、どうっかな。永遠を望むヤツは多いけど。〈鍵〉だけじゃなくて、忘れられた地のヤツらだって、永遠を求めて堕ちてくるし~」

「人じゃなかったら手に入るの?」

「ここにいる限りは。でも、ソイツらが二度と地を踏むことはないけどさ」

「どう、して……?」

「堕ち続けるからね、それこそ永遠に」


 永遠を手に入れた彼らとグルグリッドが出会うことは二度とない。

 グルグリッドでさえそう簡単に立ち入ることができないほど深く堕ちた彼らのもとにそうやすやすとたどり着くことはできないからだ。

 彼らは孤独の中で生き続ける。

 ――――永遠に。

 どんなに発狂し、死を望んでもそれが叶うことはない。

 けれど永遠を望む多くが、その事実を知らないのだ。

 永遠の命という目先の欲に囚われ、現実を深く理解しないまま堕ちていく。

 そう考えるとグルグリッドに早々に発見されたセリアは運がよかったといえよう。


「気づかなかった? アンタがここに堕ちてからずいぶんと時間が経ってんだけど。でも、眠くもないし、お腹も空かない、だろ?」


 グルグリッドに指摘され、今更のように気づいたセリアは小さく頷いた。

 時間の感覚はあやふやで、堕ちてからまだそう時間が経っていないようにも感じていた。


「睡眠も食事もここじゃまったく必要ないってわけ。老いることもなく、堕ちたときの姿を留めたまま生きることができるんだ。痛みも苦しみも飢えもない、ここはまさに神さまが創られた閉ざされた楽園。忘れられた(ドゥワール)なんかよりよっぽど快適だ」

「でも、そんなのつまらない……」


 得意げに語るグルグリッドの横顔を見つめたセリアは、ぽつりと呟いた。


「つまらない!? うは~! なぜなぜどうして? みんな喜ぶのに。だって、永遠だよ? だれだって命は惜しいんじゃないの。特に命短い人間サマは」


 振り向いたグルグリッドは、皮肉るように吐き捨てた。


「でも、わたしはちっともうらやましく思えない。だって、永遠の命があっても、ずっとここにいなきゃいけないんでしょ?」


 グルグリッドの言葉の端に滲む嫌みに気づかないセリアは、ちょっと不満げに唇を尖らせた。


「そりゃあね」

「長い間ずっとただ生きてるだけなんて嫌。だってわたし、夢を見るの好きよ」


 セリアは、大きな金の双眸を煌めかせ、続けた。


「辛い夢を見ることもいっぱいあるけど、夢の中でね、父さんや母さんと会えたときが一番うれしい。目が覚めたときね、夢だったんだって知って悲しくもなるけど、父さんと母さんのこと思い出して胸がふわってするの。それにね、食べるのも好き。腐敗の地はね、土が悪くて天なる地のように日差しもないから食物は育たないの。だからいっつも、常世の地との狭間から落ちてくる(くず)か、蔓や土を食べるしかなかったの。ちっともおいしくなかったけど、生きるにはそれしかなくて……。でもね、天なる地で暮らしてね、おいしいものがいっぱいあったの。甘いもの、酸っぱいもの、辛いもの……わたし、みんな知らなかった。生きるために我慢して食べるんじゃなくて、食べることを楽しむんだって、わたし、ご主人さまに教えてもらったの」


 ドーナンは食にうるさい人物だったから、毎日食卓にのぼるものは豪華であった。

 中でもセリアの一番のお気に入りは真っ赤な林檎だ。掌に収まる小ぶりの林檎は、表面がツヤツヤとしており、かぶりつくと、シャクッと音がして、甘い蜜が口の中いっぱいに広がる。

 初めてそれを口にしたときの感動をセリアは決して忘れないだろう。この世にこんなにおいしいものがあるなんて知らなかったのだ。

 それに……、となおも言葉を続けようとしたセリアは、穴があくほど見つめてくるグルグリッドの強い視線に気づいて、とたん口ごもった。

 いつから凝視されていたのだろう。

 信じられないものを見るかのような視線に耐えきれず、思わず睫を伏せた。

 そんなセリアの態度がおかしかったのか、プッとグルグリッドが吹き出した。


「アンタがそんなに喋るの初めてだ! さっすが人間。俗世に対して執着心がありすぎ」

「……っ」


 からかわれたセリアは羞恥に顔を赤らめた。

 ひとしきり笑ったグルグリッドは、「うん、でも」と明るく微笑んだ。


「悪くないよ。食べることも眠ることも、それって全部生きてるヤツらにとって当たり前の行為だし」

「リンリン……」

「ま、オイラはさ、この世界しか知らないからさ。さっきは人間的な発想って馬鹿にしたけど、もしかしたらオイラ、すっごく損してるのかも。バティ=ラグさまがいらして、守るべき虚無があって……そうしたらほかにはいらないって思ってた。人間や忘れられた(ドゥワール)のヤツらみたいに、食べることも眠ることも知らないほうが幸せだってね。けど、アンタの言葉聞いてたら、なんかそれってすっごく退屈かも。オイラは虚無の番人としての誇りを持ってるし、嫌だと思ったことはないけど、たまにはアンタみたいな道楽もいいかもね。これって一応褒め言葉!」

「リンリンは、忘れられた地に行かないの?」

「一回だけね、仕事をさぼって行ったことあるよ。バティ=ラグさまがお眠りになっている谷までね。ついでに忘れられた地を見て回ったけど、でも、なんか違った。肌が合わないっていうかさ、やっぱ、オイラの住む世界は虚無なんだって感じ――――」


 言葉を途中で止めたグルグリッドは、突然その場に止まった。

 どうしたのだろうと訝ったその瞬間、グルグリッドの眼前を閃光が駆け抜けていった。


「あっぶな~!」


 不安そうな顔をしているセリアを護るように前へ出たグルグリッドは、安心させるように繋いだ手にぎゅっと力を込めた。


「笑止。あなたのことだから、私がいることに気づいていたでしょうに」


 笑みを含んだ低い美声が、霧深い深淵に響き渡った。


「あ~あ、見つかっちゃった。ざんね~ん」


 けれど言葉ほど残念がっていない様子のグルグリッドは、むぅっと唇を尖らせたが、目には楽しげな光を宿していた。


「――――我が君」


 青年に呼ばれ、グルグリッドの背に隠れていたセリアがぴくりと肩を揺らした。

 呼びかけとともにすっと霧が晴れた空間から白皙の美貌を持った青年が姿を現した。


「ずいぶんと長い間お捜しいたしました。さあ、城へ戻りましょう」

「はっ、よく言う。どうせオイラが見つけるって算段したんだろ。これだから腹黒策士は。オイラの気配なら簡単に探れるだろうし。……駄目だよ、名を持たぬ君の甘言に騙されちゃ。それってすっごく危険!」


 グルグリッドがすかさず諭す。

 名を持たぬ君というのは青年を指す単語なのだろう。

 セリアは、やさしく微笑む青年と険しい顔をしているグルグリッドを見比べ、金の瞳を困ったように揺らした。

 セリアにとっては二人とも大切な人。

 どちらも傷つけたくなかった。

 けれど彼らはそんな迷いを許してはくれなかった。


「セリア」


 くるりと振り向いたグルグリッドがセリアの名を初めて呼んだ。

 『アンタ』ではなく、『セリア』と。

 この世界ではだれもセリアの名を呼ぶ者はいなかったから、自分の名がとても懐かしく感じられた。

 思わず瞳を輝かせるセリアとは対照的に、グルグリッドがセリアの名を呼んだ瞬間、笑みを浮かべ続けていた青年が、不快げに眉を寄せた。

 けれどグルグリッドを見つめるセリアはそれに気づかない。青年のことを忘れ、グルグリッドを一心に見つめていた。


「オイラとの約束は守らないと。一緒に行ってくれるんだろ。それって絶対!」


 さっきまで迷っていたはずなのに、なぜかグルグリッドの言葉が胸にすっと入っていった。

 そうだ。自分は約束した。

 だから行かなければならないのだ。


「うん、わたし、行かないと」


 どこか夢見心地に呟くと、グルグリッドは勝ち誇ったように笑い、こちらを睨めつける青年に向かって舌を出した。


「これでオイラのモンだもんね~」


 青年は深くため息を吐いてから、まだどこかぼんやりとしているセリアを静かに見つめた。


「真名を教えたのですね」


 とたん、すっと熱が下がるような心地となった。

 どこか咎めるような冷たい声音に、ハッとわれに返ったセリアは体を小さく震わせた。


「……っ」


 真名というのがいかに大切なものなのかグルグリッドから教えてもらったセリアは、返事に窮した。

 忘れられた(ドゥワール)では名前が重要だという。

 真名とは、真実の名。

 すなわち、最初につけられた名である。

 この世界では、ただひとりの名付け親が生まれた子に相応しい真名を授け、魂に刻み込むという。

 そうすることで真名が持つ力がより強固となり、真名ひとつでその者を縛りつける威力を発揮するのだ。

 ゆえに、真名を告げるということは、魂を預けることに繋がる。つまり、生死すら思うままに操ることができるのだ。

 そこで大抵、忘れられた地の住人は、二つ名を持っているらしい。グルグリッドも、グルグリッドという名は真名ではなく、ほかに名があるという。


「うはっ、それってちょっと…、っていうか、かなり違くない? 悪いのは名を持たぬ君でしょ~。なぁんにも教えずにいたんだから。のほほんとした世界に浸ってる人間に、忘れられた地の常識なんか通じない。無知が危険って、歴代の〈鍵〉に仕えてきた名を持たぬ君が知らないはずない。ってことは、罰せられるべきは名を持たぬ君ってね。これってほんと!」


 セリアを庇うように一歩前に動いたグルグリッドは、好戦的な色を隠しもせず片目を瞑った。


「邪魔をするのですか」

「オイラはオイラのしたいことをするだけさ」

「我が君、やはり貴女も私から離れてゆくのですね……」


 感情のない双眸がセリアに向けられる。

 彼が何を言っているのかわからなかったが、あんなにも近かった彼との距離が急に遠くなってしまったように感じた。

 今ほど青年の名前をつけなかったことを後悔したことはなかっただろう。

 そんなことないと否定したかったのに、突き放す視線がセリアの口を封じてしまったかのように喉の奥に消えてしまった。


「けれど、私はそれを許さない」


 暗く嗤った青年は、すっと手を斜めに走らせた。

 紅い閃光がセリアたちに襲いかかる。


「……っと、」


 セリアを抱え込み、寸前でかわしたグルグリッドは、ぎっと青年を睨みつけた。


「どういうつもりさっ。セリアがいるってぇのに!」

「邪魔をさせていただくだけです。どうせあなたのことだから、バティ=ラグを起こすつもりなのでしょう。けれど、そうはさせませんよ。我が君は忘れられた地の城で暮らせばいいのです。私と一緒にね」

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