その三
青年は、舌打ちした。
開かれた窓と、気配のない部屋を見れば何が遭ったのか一目瞭然だった。
笑みを消し佇む姿は、セリアといるときの柔らかさの欠片もない。苛立ちが冷気となって彼を包み込む。
「……しょせん、〈鍵〉の意志が優先ということか」
無感情に呟いた青年は、窓に近づき虚無を見下ろした。
忘れられた地は〈鍵〉のもの。
いかに青年が術を施し縛ろうと、〈鍵〉が望めば、すべては動くのだ。
「厄介な」
虚無には永遠を生きる番人がいる。
創造主バティ=ラグを敬愛し、任務に忠実な番人。
虚無は青年ですら手が出せない場所であり、名をまだいただいていない彼には、セリアの気配すら探ることもできなかった。
ダンッと壁に拳を叩きつけた青年は忌々しげに虚無を睨めつけた。
「邪魔させるものかっ」
青年はもうずっと長い間待っていた。
ただひとりの主を。
心を捧げ、護るべき主人を。
仕えるべき主人がいて初めて青年は生きている実感が持てるのだ。
「我が君……貴女も私から離れてゆくのですか――」
切なげな呟きは、虚無へ吸い込まれていった。
「そんでぇ~、ええっと、今って確かイ=バールだっけ。世界の名前って」
グルグリッドの呟きに、床に座り込んだセリアは、顔を曇らせ、弱々しく首を振った。
「もう、ないの……」
「は? ない? えっ、イ=バールの次に新しい世界ってできてたっけ。オイラ全く知らないんだけど。うは~、どうしよう! これって職務怠慢? バティ=ラグさまに怒られるじゃん。あ、まあ。今なら平気か。隠してればばれない。うんうん、オイラってあったまいい!」
「あ、あの。違うの。わたしが……」
セリアはいったん言葉を呑み込むと、迷うように視線をさまよわせた後、意を決したようにグルグリッドを見つめた。
正面であぐらを掻いて座っていた彼は、「んん?」と首を傾げた。
「望んだの……自由になりたくて、壊してって」
「ああ! なんだ、そういうこと。思ったより早かったっていうか、なんにも知らないのによくわかったね」
「え……」
今度はセリアが首を傾げる番であった。
「どういう意味……?」
「ま、普通は時間が空くもんだし。新しい〈鍵〉が誕生したときって。きっとどんな世界にしようか考えてるんだろうな。けどアンタのことをオイラが知らなかったってことは、まだ〈鍵〉となってから日が浅いんだろ。それってつまり、〈鍵〉について勉強する暇がなかったと思うけど」
「べんきょう……?」
「そそ。お勉強~。でも、ま、勉強なんてしなくてもいいけどさ。アンタは〈鍵〉なんだから好きにしちゃったらいいんだし。それがこの世のことわりっしょ。うん、それが正解!」
「でも、わたし……知らなかった。ほんとになくなっちゃうなんて知らなかった」
金の双眸が潤む。
勉強していれば、救えたのだろうか?
破滅など願わなかったのだろうか……。
考えても答えは見えてこなかった。
「でも、もう戻せないって言われて……でも、わたし、助けたくて……わたし、時を戻せたらって……」
セリアの支離滅裂な言葉をグルグリッドは容易に理解したようだった。
「はは~ん。なぁるほど! 今回の〈鍵〉はまんまんと腹黒策士にはめられたってわけか。それって酷い。ろくに説明しないなんてさ」
グルグリッドはふわりと宙に浮くと、セリアの目の前に降り、ぽんと胸を叩いた。
「オイラがついてるからもう安心。虚無の番人に任せなさい! 難解なこともオイラがまるまるっと解決。これほんと!」
無邪気に笑ったグルグリッドは、ちょっと真剣な顔になるとどこか重々しく言った。
「けど、残念。もう〈鍵〉が願っちゃったんなら、その失った世界を取り戻すことはできないっていうのが、世界の摂理ってやつ」
「そんな……」
「まあお聞きよ。もしアンタが世界を変えたかっただけなら、新しい世界を望まなきゃいけなかったんだ。アンタはただ破滅だけを願ったからすべてを失った。過去にもね、そういう〈鍵〉がいたよ。もっとも彼女はアンタと違って世界を消すことになんのためらいも覚えなかったようだけど……。まあ、でもその前に精神病んじゃって叶えられなかったけどさ」
「わたしのほかにも〈鍵〉がいたの……?」
青年はそんなこと言っていなかった。
そう思って不思議そうに訊くと、グルグリッドはなんとも表現しがたい顔で唸った。
「えっ、そこまで? 名を待たぬ君はなにやってんだか。いくらバティ=ラグさまがお眠りになっているとはいえ、このことをお知りになったらどう思うか」
グルグリッドの言葉にセリアは大きな目を驚いたように見開いた。そうして小首を傾げ、グルグリッドに訊ねた。
「神さまは眠っているの? わたしにやさしくしてくれた人は、神さまはいないって言ってたけど……」
「はぁ!? うは~、ほんと何考えてんの、アイツ。無垢な少女を謀るなんて! バティ=ラグさまがいないなんて嘘つくなんて……! いい? アンタにやさしくしてくれたヤツがなんて言ったか知らないけど、神さまはね、ちゃ~んといるよ。ただ永い眠りに就いてるだけ。いつかお目覚めになられる。これって絶対!」
「……じゃあ、神さまに会えないの?」
「ねえ、アンタは〈鍵〉なんだ。それってかなり重要。なぜ〈鍵〉って呼ばれると思う? 〈鍵〉はね、唯一創造主バティ=ラグさまが眠る扉を開くことができるんだ。過去の〈鍵〉はそんなことしようとも思わなかったみたいだけど、アンタは違う。もし世界を取り戻したいなら、バティ=ラグさまにお会いして願うしかないからね」
セリアの曇っていた顔が少しずつ晴れていく。
「わたし、戻せるの? イ=バールを……!」
「神さまがお許しになったらね。過去も未来もバティ=ラグさまにかかればちょちょいのちょい。けど、ほんとにイ=バールを戻したい? オイラが口出すことじゃないけど、あの世界は偏ってる。それってかなり不公平!」
黙り込むセリアを横目に、グルグリッドが指を鳴らすと平たい石が三つどこからともなく現れ、重なるように浮かんだ。どこから出ているのか、下二つの石の端からそれぞれ金の柱が貫くかのように伸びていた。
「これがアンタのいた世界イ=バール」
ゆらゆらとセリアの目の前に浮かぶ三つをグルグリッドが指さした。
「んで、層と層を結ぶ神なる道は、こうやって地面を貫いて世界の均等を保っているわけ。これこそがイ=バールの姿さ」
「これが……」
きっと一番下が腐敗の地なのだろう。
空は暗く、閉ざされている地に一番相応しいからだ。
そして青空が広がり、太陽が輝く天なる地は一番上。視界を遮ることのない空間があった。
真ん中の層は常世の地。
セリアが一番憧れた地……。
光と闇が交互に訪れる世界。
「アンタの前の〈鍵〉は、ほとんど構造に手を加えなかったからね」
「え……?」
重なった石に目を奪われていたセリアは、グルグリッドの言葉に耳を疑った。
「あっれれ~、疑問に思わなかった? なぁんで天なる地のヤツラだけがいい思いするのかさ」
「ぁ……」
それは当然何度も思っていたことだった。
けれど天なる地の者たちは神なのだから、その栄光も富も疑ってはいけないものだった。
「それってさ、前の〈鍵〉が奴隷だったからだし。これってほんと!」
「!」
奴隷?
前の〈鍵〉も?
衝撃的な事実に声を呑んだセリアは、こくりと唾を飲み込んだ。
「前の世界はイシュチュアール。イ=バールと同じで、三層になった階級社会」
グルグリッドが人差し指を動かすと重なった石から神なる道は消え、その代わりに真ん中の石の中央が丸く空いていた。
「翼を持った人だけが特級階級の者として上の層にいられるらしいよ。一番下の層は翼を持たない種族の集まり。ええっと、確か、前の〈鍵〉はそこで生まれたんだっけかな」
「知ってるの……? 前の〈鍵〉のこと……」
「ふふん、オイラにかかれば、そんな簡単な情報はちょちょいのちょいってね! ま、大体〈鍵〉のことなら知ってるよ。生い立ちから最期までね。オイラは偉大なる創造主バティ=ラグさまに代わって歴代の〈鍵〉を見守ってるってわけだからね。それっくらい当然!」
得意そうに鼻の下を人差し指でこすったグルグリッドは、そんで~と話を戻し始めた。
「前の〈鍵〉は、イシュチュアール対して強い反感を抱いてたみたい。だからこそ彼女が創った世界は歪なのさ。復讐っていうのかな。彼女は決して特級階級の者たちを許さず、自分が味わった苦痛を彼らに与えようと立場を逆転させた。そうしてできたのがイ=バール。翼をはぎ、奴隷へ突き落とした彼女はさぞや愉快だっただろうな。心のきよ~らかなオイラには理解できないけど」
「翼……、それって……わたしの祖先さま?」
「なに、アンタも奴隷? オイラ、まだアンタの情報なぁんにも知らないからなぁ。なんでアンタのこと気づかなかったんだろ」
グルグリッドは、セリアの誕生すら知らないようだった。〈鍵〉を見守っていると豪語しただけあって、セリアの存在に気づけなかったことは口惜しそうだった。
「これが運命ってやつかぁね。そっ、アンタのご先祖さまは昔、特級階級の人間だったんだよ。……ちゃ~んと胸に刻んでおきなね」
軽く言いながらも瞳は真剣だった。
奴隷だった祖先が実は天なる地のような存在で、セリアも本当なら敬われる立場だったのだと暗に伝えたかったのかと腹を読んだが、なんとなくそれは違うと思い直した。きっと彼は釘を刺しているのかもしれない。
いつだったか青年が言っていた。
――彼らは過去の報いを受けたのだと。
あのときは意味がわからなかったが、きっとこのことだったのだろう。
天なる地の住人は、奴隷だった過去を忘れ、己が味わった以上の苦痛を腐敗の地の住人に与え続けた。
そしてまた、それに対して不満を抱いていたセリアが〈鍵〉となったのだ。
もしまたセリアが狂気に駆られて前の〈鍵〉と同じような仕打ちをしたならば、セリアの次の〈鍵〉もまた同じことを繰り返すのだろう。堂々巡りのような悪循環。世界の住人は〈鍵〉に振り回され続けるのだろう。
「ほかにも〈鍵〉は、いたの?」
「いたよ。いろんな世界があった……」
グルグリッドは宙に指先で円を描いた。
指先から糸のようなものが出て、丸い円を描いたそれは宙を漂っていた。
グルグリッドはそれをいくつも作っていく。
「そして――消えていった」
円の中に絵が浮かび上がった。白黒のそれは、まるで生きた人間が中に入っているかのように動いていた。




