その二
「うは~っ! 人だ! 人がいるぞ」
すぐ近くで声がした。
目を瞑り、ただ堕ち続ける恐怖と息苦しさに耐えていたセリアは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。けれど靄のような白さの中では、人影すら見えない。
「だ…、れか、いる、の……?」
声が聞こえた瞬間、落下する速度が弱まり、呼吸は少し楽になったが、臓腑が浮く感じはいつまで経っても慣れなかった。
「しかも生きてる! こりゃまた珍しい。オイラはグルグリッド。虚無の番人さ。気軽にリンリンって呼んでな」
「リンリン……」
ずいぶんと可愛らしい響きの呼び方に、堕ちているというのにほんの少し和んでしまった。
「ほいさ! 何かご用? 今なら出会った記念に何でも答えちゃう」
セリアはただ繰り返しただけだったのだが、少年は名前を呼ばれたと思ってか、嬉しそうに声を上げた。
「ぁ……ぅ、あの、その、わ、わたし、ずっと、落ちるの? このまま、ずっと……?」
「そりゃま、そうだね。それって絶対!」
少年の声変わりする前の、少し高めの声は明るく響き渡った。
視界の悪さのせいと声が反響するせいでどこから聞こえてくるかわからなかったが、声が近いことで彼も自分と同じように堕ちているのだと思った。
虚無に人がいることに安堵したセリアは、こんな状況だというのになんだか嬉しくなった。
「創造主さまが眠りから覚めるまでは、命果てることなく、ずっとさまよい続けてるかな。もんのすご~く退屈だけど、老いることもないんだから人なら嬉しいっしょ? 人間は永遠の命を求めるってね! アンタもそうだろ? 永遠の命が欲しいから堕ちたんだろ」
最初、彼が何を言っているのかわからなかったセリアは、大きく目を瞬いた。
「えいえんの命……?」
「そ、死ぬことも老いることもない、まさにこの世の神秘さ」
「ち、ちが……っ、わたし、永遠の命なんて欲しくないっ」
セリアは慌てて否定した。
「じゃあ、なんで虚無に堕ちたのさ」
「……なにかが変わると思ったの。ここに来たら答えが見つかるって……」
「えっと~、オイラちっとも理解できないけど、ま、いいや」
ぁ……っ、とセリアが小さく声を上げる。
ふいに落下が止まったのだ。
ふわりと何かに優しく抱き留められたようだった。
まるで羽毛の中に飛び込んでしまったような柔らかな感触が心地よい。
そのままゆっくりと体が反転する。
頭にのぼっていた血が逆流し、少しクラクラした。
「一応合格! どうやら嘘は吐いてないみたいだし~。これってかなり重要!」
ぼんやりとしていると、すっと目の前の霧が晴れた。そこから現れたのは、ふわりと浮かんでいる少年だった。耳が細長く、派手な帽子をつけた彼は、表情豊かに深い緑色の瞳を輝かせた。
「うは~。ちっちゃい! 可愛いなぁ~。うんうん、オイラの好みかも」
輪郭は柔らかく、幼い少年のような面立ちの彼は、無邪気に笑うと手を差し出した。
セリアがそれを黙って見つめていると、我慢しきれなかったように手を取って引き寄せた。
「行こう。特別にオイラの住みかに案内してあげる。なんたって堕ちてきた生き物は久しぶりだしね。オイラとお喋りしようよ。これってもう決定事項!」
ふふんと楽しげに鼻歌をしながら、セリアとそう年が離れていなさそうな少年はゆっくりと飛んだ。
つられてセリアの体も浮かぶ。足場はないという感覚がまだ慣れず、身じろぎひとつせず硬直した。
けれど体はそんなことお構いなしに動いていく。セリアを気遣ってか、ゆっくりとした速度であったが、空を翔るのが初めての体験であるセリアには、それでも恐ろしく感じた。
一面が真っ白で、右も左もわからないというのに、少年が進む方角に迷いはない。彼の目にはきっとセリアにはわからない印でも見えているのだろう。
しばらくすると灯りが見えてきた。緑がかった美しい光は、霧に包まれた世界にあってそれは幻想的な美しさであった。
「き、れい……」
思わずこぼれ落ちた感嘆としたため息。
「オイラの自慢の住みかさ」
それは不思議な光景であった。きらきらと光を放つ薄布が幾重にも重なって霧の中に佇んでいた。
色が一枚一枚違う布は、まるで小屋のように大きく、上部が円錐状に尖り、そこに少年が被っているものと同じ帽子が誇らしげに鎮座していた。
少しセリアが腐敗の地で暮らしていた住まいに似ているだろうか
。
最も、こんなに整ってはなく、大きな岩と岩の間に蔓を通して、『狭間』で拾った布を被せただけの状態だったが。
『狭間』というのは、天の穴のことだ。
漆黒に覆われた頭上に、ぽっかり空いている穴のことをそう呼ぶのだ。そこからときおり、天なる地や常世の地で不要となった物が、落とされてくる。
食べ物はほとんど腐っていて、悪臭を放っていたが、ボロボロの布や壊れた小物などは重宝した。
枯れた土地では作物は育たず、腐敗の地の住人は常世の地の住人のように作る技術を持たなかったからだ。
だから腐敗の地にあるすべての物は『狭間』で拾ったものだった。
セリアは家から視線をずらした。
周囲を囲むように点在する緑がかった光。
炎や蝋燭の明かりとは違い、揺らめきもなかった。まるで腐敗の地に存在する発光石のようでもあったが、発光石の輝きは繊細な白金色だ。こんなにも鮮やかな色はしていない。
「アレは、光り苔さ。忘れられた地にある暗がりの谷に生えてんの」
セリアの視線を追った少年は、考えを読んだように答えた。
「光り苔……とってもきれい……」
翠玉のような透明感のある美しさがあった。霧をはねつける効力でもあるのか、光り苔の周囲は色がはっきりとしていた。
「ここって殺風景だし。オイラがいろいろと開拓してるのさ。けど、オイラだけじゃそろそろ限界」
セリアを家の中に招き入れた少年は、ぱちんと指を鳴らした。とたん、浮遊感がなくなり、セリアの両足が固いものに触れた。
「じ、めん……?」
「ざんね~ん。虚無に地はない。オイラが知恵を絞って長い時間かけて作ったんだ。ふふん、居心地いいだろう? オイラが初めて忘れられた地に降り立ったときさ、感動しちゃったんだ。固い地なんか初めてだったし。……っと、忘れてた。ええ~、コホンッ」
咳払いをした少年は、胸を二回叩いてにこりと笑った。
「ようこそ、虚無の番人グルグリッドの住みかへ、名も知らぬ人間の子。オイラは歓迎するよ」
名前も名乗っていなかったことを指摘されたようで、かぁっと頬を赤らめたセリ
アは、慌てて頭を下げた。グルグリッドは最初に自己紹介をしてくれたというのに。ドーナンのところではみんながセリアの名を知っていて、名前を名乗ることもなかったので、知らない者もいるとうことすら忘れてしまっていた。
「ぁ、の、わ、わたし、セリア……名前、セリアというのよ」
グルグリッドはぽかんと口を呆けたように開けると、すぐに両手をわたわたと動かした。
「ちょ、ちょっと! なに言っちゃってんの! はぁ~、まったくさぁ、心のきよ~いオイラだったからいいものの、真名を簡単に明かしちゃ駄目だよ! それって絶対!」
ぴくぴくと激しく両耳を動かした彼は、ぴしっと人差し指をセリアに向けたが、きょとんとしているセリアに気づくとため息を吐いて、困ったように頬をかいた。
「あっれれ~、おっかしいなぁ。忘れられた地にいるってことは、アンタ〈鍵〉でしょ?」
セリアは戸惑いながらも頷いた。
「ってぇことは、アイツがいるわけでぇ~、それってどうよ。もしかして教えてないとか。うは~、最悪。なに考えるんだか。ま、ここはひとつ、やさしいリンリンさまが教えてやるか。これって貴重だからねっ」
ぶつぶつと呟いていたグルグリッドは、顔を上げると、茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。




