不気味な泡
さて、長くなりましたが『半月』についてはこれくらいにして、次は上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』を読んでみましょう。面白いタイトルですよね、「笑わない」というのは。『半月』の主題が「笑う」ことにあったのを思うと、これではまったく真逆な主張のような気がします。
そうなのです。『ブギーポップ』は、まったく真逆な主張なのです。『半月』が第三ステージを否定しているなら、この作品は第三ステージを肯定……どころか、私の世界観でいうところの、第五ステージにすら行き着いた価値観の小説のように思えるわけです。この第五ステージについて、少し説明を施したうえで、内容について踏み込んでいきましょう(『プギーポップは笑わない』を読んだことがない人は、一巻目を読んだうえで以下をお読みください←強烈なステマ乙)。
よく知られているように、『ブギーポップは笑わない』は物語がほぼ序盤で閉じ、それから以後は第一話の主人公のあずかり知らぬところで、別の人物たちを中心に展開されていった、いうなれば絶妙にシンクロする群像劇です。それでいて、ブギーポップやエコーズ、マンティコアといった魅力的なキャラクターによってファンタジックに描かれつつ、かつまた早乙女正美の行動事由などは謎に包まれていたりと、ミステリー的な楽しみ方もできる、一見すると通俗小説のように読めますが……ある主の読書を積んできた人たちには、この序盤からあふれる倦怠感、溜め息が聞こえてくるほどの暗部を見いだせたかもしれません。ライトノベルには珍しく、性行為を示唆する描写も盛り込まれているとおり、この小説がコンテンツに擬態した文学であることに気付いている慧眼な読者も、きっとたくさんいることでしょう。
そう、まずは作者一流のマニエリスムによって構築された、基本的な譬喩表現の解体から説き始めていきましょう。
「ブギーポップ」という奇抜な用語は、作中において「世界の危機に際して生じた不気味な泡」と明言されています。世界の危機とは、どこぞの機関によって確保された宇宙人・エコーズをもとに生み出した人造の化け物・マンティコアの、行き過ぎた人食い行動のことであると同時に、その宇宙人エコーズが、果たして地球人には生きる価値があるかどうかを判断するにおよんで、周囲が彼に向けた反応は「サイコさん」「逮捕」という、とても悲しいものであったこと……もしその絶望にエコーズが本気で嘆いていたら、クライマックスにおいてマンティコアに向かって放たれた奔流が地球人を滅ぼしていたかもしれない、そのことであったわけです。
ブギーポップが宿ったのは、ボーイフレンドのいる普通の少女の肉体でした……しかしそれは、本当に外から宿ったものなのでしょうか? 実はそうではないですよね。作中において、霧間凪の父親のものした精神分析論が並べ立てられているように……エンターテイメント的解釈のうえでは、二重人格という面白味のある設定をもっていたとしても、譬喩をひもといて読めばなんのことはありません、それは宮下藤花という少女が「生きるための方便」として封印した、彼女の本音……メサイア・コンプレックスな部分がブギーポップなのです。作中では、藤花とブギーポップはまったく別人のように描かれていますが……それは世界を裏側で生きなければならないと判断する第五ステージ的な在り方では、少女の身ではあまりに表側の世界との摩擦が強すぎるから、第二ステージの人たちとソリを合わせるために仕方なく生まれた仮面の人格――笑う第四ステージこそが、藤花なのです。
ゆえに、藤花の裏側であり、「サイコな人には触れない方がよい」という第二ステージの論理の裏側でもある第五ステージ人格のブギーポップは笑わずに、彼らを糾弾し、行動し、いくら疎ましがられようと、法律や校則などといった明文化を旨とする第二ステージによっては記述されえないものを保護の対象とする、平たくいってしまえば「アスペ」として世に理解されている人たちの譬喩こそが、ブギーポップなのです。アスペルガー症候群といえば、なにか事件が発生した際に、人々とはあべこべに加害者を弁護してしまう人たちのことですが、こういう人たちを「症候群」と十把一絡げにしてしまう世界が第二ステージなのであり、さまざまな見地からそれを否定するのが裏の世界なのです。
すなわちブギーポップとは、作者に言わせれば、霧間凪のようにひねくれて生きることができない人たちが、人格を分裂させることによってでしか人を救うことができない苦しさを表現している、といったところでしょうか。ちなみに私は、霧間凪という人物を第一ステージだという風に読んでいます。え、あれほど魅力的なキャラが第五ステージではなく、なぜ第一ステージなのか? と首を傾げる人もいるかと思いますが、これには私は確言をゆるすことが自分にできないのです。ただ、役割分担のうえで、私は彼女を第一ステージにふるいわけました。同じ裏側の、第三ステージの立場にいるのは明らかな読書人である末真和子こそふさわしいのでしょうから。