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銀河鉄道の夜

本作において持ち出される小説はもう一つあります。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』ですね。


『銀河鉄道の夜』といえば、『半月』にかぎらず、あらゆる創作のジャンルにおいてパスティーシュされている、不朽にして不動の名作ですが、本作においては、これが単なる里香と裕一を繋ぐ鎹、ジョヴァンニとカムパネルラのような友情の示唆として機能するばかりでなく、もっと秀逸な、巧みな暗喩が込められているように私には読み込めました。


宮沢賢治といえば、天沢退二郎という文学研究者が真っ先に名のあがる最右翼なわけですが(もちろん管見です)、彼は宮沢賢治の一連の創作に、キリスト教の聖人の譬喩を見いだしました。詳しくは新潮文庫『銀河鉄道の夜』末尾の研究内容を参照していただくものとして、ここでは割愛し、聖人について少しだけ記述したいと思います。というのも、聖人という呼び名が日本人にはあまりしっくりこないタームだと思うからです。


聖人というのは、読んで字のごとく聖なる人……敷衍すれば、キリスト教の布教のために方々で尽力し、殉教した人たち……とされている、ほとんど伝説に近い人達なのです。


日本人の耳で聖人と聞けば、聖バレンタインやサンタクロースとして名高い聖ニコラが思い浮かぶと思うのですが、ここでは数ある聖人伝の中から聖クリストファーをピックアップしていきたいと思います。


キリスト教圏では、子どもの名に聖人の名をつけるのはいたって普通で、ニコラやマルコなんて名前は日本人の耳でもよく聞かれますし、クリストファーなんていうのも、ごくありふれた馴染み深い名前のように聞かれているかもしれません。名作『くまのプーさん』にはクリストファー・ロビンという男の子が出てくるほどですし。


このクリストファーというのは、伝承によると犬頭の聖人で、幼子に扮したイエスをそれと気付かずに肩にかつぎ、氾濫する河の向こう岸へ渡したという逸話から「クリスト・ポルス……キリストを持ち上げる」という名が与えられたそうです。


しかし、ご存じのことと思いますが多くの聖人伝なるものは現実的に考えてあり得ない眉唾な風説であって、この逸話もどこか、創作の香りがしてくるものです。創作どころか、どこかで見たような話とそっくりなのです。


フィリップ・ヴァルテールというその道の研究者によると、どうもこの聖クリストファーの逸話は、ギリシア神話の剽窃ではないかと思われるのです。剽窃というよりも、土着でうそぶかれていたギリシア神話におっかぶせる形でキリスト教が布教されていった背景が窺えるといいますか……。ギリシア神話にはオリオンという神がいますね。夜空を見上げれば、砂時計のように見えるあのオリオン座の由来ですが、彼はひょんなことから狩猟の神アルテミスによって、視界を奪われてしまうのです。そうなるとオリオンは道もわからなくなって、歩くのも一苦労ですが、ある時肩に少年を乗せることによって水先案内人とする一計を案じたのです。この構造が、聖クリストファーの逸話とよく似ているという指摘ですね。


しかし私はオリオンにではなく、その飼い慣らされた猟犬であるところのシリウスに着目したいと思います。シリウスは、天狼星とも呼ばれることからオオカミのイメージが強いですが、ギリシア神話においてはあくまでオリオンの猟犬とされており、それはイヌの範疇であったわけです。ここにおいても聖クリストファーとのアナロジー――すなわち犬頭という風貌――があるわけですが、シリウスといえば真夏の夜空に一点輝く星でもあり、有名なナイル河の氾濫を予想した星であるともされています。つまり、シリウスは夏の暑さと関わりを持っていると言えそうです。


そうして、川は川でも「天の川」から物語がはじまっている『銀河鉄道の夜』についても、「カラスウリ」「カワラハハコグサ」などの夏から晩秋にかけて見られる植生の描写に着目すると、この小説の舞台が夏のある時期であることが判然とするかと思います。これは神話との不思議な一致です。何故というのも、この小説にはオリオンを殺してしまったことを嘆くサソリが途中で登場するではありませんか。夏の暑さの象徴である、シリウスの飼い主を殺した張本人を登場させているのです。何か意図があるように思えます。


天沢退二郎の分析によれば、カムパネルラとはとある哲学者の名前からとっており、どうもその人物の幼名がジョヴァンニであったことから、この友情小説の着想を賢治が得たのではないかというのです。このことから天沢研究では、ジョヴァンニとカムパネルラに双子性の示唆を見いだしているわけですが、私は天沢論の中でも「ジョヴァンニという洗礼名はありふれている」という何気ない一文が気になりました。というのも、宮沢賢治の小説の中には「セント・ジョヴァンニ様」という台詞がちらほら散見されるのです。天沢退二郎はそのことから、この小説がとある聖人の幼年時代を語っているのではないかと読んでいるわけですが、私はその聖人こそクリストファー、すなわちオリオンの後身であると考えるのです。


オリオンは少年を肩にかつぎ、彼の眼を自らのそれとしたわけですが、実地の案内はおそらくシリウスが務めたものでしょう。同様に、犬顔のクリストファーも、激流の中をイエスにどうこう指図されたわけではなく、イヌである自分の目で見て、向こう岸へ渉河したのでしょう。すなわち犬とは、オリオンという相棒を導くものであったはずなのです。


それなのにオリオンは、神話によるとサソリによって殺されてしまう。『銀河鉄道の夜』では、そのことを慨嘆するサソリが登場するわけですが、なによりも象徴的なのは、天の川を渡る旅の果てに、カムパネルラが溺れて死んでしまうのです。死体が見つかったわけではないのですが、カムパネルラの父が発した「(溺れてから)四十五分たちましたから」という台詞によって説得力がともないます。カムパネルラは、死んだかもしれないのです。


私が子どもの頃に見た、『銀河鉄道の夜』のアニメーション映画は、登場人物たちを動物の風貌で描いており、今では大御所声優として名を知られる田中真弓がジョヴァンニの声を当てていたのですが、そのジョヴァンニは、二足歩行をしているイヌだったのです。オリオンというカムパネルラ――あるいはクリストファーのように、ジョヴァンニともども一緒くたになったカムパネルラ――を向こう岸まで届けることができなかったシリウスとしての表象が『銀河鉄道の夜』には隠されているというメッセージだったのではないかと今にして思うのです。


さて、向こう岸へ渡る、というテーマを考えた時に、橋本紡の『半分の月がのぼる空』を読んでみましょう。既に一読された方ならわかるように、この小説にはシリウスが印象的に輝いております。それは作中で『銀河鉄道の夜』が参照されているからというのもありますが……ラストシーンにおいて、裕一が「近づくな」と釘を刺されていた里香の病棟へサーカスの空中ブランコよろしく、危なっかしい芸当で「渡って」行くのは、この意味ではないでしょうか。里香という少女は医学によって、生存が絶望的です。夏目の口から、里香の心臓は縫合も難しいほどめちゃめちゃになっているというようなことが語られているとおり、説得力をもった説明で死の結末が暗示されることによって、実際には死の描写が描かれなくとも、里香は死んだのだということが如実に知れます。それは、「四十五分たちましたから」と似たような機能をしていると読めますね。


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