笑顔の徹底
閑話休題。とまれかくまれ、まずは橋本紡の『半分の月がのぼる空』について。言わずと知れた、ラノベ界の金字塔。いまさらこれにあやかって何をつべこべ言うことがあるのかと分限を棚に上げて申しませば、前述した世界の区分において、この本は間違いなく、第四の世界に「のぼる」ことを読者=第三ステージの人間(=半分の月)に語りきかせている小説だということです。
それが如実にうかがえる言質として、私は「笑」「笑顔」「微笑」という語句を取り上げたいと思います。これらの言葉は、恣意的に何度も何度もリフレインされ、使い回されています。いかにもラノベ的に、コミカルなところで笑えというのではなく、作中人物たちは意味もなく笑うのです。泣くのではなく、嘆くのではなく、笑うのです。
それはもちろん、社会人となった主人公のその後が示唆的に描かれているだけということからもわかるとおり、まず長生きはできないのであろうヒロイン・里香(生存を信じておられるファンの方には不謹慎きわまりない紹介ですが、ご寛恕のほどを)の前で、面々が悲しい表情をみせるというのは、そりゃあ入院患者にはナンセンスな対応なのですが……この小説は、笑顔があからさまなのです。
第一、里香の母という人物は悲しむ側の代表というポジションにあるにもかかわらず、出番は少ないうえに、医師によっても少し、うとましがられているようにも見受けられました。そう、この小説は悲しむ人が徹底的にオミットされているのです。
主人公の裕一にしたところが、寂れた伊勢のシャッター街を見るにつけ、笑えなくなった時には、その顔面を夏目によって淘汰されます。その夏目は、からりと晴れわたった秋の高い空のように、作中でステージを一歩進める人物なのです。
そう、私のいう第四ステージとは、そういう世界……サバイバーズギルトを笑顔によって克服し、笑顔を作るための、形を生み出そうとする世界……形見のカメラや、プロレスのマスクは、そのような笑顔を生み出すためのマテリアルのように思われます。悲しむ里香の母に対しても、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』が間テクストされることによって、その脱却を作者からうながされているようにも描かれます。『チボー家の人々』は、権威ある父(これが私の言う、第二ステージです)や規律といったもののうそ寒さを、過分な読書を通して思い知った第三ステージの若者達が、憂いに沈んでしまう小説でした。つまり橋本紡が、この『チボー家の人々』を「第三ステージ」であることの淋しさを追究するために用いているように読めるのです。