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スノビズムの埋没

最後に、支倉凍砂の『狼と香辛料』を見てみましょう。この小説では、世界をとあるステージの一つに限って、そうしてその枠組み=ステージの中で変革をするように、うながすようなことが試みられています。


一読された方ならわかるとおり、この小説は非常に経済チックな内容です。そのため読者層の中高生は、自分は社会勉強をしているのだというつもりでこの小説を読んでいたと思います。一般小説だと、池井戸潤の名前がもっぱら聞かれますね。彼の小説がどういう風に読まれているかが、この手の作品の受容の形態といえるのでしょう。


わけても『狼と香辛料』は、そのヒロインの「わっち」という一人称が一人歩きして広まったことは見逃せません。中高生の目を引きつけ、中高生に経済を教え、社会の中で経済活動を行えるよう合理的判断というものを養うかのような、そういう小説のように読めるかもしれません。


でも、実際は違います。この小説が本当に若い人に養いたかったのは、合理的経済人としての自覚やノウハウなどではなく、利潤追求の果てにどうしても忘れ去られてしまうものの涵養でした。人生において、それを忘れずに帯同させろという教訓でした。現実というものはそれを捨てた方が、いっそ効率的な世界=第二ステージであることは、覆しようもなく重々承知のうえで、それでもなお、それを伴って行けという、作者からのそういう戒めがこめられていました。


この小説は、第三ステージが第二ステージをピックアップしようとする作風にもなっているのでした。


『狼と香辛料』は、銀の切り上げか切り下げかをめぐって、商会という組織と行商人という個人が己の利得を優先させようと、騙し合うというようなストーリーからもわかる通り、非常に世知辛い世界のお話です。それでもどこかほんわかするのは、ホロの「わっち」という一人称のおかげでしょう。このホロというのは、本当は神でもオオカミでも大御神でもありません、単なる家出娘です。そして、その単なる家出娘を、損失をこうむってでも連れて伴う理由こそ、またそのような利得の観念に衝き動かされて生きる視線では理解あたわざる「人間の咆哮」こそが、地下道において顕現した狼の正体と言えるのです。人は誰しも、人の地下に狼を飼っています。最大の利益、最小の損失をばかり考える道を邁進していると、いずれ狼に吠えられる時があるのです。その時我々は、狼という自然を怖いと思うことでしょう。なんとかして、効率的に手なずけようとさえ奮闘するでしょう。しかしそれは、そもそもの間違いなのだということに気付いてほしいという示唆こそ、ホロという狼の比喩なのでした。


ホロの譬喩を、あるいは商売の意味するところを、もっと解体してみましょう。


ゲーム理論という言葉があります。カードゲームやらボードゲームやら、戦略が問われる場面でいかに効率的な、合理的な意思決定を行えるのかという、意思の選択に関わるロジックです。これに基づいて経済活動を行えば、まず安定した勝ち筋を狙えます。勝つ、という感覚すら失せて、ゆくゆくはただ意思を選択する行為のみが繰り返されるようになるかもしれませんが。


このゲーム理論でいっとう有名なアポリアが、アルバート・ダッカーの囚人のジレンマです。囚人二人が自分の利益を最大限に期待して、罪を自白するという意思決定を行うと、黙秘しているよりも重い懲役がなぜか課せられてしまうジレンマです。非常に有名なストーリーですから調べていただくとして、私がここで言いたいのは、この理論は拡大すれば、広く社会全体に言えるのだということなのです。Aという会社がBという会社を出し抜くように利潤にがめつけば、社会全体の景気が落ち込むのです。そうなれば、Aの利益は束の間の夢にすぎないのです。これが欲目がちな行動にともなう実情のモデルです。


『狼と香辛料』においては、畑の話で囚人のジレンマが譬喩的に語られていました。


ホロという神が宿った畑は、豊作になることが約束されています。しかしホロは、農化学の進展によって生産性を増し、その酷使のために疲れてしまった土地を癒すべく、当然取らなければならない処置の一環として、ある年は不作にせざるをえなくなります。そうなると、畑に無理をさせるだけだった人間は憤慨し、神様を「気まぐれ」だとあてこするようになり、ちょうど教会がその権威をおとしめていた時期ということもあいまって、ホロという神も農化学による生産性の向上とともに不要な存在となりつつありました。


ホロはただ、人が求めるものが過剰だったために、その対価として畑を休めていただけなのでした。きわめて合理的な、合目的的な判断だったのですが、技術ばかりが進歩してしまい肝心な進歩がおろそかになってしまっていた人間には、その「気まぐれ」は「理不尽」と映り、地下道でホロが狼の姿を現すと、ヤレイはこう言うのでした。


ヤレイ「か、神はいつもそうだ。いつも……いつも、理不尽だ」


これは、村人の見方(=第二ステージ)からすれば真です。畑を耕すのに、役に立つから神を信仰し、畑に無理をさせる効率的な生産方法を導入したのです。一方ホロの側から見れば、人間の方で理不尽になっているとしか思えません。目先の利害にとらわれるあまり、なにか肝心なものが見えなくなっているのです。それゆえ、地下という人間の声がよく響くはずの場所で、まぎれもない伝達の神の獅子吼する声を聞いたとしても、取引に次ぐ取引に毎日を追われる彼らは自然のハウリングを聞きそびれてしまうのです。神とは、このようにして信仰されなくなるものなのです。つまりは、役に立たないということです。


その役に立たない小娘を、行商人たるロレンスは何故そばに置き続けるのか。なぜ危険をおかしてまでも、彼女を救おうとしているのか。


これは、ロレンスとホロが二人の人物ではなく、譬喩的に描かれた一人の人間だと思えば、構図を読み解くのが少し容易くなるかと思います。すなわち、商人という香辛料には、それだけで生きていくのはどうしても悲しいわけです。ロレンスは一人旅にほとほと飽いていました。誰かと手を取り合って、一緒に道を行きたいと思うようになっていたのです。


ホロという内側の存在は、その意味で商人の持つべき節度として是非ロレンスのような人間は伴わせねばならないわけです。『狼と香辛料』は、神なきこれからを行く若者たちに、冷ややかな商業的仮面だけではなく、時に柔軟な心をもって他人と接しろという、そういうメッセージが込められたお話に仕上がっているのでした。


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