カポネという第六ステージ
これまで私は、第六ステージという言葉を一度も使ってきませんでした。それは第六ステージという世界があまりに特異で、いくら言葉を尽くしても説明ができない境地だからです。第七ステージには神というわかりやすい指標がありましたが、第六ステージにはこれといって特に、目印となるものがありません。コインでたとえても、それは表のように見えて……実は裏のようにも見られているという、一癖も二癖もある世界なのです。
具体的に、これまで読んできた創作の中で例を挙げてみましょう。橋本紡の『半分の月がのぼる空』では、マスカラス&ドス・カラス兄弟がそれにあたるでしょうか。いや、なにもこのプロレスラーがそうだというのではなく、世古口兄弟にとって二人のレスラーは第六ステージであり、その二人が裕一の生死を握っている様子を見て冷や冷やしているみゆきや山西から見たマスカラス&ドス・カラス、あるいは『半月』の読者から見たその兄弟こそが、第六ステージなのです。マスカラス&ドス・カラスが第六ステージだというわけではないのです。ちょっとわかりにくいですかね。
上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』でも第六ステージを探ることはできます。末真和子にとっての霧間誠一が第六ステージでした。ここでも勘違いが起こりやすいのは、霧間誠一その人が第六ステージというわけではなく、あくまで末真和子にとって彼が第六ステージに在ったわけです。
語弊を承知でわかりやすく言うなら、人々の胸に輝く有名人こそ第六ステージといえるのです。
さて、『バッカーノ』に戻りましょう。この小説で第六ステージが誰に該当するかというと……アル・カポネという人物にほかなりません。カポネという、あるいは、カポネという浮沈、その落差……あらゆる角度から見られる対象としてのカポネこそ、この第六ステージという一風変わった世界観を私が策定した理由なのです。
人によって、人の見え方すら変わっていくものなのです。成田良悟はそれをカポネで示し、私はそれを、第六ステージと呼ぶのです。




