作家による世界の創造
さて、東浩紀は思想家であると同時に作家でもあるわけですから、彼にかぎらず多くのクリエイターが、実は自作の中で世界の見方を披露しているのではないかというのは察しがつくところだと思います。具体的に見ていくと、たとえば村上春樹なんていう作家は、「こちら側」と「あちら側」という言葉を頻出することによって、少なくとも世界を二つに分けています。でも二つじゃ少ないですよね? ついこないだ、世界の人口は無慮七○億人を数えたわけですから、もっとたくさん世界があってもよさそうなものです。
東浩紀の持論には「ライトノベルこそ文学である」という逆転の発想法がありまして、それが多くの一般人の中傷をほしいままにしているわけですが、ラノベ作家の代表例として私はいまここで西尾維新の名を挙げておきます。彼のデビュー作以降、続いているシリーズに《戯言》という一連の作品があるわけですが、この《戯言》シリーズにおいて、世界は大まかに九つに区分されています。一から九までを頭に冠した姓の財閥が世界を裏から牛耳っているという設定ですが、これは明らかに、西尾維新なりの世界分析といえなくはないでしょうか。牽強付会ですかねぇ。
かくいう私も、世界複数説を唱える者です。私の場合は、大ざっぱにいえば世界を二つに分けています――すなわちコインの表と裏――それが世界の全てです。
しかし私は、そこに更に巨大な区別を設けています。コインの二面を、七つに分けてそれを世界としているのです。
二面しか無いコインで、どうして七つの世界が指摘できてしまうのか。私はこれを、ステージによって説明しています。とりもなおさず、まず裏という一段目の世界があった時、それを乗り越えたうえで否定する表という二段目があり、やがてその表だったものが経過のうちに裏に返って、三段目を上がっていくという、そういう構造です。
私は世界を七つにわけて、それぞれの特徴を日々分析しております。その材料としていつも使わせていただいているのが、皆さんよくご存じのライトノベルだというのです。
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。この度私は、橋本紡『半分の月がのぼる空』、上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』、成田良悟『バッカーノ! The Rolling Bootlegs』、支倉凍砂『狼と香辛料』を一読したのですが、どれも素晴らしい作品で、思うところ、気付くところが随分と多く、また、世界に関しての作者なりの見方がはっきりと見て取れる好個のテクストのようにも思えたので、これらをもとに論を試みたいと思ったわけでして。
あまり字数が多くても読者のお目汚しにしかならないという考慮から、こってりとした論文スタイルではなくブログらしい箇条書きで連ねていく所存です。最後まで通読していただけると、筆者冥利につきますというか、なんかこう、鼻がひくひくと((ry
あ、もちろん多分にネタバレを含みますので、必ず前記した四タイトルを読んだうえで(←露骨なステマ)以下の駄文を読み流していってください。