酔いのもたらす幻想
ゆえに、オタクなら欣喜雀躍してこの話を聞けるだろうけれども、一般人にはなかなか響かないこのような説話も、日本人の動物カメラマンの目線からでも楽しめるようになり、整合がとれてまとまりもよいため、彼にも「実話」としてよく飲み込めるわけです。もちろんこれは、実話などではありませんね。正真正銘、話し手の――読者にはマイアーだと思わせぶりだった、フィーロの――作り話に他ならないわけです。騙り手は、巧みに嘘を織りなしたのです。その材料が、と言いますか、話を構築するタネ、もとい火事を引き起こすような起爆剤となったのが、手袋……ではなく、酒です。
お酒は英語でバッカス。イタリア系マフィアであるカモッラ風に呼ぶなら、バッカーノ。そうして聞き手が日本人で、鎧兜が作中に出てきて、柔道が出てきて幹部の一人にヤグルマという日本人がいるのは、明らかにバッカーノを日本語で発音しろということなのです。
強調される日本というのは、バカ騒ぎの正体こそ伝説じみた魔力を秘めた酒のもたらす酔いなのだという、つまりはアル中から着想をえたごく自然な小説なのです。酔っぱらいのクダを巻き放題なバカ騒ぎを、主観的に説明していただけなのです。つまり『バッカーノ』における「不死」を強引に説明しようと思えば、それはとりもなおさず「みんな集団酩酊状態だった」という、本当にしょうもないお話なのです。ゆえにシラフ状態の刑事たちは、「なんだこれは」と当惑を隠せないわけです。あれほど銃が放たれたのに、結局死んだのはガンドールのアジトの数名だけだったのですから。
しかしまあ、これは論拠に乏しい読みなので、反論も多々あることでしょう。不死身の酒に譬喩表現は無いと思うのは、それはけっこう。しかし酒とは、まぎれもなく文学において変身の装置として使われているのであります……中島敦の『山月記』では、トラになった李徴が袁傪に別れを告げる際、「虎にならねばなるぬ時が……酔わねばならぬ時が」と言っていることからもわかるとおり、トラとは酔漢の譬喩でした。他に名作では、ロバート・ルース・スティーヴンスンの『ジキル博士とハイド氏』において、ジキル博士のつくった若返りの秘薬こそ、まさに酒と読み替えることができるわけです。このように、創作とは酒のもたらす酔いによって、一味も二味も深みを増すのです。
成田良悟『バッカーノ!』では、さらに酒が魔性を得ますね。『山月記』でも『ジキルハイド』でも、酒という言葉は直接には出てこないのですが、『バッカーノ!』はタイトルにもなっているほどですから、酒が頻出するどころか、それをめぐって登場人物同士が波乱を起こすわけですが……そもそも何故、本作には酒と関わりのなさそうな悪魔が出るのか……悪魔は果たして、これまでの創作のように酔いが見せた幻と読んで差し支えないのか。
違いますね。本作における悪魔というのは、酔いの生み出した幻覚ではなく、禁酒法下という、第二ステージの世界が産み落とした幻想がそれです。酒それ自体が、魔性を帯びて輝いたのです。そこに酔いも手伝って、マフィア・チンピラ・泥棒・組織入り乱れてのお祭り騒ぎが始まるわけです。そもそもこの話が、本当に七○年前の出来事だったのかもいぶかしいのです。ひょっとしたら、日本人の動物カメラマンがフィーロの口から聞いたその前日の出来事だったのかもしれないし……あるいは、三○年前に旅立ったマイザー、エニスと結婚するのに五○年、出来事自体は七○年前というきりのいい数字から、おそらく騒動そのものはつい七年前のことを、つじつま合わせに気をつけてフィーロは語っていたのかもしれません。マイザーが旅に出たのは三年前、エニスと婚約したのは「ほんの」五年前だったのでしょう。ポール・ノアとエドワード・ノアも、もしかしたら同一人物を言っていたのかもしれませんね。真相は、酔いの中です。
説得力をもったフィーロの話にすっかり呑まれた聞き手は、最後にマイアーと会うわけですが、それすらも、事実マイアーであったのかどうかはわかりませんね。なにごとも、真実というものはわからないのです。神にしかわからない。だから動物カメラマンは、螺旋する偶然に感動したわけです。フィーロもお話をしたことによって少なからず感動したから、最後にちょっとした細工を施したわけですね。乞食に対して、彼が思う信仰についてを云々した際に、幹部昇格とあって気分がすこぶる良かったのもあいまって、彼にお金を恵もうとしたことの反復ですね……話を聞いてくれる人が、彼には必要だったのです。
……さて、それではフィーロの作った話の中に出てくる人たちを、事細かに分析していきましょう。




