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聞き手と語り手

成田良悟『バッカーノ!』は、非常に愉快なエンターテイメントです。『ブギーポップ』のように群像劇スタイルであり、かつまたそれらが緻密な伏線によって相互につながっているという、オタク心くすぐる内容でもあります。そのストーリー仕立ての妙もさることながら、キャラクターも大いに魅力的で、最高に愉しいお話です。


しかしこの小説も、一般読者が思っているように、あるいはエンタメを安心して読みたいと思っている方が読むようには、実は書かれていないのです。この小説も『半月』同様、第三ステージへのアンサーとして書かれている節があります。しかし、作者はここに出てきません。物語に出てくるのはあくまでキャラクターであって、第三ステージの人間を第四ステージへピックアップするような人物も出てきません。むしろその逆に、そうなることをやめさせようとさえ――人がステージを違えるのを、食い止めようとさえ――しているのです。具体的に読んでいきましょう。


まずこの小説は、一九三○年代の大恐慌期のアメリカを舞台にしています。大恐慌期というよりも、禁酒法が布かれていた時期といった方が、時代感覚として適当かと思えます。


つまりこの時代のアメリカは、酒が伝説的な、悪魔的な魅力の光をなみなみ杯に湛えて輝いていた時代だったのです。作中でも指摘されていますが、当時は老いも若きも、男も女も、皮肉なことに禁酒法がなくとも酒を飲んではならない子ども達でさえ、酒の魅力に憑りつかれていた、現代日本人の観点からすれば、げに不思議な時代だったのです。そんな時代を背景に、不死身となれる酒をめぐった、マフィアや泥棒、チンピラに刑事にFBI、わけのわからん黒い組織入り乱れての奪い合い――バカ騒ぎ――の様を描いているのですが、詳しくは本編をお読みいただき大いに楽しんでいただくとして(←お前は電撃の回し者か)、私が詳述したいのは、全体的な構図や構成もさることながら、その狙いや効果までも含めた、キャラの潤沢という点です。


まずこの小説は、完全なる独立したストーリーではなく、冒頭で語り手と聞き手が用意されています。読書を豊富に重ねてきた方ならば、もうこれだけの情報でこの小説のメチエを読み解けることでしょう。物語における語り手と聞き手の構図には、多かれ少なかれ必ず譬喩が織り交ぜられています。たとえば、あなたが他人にあなたの過去を開陳するとして、事実そのままを述べるというようなことがあるでしょうか。正直に、韜晦することなく、言葉に詰まることなく、淀みなくすらすらと、ありのままの体験談を、嘘を交えずに、自分に有益なお話に改竄することなく、フェアに披瀝することが果たしてできるでしょうか? もちろん自信をもって、「自分は脛に傷を持たない正しい人間だ」と言い張る人もいることでしょうが、ならばこう言い換えるとどうでしょうか。自分が体験したことを、あたかも監視カメラを覗くかのように適格に間違いなく遺漏なく人に伝えることができるものでしょうか。こう問い質せば、よほど記憶力に自信の無い人は押し黙るのではないでしょうか。


そう、人の語りとは、あくまで騙りであり、語り手とは、読者を欺く騙り手なのです。作家は意図的に、話の中にこれ見よがしな作意を残します。その作意を、嘘を読み解いてこそ、読書と言えるのです。


トリストラムシャンディーという言葉があります。第n次物語言説の語り手は、第n-1次物語言説の語り手でなければならない……小難しい言い方ですが、要は回想する人が、その回想の中に出てこないとおかしいわけです。それなのに、述懐する人は、自分の関知しえない不可知のはずの領域にまで足を踏み込んだ言い方をすることが多々あります。トリストラムシャンディーは、その名を冠する人物の回想形式の自伝小説なのですが、彼はまだ彼が誕生してすらいない精子の段階から物語を述懐しているのです。これはありえないですね、ほとんどが妄想で、嘘っぱちということですから。しかしトリストラムシャンディーほどまではいかずとも、「……あいつはこれこれこういう時、実はこう思っていたに違いない。そうだ、そうに違いないんだ」というような語り手なら、いくらでも眼につきますよね。


さりながら、ここでいう騙りとは、話し手の憶測の直喩であることが聞き手によって既に自明であることがら、ではなく、本来それがそうある形ではないのに、あたかもそうであるように語られている手法のことをいうのです。この手法を、デペイズマンといいます。


たとえば、エミリー・ジェーン・ブロンテの『嵐ヶ丘』なぞは、個性の強い家政婦によって語られる騙りであると江湖に読まれています。


日本の文学で挙げれば、中島敦の『山月記』が格好の騙りです。聞き手と話し手という構図が顕著な例でいえば、泉鏡花の『高野聖』が白眉だろうと思えます。『高野聖』では、高僧の若き砌の話として、ヒルの降る木、藪から顔を覗かせる大蛇、不気味な女に、それに群がる化け物たち……これらは、「薬売り」「女」という、僧侶という身分から見た時に不要とされる俗界の譬喩=デペイズマンであり、聞き手である普通の男にまでその時の高僧の恐怖を伝えるための、テクストだったわけです。話を語るとは、今風に言えば、面接試験で「盛る」ということです。良い悪いといったモラルの問題はともかくとして、当たり前に、普通にやられていることなのです。


『バッカーノ!』の騙りはどうでしょうか。カモッラの構成員を名乗る男は、日本人の聞き手が風変わりだったということで、不死になれるという酒をめぐった七○年前のバカ騒ぎのお話をします。ものすごく突飛な内容です。荒唐無稽というか、ぶっ飛んでます。第一話し手はどこの視点で物語を語っているのか、そんな細部にいたるところを詳細に知っているのは、少しおかしいんじゃないのかと疑いを禁じ得ないのですが……この疑義は、作中のとある設定によって払拭されますね。すなわち「不死者は知識を、我がものにすることができる」……これが不思議と、騙りに正当性を与えているんですね。


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